ブリエアの解放者たち
ドウス昌代著
文芸春秋、1983年版
意外な解放者
ありえない解放者
このハワイの日系兵を中心にした「ブリエアの解放者たち」を下敷きにドキュメンタリー映画ができているのを知ったのは、この機会だからこそユーチューブにアップされてそれを見つけたのかもしれない。
いつ制作されたのか制作年月日が表示されていない。
この作品が文芸春秋誌に連載されたのが、1982年5月号から12月号まで。(著書より)
2010年作のドキュメンタリーと同じテーマである「442」を扱っているのに、別の印象を抱く。
奇しくも昨年、akazukinブログにドウス昌代の処女作「東京ローズ」(1977)を参考に書いたことを思い出される。
その時の印象は、その後の「東京ローズ」観がこの著書によってけん引してゆくことに少々違和感をもったからで、他にこれといった資料がなかったことも関係するだろう。
デビューしてからのいきなりの受賞、その後の作品の日系人を扱ったテーマ、連続受賞。
この作品も第44回文芸春秋読者賞をとったはずなのだが残念ながら、当時のことは知らない。
なにより、ウキペディアの特記すべき記述が何もないに等しい(笑)のが、事実の陰にプロパガンダ有りと見てしまう原因である。
それに輪をかけて、歴史学者の特に日本近代史専門のアメリカ人のご主人の助言が影響を与えていると想像している。
「ブリエア…」の場合、「東京ローズ」と違うのは、その当時の実体験をした証人が多いことである。
だから、別の切り口を見せてくれている。
とくに、米国在住という強みとこれを取り上げ始めた日本人の作家より早くに取材したことで、インタビューのあとで天寿を全うした高齢の証言者や多くのアメリカ人へのインタビューが実行されているのは、別の見識を与えている。
ドキュメンタリー
アメリカ陸軍第442歩兵連隊
日系二世たちの第二次世界大戦
http://www.youtube.com/watch?v=IpjaQ8lJqmY
(ビデオ、1;11;08)
というタイトルではじまる映像版「ブリエアの解放者たち」を見ていると、アレッという場面にでくわすのは、上記のせいかもしれない。
映像は書籍の記述をかなり正確に追っているようだ。
こっちの聞き間違えか、見間違えか、それが確かめたくて、原著をあたってみてそれがわかった。
以下引用。
そんな(1943年)十月下旬、(陸軍次官)マックロイの元に一通の手紙が回ってきた。 戦時情報局(OWI)局長エルマー・デービスが十月十五日付でルーズベルト大統領に宛てたものだ。 大統領は陸軍長官スチムソンに意見を求めた。 スチムソンはそれをマックロイに回したのだ。
デービスは、「日本軍の東南アジアに於けるプロパガンダは、この戦争を人種的偏見から出た人種戦争としている」ことを問題とした。 日本軍はすでに盛んに日系人強制収容所の事実を宣伝(プロパガンダ)に使っていた。
そのためデービスは大統領が自ら日系人の忠誠心を認める重要さを促している。
「二世部隊を組織することは、OWIが東南アジアに於いてカウンター・プロパガンダとして使える非常に有効な手段といえます」
「二世はアメリカ軍にとって必ずや優秀な部隊となると信じます」と文書は結ばれている。
(同書、87頁)
「ジョー高田君戦死す 元朝日野球団のスター」
日本語新聞(ハワイ・タイムズ)の見出し
タカタの戦死状況ではどのように感状を書こうと、普通は殊勲十字賞を出さないはずだ。 軍事専門家の中にははっきりとそういう者がいる。 ならばタカタは米軍にとっても好都合の最初のヒーローだったのか。 日系志願兵からなる第四四二連隊の編成が“日本軍へのカウンター・プロパガンダ”のためとして踏み切られたことを考えると、その可能性は十分にある。
(同書、132頁)
陸軍長官スチムソンが第百大隊の初戦を公にしたのは、ボルトウリノ渡河の前の十月二十一日であった。
