究極の被虐待者たちを、たくさん見た。
私がずっと前に入れられた施設で。
こういう施設について、煽ってるような書き方の新聞社の告発ルポもあるが、何も改善されてないと思う。

人生を壊され人間としても壊されたと言っても過言では無い被虐待者たち
虐待被害を語るとかやっても一番酷い目に遭ってる人たちが放置されている。

私はここでのストレスで、血糖値が糖尿病の境界域の数値になった。
見た事に対し、ものすごい罪悪感もある。

かなり長い期間ずっと浮かんで来たりしていた。今でも無い事は無いが。
自分が助かったり、良い目を見たりする事にも罪悪感があり、積極的に助かる事が出来ないのかもしれない。

逃げてすぐに働いた大手の音楽機器製造メーカーで一緒に働いていた沖縄の子には、うちに来ても良いとか、言われたけど、自分だけ助かってしまったとか、この人たちの世界を壊してしまう、とか思ってしまった。。。
ずっとそんな感じだ。

罪悪感なんて偽善的かと思ったが、去年の地震の事で神戸の地震の事もテレビ番組で引き合いに出され、地震に被災して助かった人たちの中には身近で亡くなられた人に接したりした場合、自分が生きている事に罪悪感を感じたりすると言う心理状態を説明していた。
そういう心理はあるらしい。

自分の場合、罪悪感だけ独立したようになって、自分でも止められないと言うか、ずっと浮かんで来るとかだった。
ずっと浮かんで来るのは、どうしようもないのでそれはそれとして、放っておいてしなくてはいけない事をこなして来たわけだけど・・・
出来ない事もあるわけで、感情が使えないとか

自分が罪悪感を感じているのではないかということにも、気づけない状態だったかもしれないし、罪悪感と認識出来ても抜け出せなかったり止まらなかったりということもあった。

その施設とは病院なのだが、院長のお嬢さんは美大に通ってたそうだと聞いた。
あんな事をして得たお金で、美術や芸術に親しむのか、美の追求が出来るのか・・・
ここほど最悪なケースでなくても、ありとあらゆるところで、搾取と言えば搾取とか厳密に言えば搾取みたいな事は起こってると思う。(気が付かなかったり実際の不都合が無ければ寝た子を起こすなでも良い事もあるのかもしれないし、そういうものも含めてと言う意味でです。)

あれ以来、成功と搾取と言う図式が頭から離れない。

文化的なゆとりある生活を誰かが送るためには、生産的な業務に従事する人々が必要なのではないか・・・みたいな

(今は崩れて来つつあるけど、)豊かな社会はああいう人たち(施設の中の人たちと言う意味です。)の犠牲の上に成り立っているのではないか・・・等も思ってしまった。。。

豊かな社会が崩れてしまったのは、原因は複合的だろうけど、あんな事が放置されてきた事とも無関係ではないのではないだろうか?
あらゆる所に矛盾はあって、豊かさを支えるためには仕方ない事、と放置していたら、一般の人達の生活に影響を及ぼすものもあったのに、それさえ気づけない状態に慣らされてしまっていた、という仮説は成り立たないだろうか?
この20年ずっと経済は、少し持ち直しかけてもポシャり、数字の上では好況になっても、実質的な国民の生活は搾られていたり、それ以降も世界的な打撃から、日本は中々立ち直れないし。。。