(遊就館に展示されている回天一型改一・Wikipediaより)
(同上(En))
九三式酸素魚雷は、艦隊決戦型の駆逐艦、巡洋艦用に採用された超大型魚雷で、直径61センチ、重量2.8トン、炸薬量780キログラム、時速約90キロメートルで疾走する無航跡魚雷です。燃料(白灯油)を燃焼させるには空気が必要ですが、空気には水に溶けない窒素が含まれているため、航跡が出てしまいます。
しかし、酸素と燃料だけだと水に溶けやすい二酸化炭素を発生するので航跡が残らないのです。
各国は酸素魚雷の開発をそれぞれ進めていましたが、最初に開発に成功したのはイギリスでした。そのことを知って日本も開発に乗り出したのです。
しかし、イギリスは酸素魚雷の安全な取扱うことができず、爆発事故を起こしてしまい、全艦艇から降ろし廃止してしまいました。
日本の酸素魚雷も整備面などで神経を使うものに変わりはありませんでしたが、唯一運用できるものだったのです。
しかし、その世界に誇った酸素魚雷も戦況の悪化によりその活躍の場をなくし、海軍工廠の倉庫に大量に眠っているだけの状態になっていました。
そこで悪化の一途をたどっていた戦局を挽回するための策の一つとして、魚雷を人間が操縦して突入するという「人間魚雷」という発想が出てきたのです。
この「人間魚雷」の構想を訴える声は複数上がってきていました。
一つはガダルカナル島敗退後、竹間忠三大尉が軍令部に上申していますが却下されています。
もう一つは1943年12月に伊一六五潜の水雷長入沢三輝大尉と航海長の近江誠中尉が同様に軍令部と連合艦隊に献策しましたが、受け入れられていません。
このように当時の海軍首脳部が「人間魚雷」を兵器として認めなかったのは、「脱出装置なきものは兵器として認めない」東郷元帥の遺訓に基づいていたためです。
同様の「人間魚雷」の原案となるものを甲標的の訓練基地である大浦崎P基地(現在の広島県呉市音戸町波多見)にいた深佐安三中尉・久良知滋中尉・久戸義郎中尉の3名も発案していました。
甲標的の訓練を受け、その欠点を知っていた彼らは甲標的で戦局を覆すことはできないと考えていました。
同じような考えをもっていた黒木博司中尉と仁科関夫少尉の両名も加わり、より具体的なものへと発展していったのです。
当初は九三式酸素魚雷だけでなく電気魚雷を流用した(回天十型ではないもの・回天十型については後述します。)の図面も残されているところから、試行錯誤した上で、九三式酸素魚雷を流用するという結論に至ったのではないかと考えられます。
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次回は「人間魚雷『回天』の開発経緯-②」です。
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