「お金の本質」(内田樹さんのメルマガより) | .

「お金の本質」(内田樹さんのメルマガより)

おはようございます。

名古屋の朝は晴れ、これから三重県津市へ向かいます。
今朝も早起きしたのですが、マスターズの優勝争いが大混戦で目が離せません。
なかなかブログを書き始まることができないですね(苦笑)

今日・明日と三重県津市役所での研修があるので、土曜日の「中部経営塾」のセミナー&懇親会
後、昨日は水戸へ帰らずに名古屋で休日を過ごさせてもらいました。

そんな1日の時間の使い方は・・・
「中部経営塾」のスタッフの有志と「春日井カントリークラブ」でゴルフを楽しんできました。
いや~、楽しかった。
新しくしたクラブも慣れてきましたので、少ないラウンド数にはなってしまいますが、今年は
何とかクラブ競技にも出たいので楽しみです。

さて今日はこれまでに何度も紹介している内田樹さんの先週届いたメルマガに、「お金の本質」
が書かれていましたので紹介します。

京都、名古屋で「価値」について話をしましたが、では「お金の価値」とは、
そしてどうすれば「お金」が集まって来るのか、
ちょっと長い文章ですが、学びが多いのでそのまま紹介します。

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貨幣はたいへん「よくできた道具」です。人類の発明したものの中で最高に出来がいい「物神
(フェティッシュ)」の一つでしょう。

誤解して欲しくないのだけれど、僕は「物神」という言葉を貶下的な意味で使っているわけでは
ありません。「物神」は人間だけが持てる幻想です。そうである限り、人類の文明的達成の一つ
として高く評価すべきものです。

でも、それはあくまで「幻想」です。

そういう「幻想」があると、ないより「いいことがある」という計量的な判断を踏まえて
「採用」された装置です。

個人のレベルでは「命より金が大事」というような倒錯はありえますが、集合的叡智としては
ありえない。集合的に(マルクスなら「類的に」と言うところですが)言えば、貨幣は「恣意的
に定めたゲームのルール」の一つに過ぎません。

でも、「ゲームに勝つためには命を削ることを厭わない」というタイプの「倒錯」を伴わない
限り、それは「ゲームのルール」として機能しない。

それが「ゲーム」の本質です。


◇使用価値のまったくない商品

貨幣は人類史のある時点で、人間が「発明したもの」です。「発見したもの」なのかも知れません。
まあ、どっちでもいいです。

貨幣は「商品」です。でも、ふつうの商品とは違います。貨幣は「使用価値のまったくない
商品」だからです。

最初からそうでした。

人類が最初に採用した貨幣は「サクラガイ」や「巨石」でした。その時代に暮らしていた人々に
とっても、「おお、これがあったおかげで、ほんとに助かったよ」と日用の便に役立つような
ものではなかった。

はなっから、「有用性」は当てにされていなかった。

貨幣が貨幣であるための唯一の条件は「それがすでに貨幣として流通している」ということで
あり、強いてもう一つ条件を書き加えるなら「簡単には手に入らないもの」であるということです。

私たちが今使っている紙幣は使用価値ゼロの商品です。洟もかめないし、暖もとれないし、メモ
も書けない。

でも、紙幣を作ろうとすると、特殊な紙を手に入れたり、特殊な印刷技術を駆使したり、大変な
手間がかかる。

使用価値がない商品であるにもかかわらず、それを生産しようとすると、額面の価値以上のコスト
がかかる。

だから、日本円で1万円札が上限であるというのは、かなり合理的なラインなんだと思います。
もし、100万円札がふつうに流通していたら、偽造のコストが99万円かかっても元が取れる。
でも、1万円札を精密に偽造するコストはたぶん1万円では足りない。そのへんのぎりぎりの
ラインを狙っているんでしょう。

使用価値がゼロであるというのは、言い換えると「持っていてもしかたがない」ということです。

つまり、この世にあるすべての商品の中で、「持っていてもしかたがない。何か別のものと交換
しないと意味がない商品」というのは貨幣だけなのです。

だから、貨幣が創造された。「そのようなもの」として創造された。貨幣の存在理由は「交換を
加速すること」それだけです。「交換を加速するのにもっとも適した商品」、それが貨幣です。

