東京ローズ残酷物語(7)「ゼロ・アワー」 | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

日本の敵対放送の主力要員は誰か。


五島勉の本によれば、すでに潜り込んで日本側の信頼を受けていた、同盟国のドイツ人、シュミット夫妻。


それに、捕虜になった将校たちと、ヒルデによって集められた混血や日系人たちである。


準備が整ったのは、年明けて1943年はじめ。


それから日本放送協会の対連合国向けプロパガンダ放送番組「ゼロ・アワー」がはじまった。


「東京ローズ」を名のりはじめたのは11月頃といわれている。


ドイツ軍歌の一つだった「リリー・マルレーン」は、電波に乗ったらたちまち人気が出て、各国語に翻訳され聞かれた。


音楽という特性から敵軍にも同様、味方の兵士にも良くも悪くも作用する。
同じような言語圏ならなおさらだ。


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しかし、「ゼロ・アワー」は、対象となる相手が米国と決まっている。


しかも英語である。
一般日本人が聴いたってわかるはずがない。


だから郁子は、ヒルデ・シュミットや捕虜将校たちと協力して、ひそかに日本内部の秘密情報を暗号で米軍に知らせていたと、少なくとも郁子はそう思っていたようだ。


「というのは、ちょうどあたしたちが放送をやりだしたころから、太平洋の米軍はじりじり日本軍を圧迫しはじめたからです。一部の戦闘ではまだ日本軍が勝ってましたけど、全体として、米軍がイニシアチブをにぎったことがよくわかりました。日本の大本営の公式発表でさえ、ガダルカナル、クエゼリン、ルオット、サイパン……と、大切な拠点がつぎつぎに米軍に奪われていくのをかくしきれませんでした。この米軍の逆転は、もちろん米軍自身の力によるものだったと思います。


でもたぶんその何%かは、あたしたちの流す秘密情報のおかげもあったに違いない、とあたくしは信じています。実際、珊瑚海海戦やミッドウェー海戦の勝利にしても、山本司令長官機の撃墜なんかでも、日本の内部からの情報がなければ―そしてそれがスピーディに電波で伝えられなければ、ああいうタイミングをつかむことはむずかしかったでしょう。あたしたちはそのための極秘の連絡任務を果たしているのだ、とあたくしはチャールズ(カズンズ)少佐に教えられました。ガダルカナル戦から沖縄戦まで、あたしたちの送った情報が役立ったことは数知れないと少佐はいいました。あたくしも―ほかの女性アナウンサーたちも、この少佐の言葉を信じてつらい放送をつづけてきたのです。ですから、あたくしが米国側から裁かれる理由はこれっぽっちもありません。それさえわかっていただければ、あとはくどくど申し上げることもありませんわ……」(『東京ローズ残酷物語』、145~146頁)


五島勉による本の登場人物は、偽名が多いので、実際誰が誰と一致するのかわからなくなることもあるが、この対米放送のリーダー格であったチャールズ・カズンズ少佐は、トーキョー・ローズを引き合いに出せばどこにでも共通して登場するくらいなくてはならない人であった。


カズンズ少佐とは、オーストラリア人で、元シドニー放送の解説委員を務めていた人だが、シンガポールで捕虜となり、結果的に我が国の対米謀略の支柱を担った人である。東京ローズを生んだ情報局管轄のゼロ・アワーはもとよりのこと、軍直属のいわゆる捕虜放送でも不本意ながらリーダーの位置につかざるを得なかったのは、とりもなおさず氏が有能だった証拠であろう。


戦時中、氏は我が国の諜報宣伝基地ともいうべき駿河台技術研究所(現お茶の水・文化学院)で過ごし、戦後オーストラリアに帰国してから在日時代のポジション故に反逆罪の嫌疑を受けたが、最終的には不起訴となった。(『特赦』、上坂冬子著、文藝春秋、1978年、110~111頁)



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http://bunka.gakuin.ac.jp/aboutus/history2.html (写真引用元)


駿河台技術研究所?


元参謀本部宣伝主任恒石重嗣(つねいし しげつぐ)中佐のことばを借りれば、


「謀略放送といえば、東京ローズのゼロ・アワーが真先に引き合いに出されますが、実はあれはいわゆる謀略放送のほんの一部にしかすぎません。主流は何といっても駿河台技術研究所(捕虜の間では通称文化キャンプ)の捕虜たちの行った放送ですよ」(『特赦』、200頁)


旧陸軍参謀本部駿河台分室は、西村伊作によって設立された専修学校文化学院を、1943年(昭和18年)、校長西村伊作を拘禁し、校舎は軍部が接収し、連合軍捕虜収容所となったいきさつがあった。


そこで、「日の丸アワー」(1943年12月~1945年8月14日)といわれるアメリカ軍捕虜による大本営発表やラジオ劇が放送された。


恒石中佐(最終肩書)は、ゼロ・アワーの責任者でもある。


ということは、五島勉の著作で「管理職」立石少佐というのと同一人物か?


