追悼・正木直江 | 人間の大野裕之

人間の大野裕之

映画『ミュジコフィリア』『葬式の名人』『太秦ライムライト』脚本・プロデューサー
『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』岩波書店 サントリー学芸賞受賞
日本チャップリン協会会長/劇団とっても便利

かつての同志、元劇団とっても便利団員の正木直江さんが急逝しました。
本日ラジオの本番後すぐに新幹線に飛び乗り、八尾でのお葬式、出棺1分前にぎりぎり間に合い、最後のお別れをしました。家を遠く離れた場所で訃報を知り、どうしても喪服を手に入れる時間も場所もなく、赤いジーンズで駆けつけてしまうという前代未聞の大失態をおかすことになってしまい、参列しないほうがいいかと考えましたが、ご遺族関係者の方から「直江さんは僕の赤いジーンズは見慣れていたはずなので、大阪人らしく突っ込んでくれるでしょう」とお言葉を頂き、無礼と恥を承知でそのまま参列させていただきました。ご不快と失礼の段は平にお許しください。

2001年に入団。2002年春のあるお祝いの席で新人代表でお話くださいました。
2002年の秋に、たぶん薬剤師かなにかで就職が決まっていたのか、就職するのかというときに、その年の東京大阪ツアー公演『美しい人』に出演したいと言ってきて、僕が「どうぞ」と言ったらしいんです。「それで人生が変わりました。『美しい人』は私の思い入れの強い作品です。人生を変えた作品です」と後に何度も言われました。
2008年春に退団するまで、7年間、彼女はほとんどの公演で端役でした。
次はいいお役になれたらいいね、と声をかけると、「いいえ、私はヒロインとかやなくて、・・それは自覚していますから」と答えるのでした。
気の強いおっちょこちょいかと思っていたら、ある時からそれではいけないと思ったのか、ものすごい努力家になりました。マッスル部を勝手に結成して、筋トレに励み、ダンスを頑張りました。正直彼女はダンサーではなかったけど、ものすごく出来る人に交じって、くらいついていく気迫はすごかった。それは他の人にはできないことでした。もちろん悲壮な努力ではなく、マッスル部と名付けるぐらいなので常に笑いを忘れない八尾人でした。
ずっと端役だった彼女を支えたものは、彼女のミュージカルへの情熱でした。
「キャッツ」のビデオをかけると、「ごっこ」が始まる。ロンドンに行く時にはいろいろと案内しました。
とにかくミュージカル女優になりたかったんやと思う。僕がロンドンのミュージカルについていろいろ話すときはいつになく真剣に聞くのでした。
最後の思い出は、小川眞由美さんとやった『源氏物語』のとき。
「嫉妬」という強い言葉ではじまる台詞がうまく言えず、何度も何度も教室で二人っきりでお稽古しました。僕が何度もやってみせて、彼女も頑張って。うまく言えた、と思っても、小川さんの前になるとできなくて。結局、その台詞は直前になしになり、彼女は事実上その役を降ろされました。本当に可哀相だった。
でも、彼女は普段そんなに台詞のない人だったので、その時に、本当に親密にお稽古ができたのが僕にとっては思い出です。やっぱり演出と役者って、とくに劇団の場合、血を分けた存在に近い。親子以上と言いますか。そうであるがゆえに、反発も食らったり、親殺しみたいな目にあったりします。

やっぱり志半ばで亡くなったと思う。
なんと別れの挨拶をするべきか迷い、ただ安らかにお眠りください、本当に助けられました、ありがとうございました、と申し上げました。
すごくたくさんの弔問の方々がいらしていて、それは彼女の人柄です。

最近、急に彼女からメールを頂いて、「美しい人の音楽がずっと頭を流れています。あの作品は人生をかえました。またいつかミュージカルの舞台に立ちたい」と。
嬉しかったです。

ここに何もかも書いたのは、
舞台が好きで端役でずっと頑張ってくれた正木直江がいたこと、
彼女とともに劇団とっても便利が成長したこと、
そのことを忘れないようにとどめておきたいと思いました。
なにより、決して主演はしなかった正木直江を、本日のブログというささやかな場所ではありますが、最後に主演させてあげたいという演出の思いです。
繰り返すけど、演出と役者って本当に特別な関係ですよ。僕は本当になんて言っていいか分からへん。

私たちはかけがえのない仲間を失いました。
ご冥福をお祈りします。