昨日発売の週刊文春、1月26日号、ジュリーがいたの連載はあるのかなぁと思ってチェックすると、最終章最終回。
コンビニでみかけて即購入、
週刊文春を衝動買いするのは、この連載が始まってから、、、
沢田研二ルネッサンス⑤「還暦を迎え、八十曲をフルで歌いきった瞬間、沢田研二ルネッサンスは始まった」で
最終回は「ジュリー祭り」から映画「土を喰らう十二カ月」まで。
告知では、この連載をまとめた単行本は初夏に刊行予定とか、、、、
どのように再編集されるのか、単行本ならば随分分厚くなるだろうなぁと、、、
その前の最終章「沢田研二ルネッサンス④」
「ジュリーのイメージを大切にしてほしい」周囲の善意の忠告を払いのけながら、沢田研二は不遇の20年を歌い続けた。
葛藤の時を自棄にならず過ごすことができた理由とは。
が見出しでしたね。
冒頭
湾岸戦争が勃発し、ソ連が消滅して東西冷戦構造が壊れた1991(平成3)年に、沢田研二はデビュー25年を迎えようとしていた。
この年、NHKで「沢田研二スペシャル・美しき時代の偶像」が放映されたらしいが、残念ながら未見、、、
再放送かDVD化を期待したいところですが、、、
上岡龍太郎が語ったこと
あの頃は、ACTシリーズとアルバム制作とコンサートツアーの三本柱。
同番組の第3部の司会者が上岡龍太郎で、ともに京都市左京区出身
・ジュリーは知性と感性の両方から支えられているので、神から選ばれた存在
・ジュリーさえ存在すれば何をやってもいいやないか。
・時代を引っ張っていくのはジュリーで、時代に合わすジュリーなんてみたくないんでうすよ。
上岡龍太郎のジュリー論になっていましたね。
ここはそれ以降の活動について、今の上岡さんのコメントもあればといったところですが、、、
4年後にとんで、1995(平成7)年12月のアルバム「SUR←(ルーシュ)」をリリース。「今僕は倖せです」以来、23年振りのセルフ・プロデュース作品で、以降は全てセルフ・プロデュースとか、、、
また、1992(平成4)年から2001(平成13)年まで、音楽番組での過去の映像の放映を許可しなかった一方、1997(平成9)年頃トヨタやキリンビールのCMで出ていたとか、、、
このあたりの状況は本人に聞くしかないのでしょうが、、、、
コンサートでも空席が
21世紀になってCDに顔写真を載せることをやめる一方で、テレビ解禁
2003(平成15)年7月の毎日新聞記事で「テレビに出たが、やっぱりしんどくて、居場所がない。生で歌い続けるしかない」
ですが、かつてのようにCDは売れず、コンサートや舞台にも空席が目立った。
ここから10年後に噺はとんで、、、
2013(平成25)年2月9日放映された「吉田拓郎の千夜一夜」
吉田拓郎が「僕、生涯後ろでギター弾きたいと思っているのは、沢田研二と中島みゆきだけなんですよ。」
𠮷田拓郎って、沢田研二さんや中島みゆきさんのバックでギターを弾いたことがあるのかなぁ、、、
不言実行して欲しいところですが、、、
自棄にならなかった理由
その理由、気になって読んでみると、田中裕子さんだった(笑)
人と違うのを受け入れる
人と違うのを受け入れた理由も、田中裕子さんだった(笑)
1994(平成6)年「阿川佐和子のこの人に会いたい」でタイトルが「田中裕子の生き方に感化されてます(笑)」
で、これが週刊文春の連載だったw
このとき、沢田さんは46歳、週刊文春の連載ならば、本人への取材があってもはずなんだなぁ、これが、、、
シメは
沢田研二は酒を飲んでも溺れず、クスリなど必要としない。
かけがえのないパートナーと日常を生きて、復活の時を待っていた。
いやぁ、まいったなぁ
確かに田中裕子さんのパートナーとして果たした役割も大きかったのかもしれない、、、
それならば、彼女自身は無理としても、もっと関係者の証言があってもよかったし、不遇時代をささえてきたジュリー女子達の声も聞きたかったところですが、、、