ジョルジェット・ジウジアーロ 作 アッソ・デ・フィオーリ(後のいすゞピアッツァ)1979年ジュネーヴショー
一昨日の23日(日)に投開票が行われた東京10区、福岡6区の衆院補選では、両区とも自民党議員が当選なさいました。
幸福実現党から出馬の吉井としみつ候補、そして西原をただひろ候補応援していただき、皆様本当にありがとうございました。
私も知らなかったんですが、この日は他の地域でも地方選が行われていて、なんと鹿児島県薩摩川内市議選において、幸福実現党県本部副代表の松澤力氏(34)が当選しました。
http://ameblo.jp/ayh777/entry-12212831402.html
これで幸福実現党の地方議員は、先週16日の新潟県阿賀野市、横井もとひろ氏の当選に続き、9人目となりました。
http://ameblo.jp/akaruimirai77/entry-12210466763.html
少しずつ、本当に少しずつではありますが、幸福実現党の訴えに耳を傾け、ご支援くださっている方が増えているのを、心の底より嬉しく思いますし、また感謝の思いで一杯でございます。
幸福の革命近し。
幸福の革命は減税の革命であり、規制緩和の革命であり、自由の革命であり、神の子仏の子の平和の革命でもあります。
革命は、暴力でなされるものではありません。それは悪魔が演出する”悲劇”でしかありません。
真の革命は、神の子が本来の願いを、心の底から叫ぶことで成されるのです。
さて、私の大好きな自動車の世界にも、民主主義革命と呼べる事例がございます。
それが今日の主人公、いすゞピアッツアで成されているのです。
そしてそれは、日本の頭の固い役人を変え、多くの規制緩和や、その後の減税にも繋がったのですね。
ジョルジェット・ジウジアーロ氏
いすゞピアッツアは、1981年~1991年まで生産された、スポーツクーペで、デザインは、イタリアの天才デザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロ氏です。
ジウジアーロと言えば、フォルクスワーゲンゴルフやBMW・M1などを手がけ、ランボルギーニ・カウンタックなどを手がけたガンディーニ、フェラーリBBなどが代表作のフィオラバンティーと並び、世界のカーデザイナーの三大巨匠と呼ばれる御仁です。
ジウジアーロといすゞの付き合いは古く、ピアッツアの前の作品、1968年に販売された117クーペのデザインもジウジアーロ作です。
いすゞ117クーペ初期型(通称ハンドメイド)
巨匠ジウジアーロは、117クーペを製造したいすゞ自動車の姿勢に、激しく感動したとのこと。なぜならば、いすゞは、ジウジアーロのオリジナルデザインを、可能な限り忠実に再現しようとしたからです。
いすゞは、フェラーリやランボルギーニなどのような、少数スポーツカーメーカ-ではなく、量産車を作るメーカーです。
しかもフェラーリ-などのスーパーカーメーカーは、ボディを自社製造しているわけではなく、ピニンファリーナ社やベルトーネ社といった、ボディー製造メーカーに委託しています。
いすゞは果敢にも自社製造を試みましたが、当時の金型技術では、ジウジアーロのオリジナルデザインを再現できず、職人が手作業で作り上げたんですね。
通常カーデザイナーというのは、製造に当たっては、製造コストなどの関係から、かなりデフォルメされることは、当初から織り込み済みのようです。
しかし日本人は、それを現実化しようと努力するわけで、ジウジアーロといすゞは深い友情で結ばれたということで、117クーペの後継にも、ジウジアーロ先生、やたらと力のこもった作品を提示してきました。
それが一番最初の画像、イタリア語でスペードのエースを意味する、アッソ・デ・フィオーリです。
ジュネーヴ自動車ショーで出品されたアッソ・デ・フィオーリは、当然日本でも話題となり、117クーペの伝説もあって、当然、いすゞは製造してくれると、自動車ファンは心待ちにしていたんですね。
エンジンやボディの基本骨格などは、古いジェミニを流用していましたけれども、117クーペ同様、デザインだけでも超一流品ですから。
いすゞジェミニ
しかしアッソ・デ・フィオーリを、いすゞがピアッツァとして販売するのに、大きな障壁がありました。
当時の法律で、ドアミラーが許可されなかったのです。
当時の国産車は、フェンダーミラーと言って、ボンネットの縁の部分にバックミラーしか許可されていなかったんですね。
これには、巨匠ジウジアーロ先生も大激怒したとか。
そりゃぁそうでしょう。
117クーペ同様、極めて難しいボディーラインを、いすゞは何とか、製造できるまでにしましたが、アッソ・デ・フィオーリ(ピアッツァ)は、サイドガラスの形からドアの造形に至るまで、どう見たって、ドアミラーを前提にしたデザインです。
日本の運輸省(現国土交通省)の扱いに激怒したジウジアーロ先生、いすゞの担当者の目の前で、殴り書きのように、フェンダーミラーのデザインを書き殴ったとか。
そしてできあがった、ピアッツァがこれです。
アッソ・デ・フィオーリを知る自動車ファンは愕然としました。
また知らない人たちも、「なんか変?」と思いました。
そりゃぁそうです。
緩やかに上昇するボンネットラインを持つピアッツァに、フェンダーミラーを付け、法規に則ってドライバー目線に高さを合わせると、とんでもなく足の長いバックミラーが上に突き出る形状で、うさぎの耳みたいです。
元デザインが素晴らしく、またそれを、忠実に再現しようとしているからこそ、フェンダーミラーの不格好さが際だったのです。
ピアッツァ販売開始から、それまでは少数派だったドアミラー派だけでなく、多くの国民から、ドアミラー待望論がわき上がりました。
運輸省は、「ドアミラーだと、ドライバーが後方確認にるのに、大きく視野を動かさなくてはならず危険である」ということで、フェンダーミラーしか許可していなかったようです。
しかしそういう、「安全面」に基軸のある規制であるならば、輸入車も規制しなければいけませんよね。
そう、フェラーリBBだって、ランボルギーニカウンタックだって、日本に上陸する際には、フェンダーミラーにしないといけませんよね。
アメリカなどは、そういうスタンスです。
事実、ランボルギーニカウンタックですら、アメリカ基準の大きく、高い位置のバンパーが付けられています。(笑)
しかし日本の場合、輸入車は、ドアミラーOKだったのです。
これで世論は沸騰しました。
なぜならば、ドアミラーが危険ということではなく、それは単に、役人の前例主義だったからです。
「ピアッツァに、ドアミラーを許可せよ!」という電話が、連日運輸省に鳴り響いたという伝説もあります。
結局、運輸省が国民の声を封じきれず、ドアミラーは許可され、今に至るのですね。
いすゞピアッツァは、日本自動車社会における、民主主義革命児と言えるのです。
大化の改新然り、源平合戦しかり、戦国の終わり然り、明治維新然り、革命というものは、成就するときは一瞬です。
そして歴史的に見ると成された後、後戻りしないという特徴があります。
それは恐らく、革命前に価値観の変革がなされて、水面下では全国に浸透しているからだと思います。
そして旧来の為政者は、それに対応するのにキュウキュウとしているのでしょうけど、あるきっかけをもとに、それが決壊する堤防の如く、抑えきれなくなるのだと思います。
「増税より、減税の方が、国民も国家も豊かになる」「日本の安全は、きちんと守った方が良いに決まっている」「誰もが豊かに、幸福になれるチャンスがある社会が良いに決まっている」
これが当たり前の価値観になる。
それが、幸福の革命です。
幸福実現党へのご支援を、今後ともよろしくお願いいたします。
それでは、またのお越しを。