Marlene Dietrich Her Own Song

『真実のマレーネ・ディートリッヒ』(仏・独・英/2001年)。
彼女の娘が書いた伝記をもとに、マレーネを知る人々のインタビューを加えて、実孫が制作したドキュメンタリー。

マレーネ(1901-1992)は、映画『モロッコ』に出演して大スターになった女優、ということしか知らなかった。
だから、シルクハットをかぶって細い眉の艶やかな表情でこちらを見ている、男装の麗人のイメージだけが、私の中にあった。
(私にとっては)現実感のない大スターだから、この人に私生活というものが存在することも知らなかった。
それが、これほどにも人間くさくて、強くて、不器用で、そして同じくらい悲しい女性だったなんて。

ドイツ貴族の家に生まれたマレーネ・ディートリッヒは、ベルリンでデビューした。
1920年代のドイツ。
第一次世界大戦の渦中にありながら、ナチス台頭の戦禍とはまるで無関係のような銀幕の世界で、
彼女は舞台や映画で女優のキャリアを重ねていく。
夫も娘もいた彼女を連れて後に渡米し、ハリウッドで彼女の代表作となる『モロッコ』を撮った、ユダヤ人映画監督のジョゼフ・フォン・スタンバーグ。
彼によって、マレーネはアメリカでのキャリアも手にする。
その後1930年代後半になり、彼女の名声に目をつけたナチスが、マレーネをふたたびドイツ映画スターの座に据えようとドイツ帰還を打診する。
しかしマレーネはこれを拒否し、ドイツ国籍を捨て、アメリカの市民権を取得。
時代のいたずらで、祖国と敵対する国での人生を歩み始めることになる。

マレーネは、オーディエンスのみならず、時代の先端をいく作家や俳優たちをも魅了した。
監督スタンバーグをはじめ、フランス人俳優のジャン・ギャバンも、恋人だった。
そして、戦場の最前線をゆく兵士たちも、彼女はとりこにした。
アメリカ人となったマレーネは、GIのユニフォームを身につけて、「連合軍」の兵士を慰問し続けたのである。
アフリカからアラスカまで、時には凍傷も負いながら、彼女は慰問の旅を3年間続けた。
彼女は行く先々で、「リリー・マルレーン」を歌った。
ナチスに勢いがあった時期、ドイツで流行した歌、リリー・マルレーン。
酒場のいい女への想いを綴る、たわいもない歌だったけれども、
ナチスも劣勢となった大戦末期には、不思議なことに、兵士たちは敵味方なくこの歌に耳を傾けた。
ドイツとアメリカの間で揺れつづけたマレーネが歌うというだけで、それはまぎれもなく祈りであり、反戦歌であった。
その彼女も、恋人ジャン・ギャバンとは、彼の仏軍従軍というかたちで離れている。

終戦後も、彼女は各地でリリー・マルレーンを歌った。
かつての祖国ドイツで歌ったこともあった。
ドイツ語で歌うことを拒否されたこともあった。
映画の中で、「花はどこへいった」を歌う壮年の彼女の姿も映る。

花はどこへいったの
少女がみんな摘んでしまったの
少女はどこへ行ったの
みんな若い男たちのもとへいったの
若い男たちはどこへ行ったの
みんな兵士としていってしまったの
兵士はどこへ行ったの
みんな墓場へ行ってしまったの
墓場はどこへ行ってしまったの
花が一杯咲いている
花はどこへいってしまったの
少女がみんな摘んでしまったの

マレーネを親しく知る人は、こう言った。
「彼女の歌には、怒りがありました。
だから、その声を聴くと、悲しくなります」
彼女は、怒りを押さえつけた表情で、搾り出すように歌っていた。
演技でもなく、数奇な人生を歩んだマレーネにしかできない表情だろう。

国民、芸術家、そして兵士たちの恋人であり、癒しの母でもあったマレーネ。
「私の原点は戦争」
彼女の言葉は、その人生を一言で言い表している。
ヒロシマそしてナガサキに原爆が落とされたことを、後にマレーネは、
「この無益な戦争を終わらせるためには必要だった」
と言った。
無益な戦争を終わらせるために、無益な原爆が必要だった――。
人間として、女性として、マレーネ・ディートリッヒという人の人生に敬意を抱いたと同時に、
この衝撃的な言葉にだけは、日本人として泣けた。

本当に孤独な人は自ら温もりを求め、
本当は幸せなのにそれに気付かない人は、自ら孤独を求めるのかもしれない。