それを報じる新聞には第五軍司令官クラークの言葉もある。 AP通信提供の見出しは、「第五軍は今日、日系兵からなるアメリカ部隊―真珠湾からのモルモット―を賞賛」
と、第百大隊が日系兵の忠誠をためすテスト・ケースであることを言い当てている。
(同書、156頁)
ニューヨーク・タイムズ紙の論説は日系兵から逆に彼らの祖国、日本軍の兵士を結論している。
「人をして残虐な行為にいたらしめるのは、日本人の血だからでも、他のいかなる民族の血でもない。 教育と育つ環境こそその因だ」(一九四四年九月二日)
その後の戦闘で日系兵の戦功がさらにずば抜けて際立ち、注目を浴びれば浴びるほど、日系兵を敵国日本の兵隊と比較する記事が目に付く。 軍関係者を初めとする人々の関心もこの一点に集中している。 言葉を換えれば、太平洋で玉砕を続ける敵兵を、同じ血を持つ日系兵を通して、より正確に分析しようとしたというべきか。
では、彼らの頭の中にあったその日本兵のイメージとは一体いかなるものだったのか。 一九四三年のインファントリー・ジャーナル誌には、「超人間的な忍耐力を叩き込まれ、最後の一兵まで勇敢に戦い、降伏するよりは迷いもなく死を選ぶ。 太平洋戦線の米兵をして一種の畏敬の念をも抱かせている」日本兵に関する一文がある。
―死の掟を吹き込まれているから、いわば気違いのごとき戦士であり危険きわまりない敵だ。 また、彼らの残忍さは、上の者の部下に対する過酷さから来ているのではないのか。 ささいなことで殴られ罵倒され抑圧され続ける兵は、神の子としてそのすべてを戦場で吐き出す。天皇を神と信じているとすれば、彼らは多分いかなることでも信じる民族ということか。 一方、日本兵はストレスが加わると極度に神経質となり、感情的にバラバラとなる。主導権を失い、計画通りに事が運ばないと、直ぐに混乱し士気が下がる。―
要約すると以上のような観察である。
第四四二連隊を編成すべきか否かで、軍内の意見が分かれていた頃のことだ。 「どっちみち日系兵にはあまり期待は寄せられない」という声が強かった。 何故なら、米軍には日本軍のごとき階級の上下の酷さがない。そのため、彼らが抑圧されたエネルギーを爆発させることもないはずで、狂信的な大和魂は民主主義の制度下では期待できませんというわけである。
(179~180頁)
真珠湾攻撃で日米開戦となった直後、軍は外国人扱いの4Cのカテゴリーとして日系アメリカ人を徴兵制から閉め出している。 ところが、日系青年に対する選抜徴兵制度は、その一九四四年一月一日付ですみやかに復活していたのだ。
第百大隊が死傷兵を出し続けている時だけに、公表にさいして、「仮にもこの徴兵制復活が日系人皆殺しの印象を与えてはならない」(陸軍省参謀部メモ、一九四三年十二月二十二日)と、軍関係者は誤解のないように注意を促している。 とはいえ、徴兵制復活の再検討が急に具体化したのは第百大隊が初戦を終えた時である。
(217頁)
新しく彼らのボスとなったダールキスト(Major General J · Darukisuto)少将は、前日も出て来られてはかえって迷惑な最前線まで足を進めると、細かな命令を出し続けた。 戦闘記録書によると、その日まず第二大隊の本部へ回って数々の指示を与えた後、第百大隊のA高地へと回っていることが分る。
師団長ジョン・ダールキストは太い首が頑丈な肩にのめり込んだような、大きな男であった。 戦前はフィリッピンにいたことのある軍人で、その後は英国でアイゼンハワー元帥の司令部に長い。 いわば元帥のお気に入り(ペット)の一人であったと聞く。(略)
この時、(第34師団長)ライダーが“ベスト・ユニット”と称賛した日系部隊の前に立ちはだかった敵は、ボージュの森とその天候と、ドイツ兵だけではなかったのである。
(中略)
(ダールキスト)師団長はオオタケ少尉に、「直ちに攻撃せよ」の命令を出すと、監視するようにその背後から目を光らせた。オオタケは自分の中隊とまず連絡をを取るという常識的なことさえしていない。 正確に言うならば、その暇さえ与えられてはいない。 オオタケはそういうことを怠る将校では決してなかった。 それほど性急に師団長はオオタケの後からせっついたことになる。わずか一小隊で、敵の機関銃が待ち構える前方へとオオタケの小隊は足を向けている。
