1943年11月呉海軍工廠の篠原中佐と内藤少佐の協力を得て、設計図を完成させ、黒木中尉と仁科少尉は1944年(昭和19年)に2回にわたり、軍令部や軍務局の要員を歴訪しました。
これを受けたのは海軍省軍務局第一課の吉松田守と軍令部作戦課部員の藤森康男でした。
1943年12月28日ごろ、藤森康男より永野修身軍令部総長へ人間魚雷の内容が上申されましたが、「それはいかんな」と明言され却下されています。
これを受けたのは海軍省軍務局第一課の吉松田守と軍令部作戦課部員の藤森康男でした。
1943年12月28日ごろ、藤森康男より永野修身軍令部総長へ人間魚雷の内容が上申されましたが、「それはいかんな」と明言され却下されています。
大浦基地に戻ってきた彼らは他の3人の協力を得て、「人間魚雷の戦術的戦略的用途について」という趣旨書を作成し、図面と共にP基地司令に採用を懇請しました。
しかし、却下されたので、P基地司令を通さずに海軍部署に書類を送付したのです。このことは後に大問題になりました。
しかし、却下されたので、P基地司令を通さずに海軍部署に書類を送付したのです。このことは後に大問題になりました。
送付先の一つでもあった海軍省軍務局第一課の吉松田守中佐と軍令部作戦課部員の藤森康男中佐はこれを受けましたが、当初は難色を示したものの、連合艦隊が人間魚雷に興味を示すと、5名に話を聞きにP基地まで出向いています。
マーシャルの失陥に続き、海軍の一大拠点であったトラック島が1944年2月に米軍の攻撃によって壊滅的な被害を受け、いよいよ戦況が逼迫してくると海軍首脳は2月26日に、「乗員の脱出装置なしでは兵器として絶対に採用しない」を条件に、呉海軍工廠魚雷実験部に3基の試作を命じたのです。
その後、人事のトラブル(基地司令を通さず書類を送付した事件)により、当初から人間魚雷の発案として最初の世話役だった深佐安三はトラック島へ進出途中のサイパンで待機中にマリアナ沖海戦が始まり、サイパン島の6月の地上戦で玉砕。
久良知滋はその後の海龍の実験搭乗要員として異動。
久戸義郎中尉は甲標的に残りました。
最初から関わっていた3名は人間魚雷の推進から外されてしまったのです。
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久良知滋はその後の海龍の実験搭乗要員として異動。
久戸義郎中尉は甲標的に残りました。
最初から関わっていた3名は人間魚雷の推進から外されてしまったのです。
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