その条件を満たすものであるなら、何でもいい。だから、それはサクラガイであったり、金属で
あったり、紙幣であったり、電磁パルスであったりする。

何でもいいんです。みんなが「これは貨幣だ」と認めさえすれば。

繰り返し申し上げますが、貨幣の本質は「交換を加速すること」です。

それは「貨幣には意味がないが、交換することには意味がある」ということです。

100万円札がないのはそのためです。100万円札は「98万円」とか「75万3000円」とかいう価格の
商品を買うときにはなんとか出せますけど、コンビニで「ちくわぶ」と「おかかのおにぎり」と
か買うときに出したら殴られます。

貨幣としての価値はあるのだけれど、「おつり」を渡すために、コンビニの店員さんが近くの
銀行にまで走ってゆかないといけない。交換するときの手間がかかりすぎるから100万円札は貨幣
としては「出来が悪い」ことになります。

もう一度言いますけれど、貨幣そのものには意味がありません。交換することに意味があるのです。


◇欲望の対象が違ったから

交換をするためには、さまざまな人間的制度の整備が求められます。

共通の言語、共通の度量衡、共通の法律がなければスピーディな交換は果たせない。でも、
何よりも重要なのは、「この人が持っているものを私は持っていない」という所有物の多様性です。

「自分が持っていないものをこの人は持っている」という認識だけが交換を駆動する。

そして、どうして「自分が持っていないものを、この人は持っているか」というと、それは
「欲望のありよう」が違ったからです。

自分が一生懸命努力して手に入れたものを、この人は手に入れようとはせず、その代わりに別の
ものを手に入れた。

それはこの人は「それ」が欲しかったからです。欲望の対象が違ったからです。

交換の本質はここにあります。

共通の言語、共通の度量衡、共通の法律がなければ、交換は成り立たない。でも、欲望が共通
していると、みんなが同じものを持つことになる。みんなが同じものを「これたくさんあるか
ら、要らない」と交換の場に差し出すことになる。

そうすると、もう交換が行われない。

市場に集まった商人たちが全員「薄皮まんじゅう」を並べており、それを買いに来た消費者たち
も全員が「薄皮まんじゅう」を貨幣として差し出す構えでいた場合、そこではいかなる交換も
行われません。当たり前ですね。

つまり、交換が成立するための条件はかなりきわどいものであることになる。

それが「価値あるもの」であることがわかる程度には全員に価値観が共有されており、単一の
商品を「最優先に所有すべきもの」であると思い込むほどには全員に価値観が共有されていない
程度の「ばらつき」具合であるときにのみ交換は健全に機能する、と。

そういうことです。

貨幣は「それ以外の商品と交換しない限り、何の意味もない」ものであるがゆえに、この条件を
クリアーするのです。

みんなが一様に貨幣をほしがる。でも、それを何と交換しようと願って貨幣をほしがっている
のかは、全員が違う。

貨幣の物神性はその「装置としての有効性」が担保しています。

よくできた装置なんです。


◇貨幣は、神ではなく、物神です

だから、貨幣を侮ってはいけない。でも、人間が発明した装置である以上、貨幣の本質を見失っ
てもいけない。

貨幣はあくまで「人間が利用するもの」です。

それを見失うと、貨幣との関係が狂ってしまう。「貨幣との関係が狂う」というのは、端的には
「貨幣とご縁がなくなる」ということです。

お金持ちというのは、「貨幣の本質=交換の本質を理解している人」のことです。貧乏人という
のは、ひどい言い方を許して頂ければ「貨幣の本質=交換の本質を理解していない人」のことです。

でも、ほんとうにそうなんです。貨幣の本質=交換の本質を理解していない人のところに貨幣は
集まってきません。

ほんとに。

貨幣は物神です。神ではありません。ですから、「貨幣は物神である。でも、物神には物神なり
の筋目があり、立場があるんだから、その辺は配慮してあげないとねえ……」という細やかな
気遣いには「弱い」。

