その317 | 大鐘 稔彦のブログ

その317

☆「すっぴン同然だから写真はどうかも、とマネージャーが言ってますが」

 松坂慶子に会う前、Sさんがこう耳打ちした。それを口実に、会うという約束もホグにされるのではないか、との不安が胸に兆した。というのも、一年前の苦々しい出来事がトラウマとなって消えやらずにいたからだ。

「孤高のメス」の大阪での試写会の数日後、東京での試写会兼舞台挨拶に出かけた。舞台に出る前、主演の堤真一、夏川結衣ほか数名の俳優と私が車座になって打ち合わせに聞き入った。5分ばかりで終わった。私は身構えた。堤、夏川の二人があいさつに来てくれると思ったからだ。それは当然の礼儀であろう。

だが、驚きあきれたことに、二人は会釈一つだにせず、さっさと席を立って姿を消してしまった。エレベーターでもはち合わせたがまるで知らん顔である。

その夜と翌朝、34つの取材に追われたが、私はほとんど上の空だった。二人のあまりの無礼さに煮えくりかえっていたからである。

☆腹の虫がおさまらず、私はプロヂューサーにクレームをつけた。「キチンとふたりをご紹介しなかった私が悪いです」との返事。それでも腹の虫がおさまらないから監督にもかくかくしかしかじかで、と訴えた。すると、「いやーそれは僕が悪いんです。クランクインの前に二人から、原作を読まなければなりませんか、と相談されたので、もう日がない、大部な原作を読んでいる時間は無いだろう、それよりシナリオを覚えてくれ、て言ってしまったんです」だから原作者には気が引けて挨拶できなかった、という訳か?

それならそれと正直に言えばいいこと、挨拶するしないとは別次元の問題だろう。

☆一年間胸の底に淀んでいたこの忌々しいしこりも、NHKでの数時間で拭い去られた。松坂慶子さんはいとも気安く私の傍らに身を寄せてくれ、マネージャーの千葉さんが何枚も写真を撮ってくれた。

私の「心の時代」の再録は、Sさんが松坂慶子の収録にも立ち会わなければならないというので、その2時間を挟んで前後一時間ずつ行われた。一緒に立ち会ってくださっていいですよ、と言われ、私は千葉さんとともにスタジオにはいってアナウンサーのIさんと松坂さんの対談に聞き入った。傍らにはSさんとスタッフが二人。

こちらの雑談はガラス一枚隔てた向こうには聞こえない仕組みだ。

休憩をはさんで約2時間、対談はよどみなく流れた。

私は松坂慶子のけれんみのない素直で謙虚な受け答えにただただ感服した。Sさんも同様の感想を漏らし、いやー頭のいい人ですね、それにも増して人柄がいい、とうなずいてくれた。

☆別れ際、松坂慶子は「先生の本、読みますね」と言って手を差し出してくれた。「本」とは私が最初に謹呈した「緋色のメス」だ。40年前の手紙が思い出された。思ったより小さな手のしっとりとした感触が、握り返した私の手に伝わった。「ずいぶん長く放さなかったですね」とSさんはニタニタして言ったが、私にはほんの23秒のことに思われた。

松坂慶子はまことに人間味豊かで礼節をわきまえた、純真でたおやかな女性であった。

☆松坂慶子さんの「ラジオ深夜便」の出演は、来る5月7日と8日の午後11時からです。聞いて下さればきっと、彼女の人となりがじっくり伝わってくると思います。ぜひ聴いてあげてください。

わたしの出番は5月10日と11日の午前4時です。(関根文子さんへのお答えともさせていただきます)

☆本稿に対し、これまでにない沢山のコメントをいただきありがとうございました。読みかへしてみて、不穏当な表現もあったと思い至り、一部訂正しました。ご心配くださった方々に厚く御礼申し上げます。

また忌憚のないご意見をお聞かせください。