「天草海軍航空隊基地跡」です。
太平洋戦争中、この地一帯に天草海軍航空隊がありました。
天草海軍航空隊は練習航空隊で、
水上機の操縦員を訓練養成していましたが、
日本の敗色が濃厚となった昭和20年3月、
練習航空隊の指定を解除され、
爆弾を固縛した愛機もろとも敵艦に体当りする
神風特別攻撃隊の発進基地になりました。
三名の殉職者を出す激しい特攻訓練の後、
昭和20年5月下旬に第一次、
6月下旬に第二次攻撃隊が発進し、
八機十六名の若人が敵艦に突入玉砕しました。
その神風特別攻撃隊員ならびに
天草海軍航空隊ゆかりのある戦没殉職者の御霊を祀る慰霊碑を、
ここ有明海を見下ろす丘に建立しております。
天空会 本渡観光協会
案内板の横に慰霊碑があります。
隊門は、一般人は立ち入ることができませんでした。
現在の佐伊津中学校の場所に
練兵場があり、
兵隊が宿泊する兵舎が、
現在の、天草病院のところにあったそうです。
また、飛行機の格納庫、
海岸沿いには、飛行機を陸に揚げるためのスロ-プが設けられていました。
航空隊本部と下士官の兵舎は、
慰霊碑が建ててあるこの丘(現、金が丘団地)にありました。
天草海軍航空隊は、第十二航空隊に所属し、
はじめは水上機の操縦(そうじゅう)教育をするための訓練機関でした。
飛行機としては、九三式水上中間練習機や九五式水上偵察機、
零式水上観測機など、
50機余りを所有していました。
ようやく実用機の編隊飛行まで訓練が進みましたが、
戦局の悪化により、訓練は打ち切りとなり、
昭和20年(1945年)2月22日、
突如、特攻隊を編成せよとの命令が下りました。
3月1日に、天草海軍航空隊として独立したころ、
特攻訓練は、激しさを増し、
訓練中にも3名の尊い命が失われました。
5月5日、練習航空隊を解除され、
水上機特攻隊の発進基地として指定されました。
5月24日、第一次攻撃隊の零式水上観測機2機が、
沖縄沖の敵艦船に突入し、3名が戦死しました。
また、6月24日には第二次攻撃隊として6機が突入し、
13名の戦死者を出しました。
特攻機は、水上を飛び立った後、
基地上空を旋回し、
翼を振って別れを告げ、
南の空に消えていったそうです。
慰霊碑の隣には、昭和20年5月25日未明