駿河台技術研究所は参謀本部八課の管轄であった。八課というのは第二部に属し、宣伝、謀略、特殊情報、防諜に関する業務を行なうところである(第二部は、他に五課=独、伊、ソ、六課=米、英、七課=満、支、そして国内宣伝のための報道部の四つの部署があった)


その八課の人々が戦後から今日まで「駿河台会」という名の親睦会を持っており、ほぼ毎年一回の割で集りをつづけて、すでに三十回を越えている。…中略…


一九七七年(昭和52)年版の駿河台会の案内状は次のような文面で始まっていた。
「……早戦後三十二年となり、さきごろ東京ローズも合衆国大統領の特赦を受けました」そこでこれを機に久しぶりに集ろうではないかとつづき、「今回は恒石さんも出席されるとのことで範囲を拡げて参集し、若かりし日の思い出話を」語ろうとある。…中略…


「今回は恒石さんも…」と殊更に記してあるのは、氏が宣伝主任として関係した放送などの中から不本意にもNHKゼロアワーの東京ローズのような犠牲者を出したことを配慮してか、これまで殆ど公の場に顔をみせたことがなかったからであろう。(『特赦』205~206頁)


恒石重嗣中佐の弁が正しければ、米国は真先に主流であるはずの「駿河台技術研究所」をやり玉に挙げてもよかったはずである。


終戦後の8月19日、捕虜を収容するには手薄で危険になった駿河台文化キャンプから大森捕虜収容所に、捕虜たちに同情的だった日系二世によって深夜移動されている。大森収容所にはすでにアメリカ海軍がきており、監視されていた。


また、恒石中佐が東京ローズの証人として何回も渡米したことはあっても何事もなかったかのように戦後を送っている。


恒石中佐は何も知らなかったか、保身のため黙殺しているのか。


第一「駿河台技術研究所」が何をしていたという報告も聞いていない。


かろうじて、『特赦』(上坂冬子著、文藝春秋、1978年)の最後に「第六章 文化キャンプの外人捕虜」(199~257頁)というタイトルで当時のことを紹介していた。


ほのぼのと書かれていて調子が狂ってしまうが、前線でもなく戦場でもないのであんがいそんなこともあったかもしれない。
もちろん、「東京ローズ」の真相が解明されているわけでもない。


『東京ローズ』ドウス昌代著には、郁子とゼロ・アワーでアナウンスしたという文化キャンプ所属のアメリカ軍人の捕虜インスが弁護側証人としてでてくるが、終戦後トグリ・イクコと決して同等の立場では扱われていなかった様子が描かれてある。


インス(三十七歳)……。立派な体格を軍服に包み、口髭をたくわえ、胸に数々の勲章を飾って、証人席についた。彼は終戦後、少佐に昇格、サンフランシスコのプレシディオ軍用地に住んでいた。同じアメリカ人として対米宣伝放送に従事したにもかかわらず、民間人であったアイバが反逆罪で起訴され、一般民間人とはずいぶん立場が違う彼が、起訴どころか反対に昇格していたこの矛盾に疑問をいだいたものは少なくなかった。(『東京ローズ』、ドウス昌代著、273頁)


どこまでも、あからさまに差をみせつけられる。


「東京ローズ」トグリ・イクコは、運の悪い単なる犠牲者というよりも、生贄として選ばれていたのではないだろうか。


(つづく)


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1995年に『終戦50周年特別企画「こちら捕虜放送局」』としてTBS系列で「日の丸アワー」のドラマ化が放送されている。
http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/lineup/d1554.html


▼元華族、駿河台技術研究所副所長池田徳眞による著作。
残念ながら、まだ読んでいない。


『日の丸アワ- ― 対米謀略放送物語』(中公新書)
池田徳真、中央公論新社 (1979/07 出版)


『プロパガンダ戦史』(中公新書)
池田徳真、中央公論新社 (1981/01 出版)


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『心理作戦の回想 : 大東亜戦争秘録』
恒石重嗣著、東宣出版 (1978/8出版)386p