(同書、241~242頁)
ちなみにMajor General J · Darukisutoで検索しても何も引っかからない。
師団長ダールキストの命令通り、C高地を正午までに取った第百大隊へ(第442連隊長)ペンスから連絡が入ったのが、午後二時十五分。敗残兵を帰訴するよりも第二大隊が戦闘中のD高地へ大隊の全兵力を移せとの師団司令部からの重ねての命令だった。
だが、麓に敵の戦車が見えていた。 敵が兵力をまとめて反撃に出るチャンスをうかがっているのは余りにも明らかだった。 シングルス大隊長は、AとB中隊が再び戦闘中にあり、今すぐ高地を離れるのが不可能だと、三十分後に連隊本部に送信している。
だが、ペンスからの説明に師団長は問うた。
「C高地は取れたのじゃないか」
「イエス・サー。 しかし、高地の北側にまだ敗残兵がいます。 第百大隊が今引き上げるとC高地を再び奪取される可能性があります」
「そうは思わん。 一中隊だけ残して、直ちに引き上げるんだ」(同日十五時二十分)
この命令が再びシングルスに入った直後、キムが連隊本部に自ら連絡を取った。(引用者注;キムは日系部隊のただ一人の朝鮮人で作戦将校)
「師団からの命令っていうのは意味をなさんじゃないですか。 まだ戦闘中なんだ。多数の残敵が隠れてるんです。 徹底的にここで叩いておかんと押し返されます」
「とにかく残りの大隊を引き上げてくれ。 師団長の命令なんだ」(同日十六時十五分)
ペンスは、彼らしからぬ口調で付け加えた。 「お願いだ(プリーズ)。キム『イエス・サー』と答えてくれ」
哀願とも聞こえたという。こういう部分は戦闘記録にはさすがに残ってはいない。 だが、キムの記憶には忘れ難い強烈な出来事として焼き付いた。
その時、キムと話すペンス大佐の目の前には師団長ダールキストがいたのである。 それをペンスからキムが聞くのは、勿論、後のことである。
(中略)
戦闘記録書のペンスと師団長の会話にあるごとく、一個中隊を残すのならまだ納得はいった。 だが、C高地から撤退の命令が第百大隊に入った時点では「全兵力を即時に引き上げよ」と変わっていた。 キムとシングルスだけでなく、サカエ・タカハシ大尉も確かにそう記憶している。
案の定、他の師団の連隊が翌日、C高地へ上ろうとした時、第百大隊に代って頂から見下していたのはドイツ軍であった。C高地を奪い戻すのに、百余名に及ぶ死傷兵を出す結果となっている。
(同書、260~261頁)
上記の会話は、第442連帯の交信記録から。
ビデオには、その映像が写し流れる。
さらに、
「ビファンテン村を取れ」の命令が入っているのは、一夜明けた二十二日の早朝だ。 第百大隊だけで村へ下りてしまうことは味方からさらに離れ、援護の長距離砲も届かない距離に行くことを意味した。 また、背後に待ち構える敵に、村を見下す守備位置を即座に奪取されることでもあった。 作戦上、そのような位置の村を取るのは無意味に等しい。 味方が続いて布陣するまで第百大隊がいる尾根を守り抜くことこそ不可欠のはずだった。
(中略)
翌十月二十三日の早朝、……前夜の闇に紛れて出立した負傷兵の一行が敵兵に包囲されている。 キム大尉やA中隊長サカモト中尉たち重症兵十一名に、六人の護衛の兵だ。
さんざん道に迷い、夜が明けた時でもほとんどビファンテンを離れていない場所にいた。 護衛の一人であるスタンレー・アキタ一等兵(二十一歳)によると、休息して今一度方角を考えてみようと斜面に腰を下ろすやいなやのことだったという。 一行を見下す位置に敵兵の姿が動いた。 ハッとして見回すと、右にも左にも、ライフル銃を構えた敵兵がいた。 一個小隊と見受けられた。中で将校らしいのが、
「ハロー」
