天草海軍航空隊基地跡 | 、、、りぃの、、「ケッカオーライ」

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日々の何気ない出来事をの~~んびり書きとめてます。。
一年中熊本城を中心に
熊本市の史跡巡りをしています♪
冬は、ひっそりフィギュアスケートファン。。



皆様こんばんは!

夏休みの初日
曇り空だった熊本。

午前中は掃除・洗濯・草取り作業・・・・
午後は悪あがきの美顔に行き
のんびりしていたりぃです。


さて、今月の初めに、

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突然旅に出たのですが、
そのときに
つれあいがぜひ訪ねたかった場所。


それが

「天草海軍航空隊基地跡」です。

天草市の本渡から西へ20分ほどでしょうか、
小高い丘の上に
慰霊碑が建てられています。


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<案内板>

太平洋戦争中、この地一帯に天草海軍航空隊がありました。

天草海軍航空隊は練習航空隊で、

水上機の操縦員を訓練養成していましたが、

日本の敗色が濃厚となった昭和20年3月、

練習航空隊の指定を解除され、

爆弾を固縛した愛機もろとも敵艦に体当りする

神風特別攻撃隊の発進基地になりました。


三名の殉職者を出す激しい特攻訓練の後、

昭和20年5月下旬に第一次、

6月下旬に第二次攻撃隊が発進し、

八機十六名の若人が敵艦に突入玉砕しました。


その神風特別攻撃隊員ならびに

天草海軍航空隊ゆかりのある戦没殉職者の御霊を祀る慰霊碑を、

ここ有明海を見下ろす丘に建立しております。


天空会 本渡観光協会



案内板の横に慰霊碑があります。

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ここ天草市佐伊津町金が丘には、
第二次世界大戦中に海軍航空隊の基地がありました。

昭和19年(1944年)3月15日に
博多海軍航空隊天草分遣隊として開隊されました。

基地の土地を切り開いたり、兵舎を建てたりするために、
農学校や女学校の生徒たちも駆り出されたといわれます。

    隊門は、一般人は立ち入ることができませんでした。


現在の佐伊津中学校の場所に

練兵場があり、

兵隊が宿泊する兵舎が、

現在の、天草病院のところにあったそうです。

また、飛行機の格納庫、

海岸沿いには、飛行機を陸に揚げるためのスロ-プが設けられていました。


航空隊本部と下士官の兵舎は、

慰霊碑が建ててあるこの丘(現、金が丘団地)にありました。


    天草海軍航空隊は、第十二航空隊に所属し、

はじめは水上機の操縦(そうじゅう)教育をするための訓練機関でした。


飛行機としては、九三式水上中間練習機や九五式水上偵察機、

零式水上観測機など、

50機余りを所有していました。


ようやく実用機の編隊飛行まで訓練が進みましたが、

戦局の悪化により、訓練は打ち切りとなり、


昭和20年(1945年)2月22日、

突如、特攻隊を編成せよとの命令が下りました。


3月1日に、天草海軍航空隊として独立したころ、

特攻訓練は、激しさを増し、

訓練中にも3名の尊い命が失われました。


    5月5日、練習航空隊を解除され、

水上機特攻隊の発進基地として指定されました。


5月24日、第一次攻撃隊の零式水上観測機2機が、

沖縄沖の敵艦船に突入し、3名が戦死しました。


また、6月24日には第二次攻撃隊として6機が突入し、

13名の戦死者を出しました。



特攻機は、水上を飛び立った後、

基地上空を旋回し、

翼を振って別れを告げ、

南の空に消えていったそうです。



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慰霊碑の隣には、昭和20年5月25日未明
沖縄の具志川島の岩礁に玉砕した
2機の零式水上観測機の破片が安置されています。
、、、りぃの、、「ケッカオーライ」

昭和40年代生まれの私は、
幼い頃、夏が来るたびに
軍人だった祖父から
第二次世界大戦中の話を聞きました。
祖父が語る、
特攻隊の話は、子どもながら
とても悲しい気持ちになり
泣きながら聞いていました。

私が17歳のときに
祖父は亡くなり、
今、私の娘達は
戦争のことを教科書でしか知らない世代になりました。

私が、祖父から聞いたように
娘達には、私達親世代が
話し、伝えていかなければならないと
あらためて感じた今回の天草の旅でした。

今年も暑い夏になりました。
あらためて
平凡だけど
幸せな1日に感謝。。。