近松の浄瑠璃には、今の大阪キタのエリアが本当によく出てくる。曽根崎、堂島、北浜、高麗橋、中之島…。毎日、私が一日の大半を過ごしている場所。剃刀を携えて最期の場所求めてそこを彷徨う、結ばれることができない若いカップルが大勢いたと思うと、こんなところで本当にいいんですか、と思ってしまう。でも、国内あちこちに検問所があるような時代だったのだから、仕方がなかった◆男と女と遊郭。当たり前だけれども、今と昔では意味や立場が違う。江戸の昔は、家柄や身分、血縁の絆が堅固だった。商家同士の政略結婚なんてザラだし、女性が金ウン両で当然のように身請けされる時代。男も女も自由な恋愛ができなかったのだ。幕府が遊郭を公認したというのも、それだけ非情な世の中だったのだ。郭という閉ざされた空間での後ろ向きな恋。文楽は脚色されているものとはいえ、太夫(高級遊女)の身のこなし方や人のあしらい方は、女の私でも目をみはる。特に大坂は商いの街だから、家にキズをつけるようなことはご法度中のご法度だったろう。そんな世界では、恋愛自体、一目を忍ばなければならなかった。遊女との恋はほとんど犯罪だったし、不倫なんかは大罪◆近松の物語は、「美しい遊女と若い商人との叶わない恋」という図が多い。男は、「家」のせいで、想う女性と夫婦になることができない。女は、遊女という立場である以上、過ぎたことができない。お互いそれは頭ではわかっているけれど、どうにもならないどうしよう、と心中を選んでしまう。「一緒に死ねば、永遠に結ばれるから」。ひとつ不思議なのは、では、お家同士の合意のもと、男との縁談がもちあがった女性はどうなるのか。心中の裏には、こうしてまた別の人生が隠れている◆昔はこうして心中が流行った。事情は違うが、時代が変わっても心中が流行っている。サイバー心中。…この背景の違いがすごい。自由のない時代に生まれ、情を交わしながらその運命を受け入れざるを得なかった不幸と、自由はありながら、面識もない者同士、自分で運命を切り開く術をもたなかった不幸と。維新、数え切れないほどの戦争。人間の人生観が変わらざるを得なかった出来事が、それはたくさんあった。江戸時代と現代、約300年の時空を人間だけが互いにタイムスリップしたら、多分狂い死にすると思う。