「貨幣さんは、いったいどういうふうに扱って欲しいのかな?」という問いを貨幣に向けるもの
のところに貨幣は集まります。

当たり前ですよね。貨幣だって生き物ですから、気遣ってくれる人のそばにいる方がいい。

「貨幣は」自分を媒介にして何をしたがっているのか?
この問いをまっすぐに受け止める人が「貨幣と縁がある人」です。

「自分は」貨幣を媒介に使って何をしたいのか?
こういう問いを立てる人はあまり貨幣とご縁がありません。悪いけど。

貨幣は生き物です。だから、気遣って欲しいし、仲間を増やして欲しいし、とにかく「運動好き」
なんだから、運動させて欲しい。それを満たす環境さえ提供すれば、貨幣は集まります。


◇問題は自分の欲望ではなくて、他者の欲望

お金についてのきわめて含蓄の深い寓話をひとつご紹介します。

「わらしべ長者」という童話です。こんな話です。

男がわらしべを一本持って旅に出ました。顔の周りにあぶが飛んでうるさいので、それをつかま
えてわらしべに縛って持ち歩きました。すると向こうから来た子供が「あのおもちゃが欲しい」
と言い出し、子供の母親がそれをミカン一個と交換してほしいと頼んできました。あぶとミカン
を交換して、また歩いていたら、喉が渇いて死にそうだという旅人に出会いました。もらったミ
カンを差し出すと、旅人は代価に反物をくれました。その反物を持って歩いていたら、死にかけ
た馬との交換を持ちかけられました。交換したら死にかけていたはずの馬がそのうち元気になり
ました。元気になった馬を連れて歩いていたら、急ぎの旅に出かける人と出会って、「私の家を
君に託すから、馬をくれ」という話になり、馬と家一軒を交換しました。でも、待てど暮らせど
馬と男は帰ってこなかったので、男はそのまま家を手に入れ、長者さまになりました、という話
です。

この物語には交換というものの本質がみごとに描かれています。

交換の条件。

まず、移動し続けるということ。
ふたつめは、交換を持ちかけられたら、必ず「うん、いいよ」と答えること。

問題は自分の欲望ではなくて、他者の欲望なのです。

わらしべ長者は「自分が欲しいもの」を求めて歩いていたわけではありません。
「誰かが欲しがるかもしれないもの」をなんとなく手にぶら下げて、それに救いや愉悦を見出す
人に出会うまで歩き続けたのです。

彼が手に持っていたものに内在的な価値があったわけではありません。「わらしべに縛り付けた
アブ」はそこに「わくわくするようなおもちゃ」を見出す子供が出現するまで無価値なものでした。
反物と馬の交換の場合、男はほとんど「詐欺」に遭ったのでした(だって、「死にかけた馬」
ですからね)。

でも、男は気にしなかった。

自分が持っているものを「欲しい」という人間が登場してきたら、交換比率がどうだとか、
どれくらい儲けが出るかとか、そういうことを男は考えませんでした。

ただ、「うん、いいよ」とすらっと交換した。

この寓話のかんどころはここにあります。

男はこの短い物語の中に登場するすべての人物の中で「移動すること・交換すること」以外に
何の欲望も持たない唯一の人物です。

そういう人間だけに「長者」になるチャンスが訪れる。

価値はものそのものに内在しているわけではありません。それに「価値がある」と思うものの
出現まで、男が持っているものは無価値です。ものの価値は交換したことによって、事後的に
「あれには価値があった」というかたちで回顧的に成立するのです。

あるものに「価値がある」と言い出す人間の出現によって、価値は無から生まれる。それが
「交換の奇跡」です。

ですから、男が最後に「馬」という「高速移動手段」を「不動産」と交換したときに物語は唐突
に終わります。家はもう持ち歩くことができない。だから、男は歩みを止めるしかありませんで
した。そして、男が歩みを止めたときに、交換も終わりました。

そういうことです。

この物語には「経済」についてのいくつものたいせつな教訓が含まれています。
ほとんどすべての教訓が含まれていると言っていいかも知れません。どれだけ多くの教訓を
引き出せるかで、その人の社会的成熟度がわかります。

ゆっくり考えてみてください。

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「自分の欲望ではなくて、他者の欲望」
僕も「お金」については、金融機関、特にウォール街の金融機関で働いている時からずっと
考え続けていることです。

これからも若手や、特に社会に出る前の学生たちにはしっかりと考えてもらいたいので、
勉強会のテーマとしていきたいですね。

さぁ、今週もがんばっぺ!