昨日はさる瞑想会で知り合ったHさんと飲んでいたが、最初は2時間飲み放題で予約したが、話がはずんで2時間では足りなくなり、1時間延長してしまった。
近頃は交流する人が限定される傾向があるが、Hさんとは話が通じるであろうという気がしていたが、まさにその通りで会話を大いに楽しんだ。それは言語におけるやり取りもそうなのだが、非言語におけるコミュニケーションも大いにあったのは間違いない。
さて飲み放題だったので、当然それなりに飲んだのだが、Hさんはビールをずっと飲んでいたが、私は瓶ビール一本、ホッピ―セット一つ、焼酎を一回おかわりして、それからサングリアを3~4杯飲んだ。べらぼうに飲んだわけではないが少なくもない。
いつもならホッピ―セットを頼み、それから焼酎をおかわりすると、それだけで結構酔いがまわってくるのだが、今回はまだまだいける感じがあり、サングリアを何杯かおかわりした。
それでも酩酊することなく、気分は良くなり饒舌になったりはしたが、比較的意識は鮮明で、混沌とすることはなかった。
そして時間としては短かったが、ずっと喋り通しだった中、ほんの数分だがお互いに言葉が出なくなり、沈黙している瞬間が生じた。
その沈黙は全く気まずくなく、それはそれで心地よい沈黙だった。
仏教の戒律では、飲酒は誡められる。それはいくつかの理由があるだろうが、大きな理由として意識が混沌として、瞑想ができなくなったり、気づきが保てなくなることがあるだろう。
逆を言えば酒を飲んでも意識が混沌としなければ、宗教的なことやスピリチュアルの実践において、酒は妨げにならないとも言えるように思う。
私も学生時代は無茶な飲み方をして、何度か意識が無くなってしまったことがある。気が付いたら家で寝ていたということもあった。また数年前も自分としては心地よく飲んでいたつもりで、一緒に飲んでいた人に「昨晩は楽しく飲めて良かったね」といったLINEをしたら、「何も覚えてないの?!あんたは暴言を吐き散らしたりして大変だったんだから(*_*;」といった返事がきて仰天したこともある。
今やそれも昔の話で、今は飲んでも前後不覚になることはなく、気分が悪くなることもほとんどない。心地よく飲んでいることが多い。そして意識が混濁することもほとんどなくなった。
聞いた話だがアジズ(現アナディ)がプレゼンスがどういうものかの基準として、酔っても失われずに気づいているもの、それがプレゼンスだと言っていたらしい。要は多少酔っても気づきが失われないことが肝心であるということだろう。
私は先ほど書いたように、酔って何度か前後不覚に陥ったことがあるが、大概は酔っても何かが残っており、それに気づいていることがほとんどだった。そのころからプレゼンスを漠然と感じていたのだが、その当時は当然そのことを知る由もない。
それはともかく、Hさんとの飲みは普通に楽しかったし、お互いに気づきがしっかりとあり、それが反響しあっていたようにも思える。誰と飲むかでも色々と変わってくる。Hさんとはまた飲みたいし、他にも響き合うものがある人とは飲んだり、飲みがなくてもいいから対話をしていきたい。