と声を掛けて来た。 担架をかついでいた二十八名のドイツ兵捕虜の方が、うんざりした顔で動こうともしない。 また銃を握らねばならんのかといわんばかりだ。 それを見て取った護衛の日系兵たちは、自分たちを囲んだ敵兵に口々に呼び掛けた。
「銃を捨てて俺たちと一緒にアメリカに来ないか。その方が命拾いできるよ」
反応があるかに見えた、とアキタは語る。 だが、さっき声をかけてきた将校が「ノー」と首を振った。 アキタの上官であるハギワラ軍曹はこれまでと思って、担架の上で身動きもならないサカモト中尉にその旨を告げた。 サカモトはかすかに目を開けると、キムの了解を得てくれと弱々しい声で言った。
手足の先の傷というものは、一見そうとは見えないが、神経が集まる過敏な場所だけに実は堪えがたい激痛を伴う。 キムはすでに数本ものモルヒネを打たれて、意識が朦朧としていた。 にもかかわらず、耳元で囁く軍曹の言葉に、よく回らぬ舌で、
「俺はごめんだ」
と答えた。 そばにいた衛生兵のリチャード・チネンに「手を貸してくれ」と言った。 どうなることかとハギワラ軍曹の動きを目で追っていたアキタは、意識を失っていると思われたキム大尉が素早く担架から身を起こすのを見た。 と思った時には、アキタの脇を駆け抜け、森の下生えの中に飛び込むように姿を消していた。 チネンとハギワラが続く。
「どうしたんだ?」
と声を掛け終わらぬうちに、チネンたちの姿もなかった。 敵兵の目を欺く瞬時の出来事だった。 俺も、とアキタが駆けようとした時、包囲の輪を縮めつつあった敵兵が目前にいた。
(同書、264~269頁)
このエピソードは、上記のドキュメンタリーでビフォンテン村のその場所に寄贈されたプレートに見ることができる。 著書にはない。 いつ寄贈されたのかもわからない。
「1944年10月23日 この教会の近くで負傷した第100大隊の英雄キム大尉が捕えられたがチネン衛生兵と共に逃げることができた」[ビデオから抜粋]
誰がこのような内容で寄贈したのかわからないが、特記すべき内容のない村で日系兵との出会いの事実を記念したのだろうか?
ビデオにもこのプレートについてこれ以上の詳しい説明はない。
このように、アメリカ側の日系兵を見る目や態度が遠慮なく書かれているのがこの本である。
害のない程度の遠慮だろう。
そして、窮地に追いやった原因である師団長ダールキストはなんのお咎めもなかったようだ。
最後のしめがこれである。
それから数年を経ての話である。 軍に残っていたシングルスは、ある軍事式典で今や念願の四つ星の大将となったかつての師団長ダールキストと同席した。 シングルスを認めると、大将は自分の方から手を差しのべ機嫌よく言った。
「過ぎたことは過ぎたことだ。 水に流そうじゃないか」
ボージュの森での日系部隊の使い方に明らかな行き過ぎがあったのを、ダールキストは自らよく承知していたのだ。
(同書、320頁)
先にも書いたが、「Major General J · Darukisuto」で検索しても何も情報を得ることはできなかった。
この脱出劇のあと、「失われた大隊」を救出しに向かうことになる。
どこでも取り上げられるこのエピソードは、この第442連隊を決定的に有名にさせた。
しかし、皮肉なことに、
「失われた大隊」は敵に囲まれた時の兵力二百七十五人、救出された時が二百十一人である。 この二百十一人の命を助けるために、いかなる数の犠牲が第四四二連隊から出たかを考えても日系部隊の心痛は想像に難くない (皮肉にも、この犠牲のもとに生きのびた大隊は、約一か月後、ドイツの国境近くの戦闘で全滅といえるほど多数の死傷兵を出すに至っている)。(『ブリエアの解放者たち』319頁)
助けるために犠牲を払ったのに、その救出された方も死んでしまった。
何のための勲章か?
結果ではなくて、そのとき、そのときの行為に対して表彰されるのか?
2010年作、映画「442」では、442のベテランがこういっている。
「この勲章は死んだ仲間のためにつけるのです。」■