日本初の美人コンテスト一位 末広ヒロ子 人生の命運 侯爵夫人 野津ヒロ子  | 人魚姫の泡言葉

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σ(*^_^*)ワタクシのおウチには、明治、大正、昭和の始めの事象など著した書物が雑誌、書籍、写真集問わず、いくばくかありまして幼少の頃より遥か昔に夢馳せながらページを繰り楽しんだひと時があります。

昨年か、おととしでしたかしら!IDだけ長い間知ってる方ですが、あ・る画像をUPして

「此れは家に在った祖母の母の母の写真なの」と言うじゃありませんか!!

HPも作っておられて、確か其方の方にも同等の事を書いておられたのを見た事があります。

確か、祖母の母の母は曾祖母の事でしょうね。手に持ってるのが何か分からないらしく、その事にも触れ、鼻とかは似てないが、眉は遺伝して自分の眉に似てるという様な事を書かれていましたっけ。

わたしは、この画像の女性が誰であるか知ってました。家にある書物で画像も目にしており日本初の美人コンテスト一位優勝の末広ヒロ子当人の画像です。

私がこの写真を最初に見たのは、もっと昔でネットなど無かった時です。ゆえに勿論画像のUPで目にすることさえ不可能な時期です。

最近は便利になって打ち込むワードさえ知っていれば、ほとんどの画像が手にはいります。

家にある書物には、末弘ヒロ子が美人コンテストに優勝した事と、当時の女学生の生活、女学生の写真などが同時に掲載されており、情報としてはネットの方がもっと詳細に知ることが出来るようになったと思います。でも、その出所も元をただせば書物からですけどね。

ネット検索で「末広ヒロ子」と打てば無数に画像がヒットします。残念ながらσ(*^_^*)ワタクシの家にある画像も同じ物ですが、紹介してるページの画像が出せます。わざと全体が写らないように撮影しました。

   ダウン4枚続けてUPしてますが、多分 ネット内で見つける事は出来ないと思います。今日から流れる可能性が出てきますが









一番下の証書は、フェリス女学院の卒業証書(明治42年)

下から2番目は明治18年 鹿鳴館スタイル以前の服装の女生徒です。

一等最初と2番目は末広ヒロ子を紹介してる記事です。







         アップの画像は検索すれば出てきます。

当時の流行は海老茶袴にリボンにパラソル そしてバイシクル(bicycleをこう発音した)あくまでも上流家庭の子女間においてです。
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人の運命というものは本当に分からないものです。

日本で最初に美人コンテストが行われたのは、明治半ばのこと。
といっても、出場者を舞台の上に集め、審査を行うというようなものではなく、写真による審査が一般的でした。

1891年(明治24年)、東京浅草の凌雲閣(12階)で行われた「百美人」の催しが、日本初の美人コンテストと記録されています。100人の芸者の写真を4階から7階にかけて展示し、見学者による投票で順位を決めるというものでしたが、審査対象は芸者に限られており、一般人の自由参加を旨とする現代の美人コンテストとはいささか趣の異なるものでした。

一般公募による美人コンテストの最初は、1908年(明治41年)に時事新報社が実施したものになります。これはアメリカの『シカゴ・トリビューン』紙の呼びかけに応える形で行われたもので、美人の日本代表を決めるという意味合いを帯びた試みでもありました。

興味深いのは、この時事新報社が主宰した美人コンテストの審査員として、彫刻家の高村光雲、医学者の三島通良らと並んで、人類学者の坪井正五郎の名前があることです。明治の美人コンテストは、「日本人種」の美の標準を科学的に確定するという、人類学的な関心とも結びついていたようです。


末広ヒロ子は、父(鹿児島県人) 末広直方が警視庁第一部長を勤めて居た時分、麹町区八番町の警視庁第二号官舎で7人兄弟のうちの四女として生まれた。

総領は、ナオ子で司法省の技師を勤めてる山下源次郎に嫁ぎ、次女イク子は公使書記官安部守太郎の妻となり、テイ子、直士、忠雄、ヒロ子、トメ子と云う順序で事件当時、直士は青山学院、忠雄は正○中学校に、トメ子は父母の許に居り、ヒロ子は16歳にて学習院女学部3年に在籍、学習院に通うために義兄の江崎清の家に下宿していた。

江崎清はカメラマンで当時としてはハイカラという表現がピッタリの写真を生業としていた。カメラマンの目から見てもヒロ子はモデルとしてはもってこいの対象で、彼は写真集を作れるほどヒロ子の写真を撮影していた。

職業人として公表したいが、ヒロ子の意向もあり控えていた矢先、新聞の「日本美人大募集」という文字に遭遇、江崎清の心は躍った。

ヒロ子の美貌をもってして、自分の写真家としての力量を試せる。応募者のほとんどが素人撮影の中において、江崎の撮影技術は群を抜いており、なんなく一次、二次審査を通過。審査員全員がヒロ子の美貌に異論を挟む事なく見事優勝を果たした。

日本人口1億2千万きれる現在、当時はその半分にも満たない人口だが、イベントとしてアメリカ新聞社(シカゴ・トリビューン紙)「ミスワールドコンテスト」主催に日本も後者の国々に並び参加した。イギリス、スエーデン、カナダ、スペイン、日本、6カ国から世界一の美女を選抜するという企画。当時として大々的な催しであった。

日本の優勝者には30円相当のダイヤモンド。義兄から優勝の知らせを聞いたヒロ子は泣いて懇願し、写真を取り戻して欲しいとまで言った。当事者に辞退されては困るので時事新報社も躍起になって説得を試み、どうにか新聞社の面子を保てるに至った。

一位で優勝したことが知れ渡ると、家には縁談話が後を立たずに舞い込み、波紋は学校までと広がっていった。話題の人は渦中において嫉妬にもあい、学校内は騒然がおさまらない。野木希典が学長として就任1年目の事だった。

学習院はコンクールに参加したことを知ると協議会を開く。
「女は虚栄心の盛んなるもの、いわんや女学部生徒のごとき上流の家庭に育ちしものにありては、本人が虚栄心に駆られて自ら応募せしならば、他の生徒等の取り締まりの上、停学もしくは論旨退学の処分をなさんと目下しきりに協議」

論旨退学は主に松本が主張した。乃木はこれに同意も反対もしなかった。

ヒロ子は事の事態に驚き、悲しんだが、弁解、言い訳一切せず。

学習院がヒロ子を退学処分にしょうとしてることを知り、時事新報社、全国新聞社は紙上で反発し、この退学問題は世論を巻き込み大論争と発展していった。

後に野木希典は義兄の江崎が本人無断で応募したことを知り、後悔した。責任を感じた乃木は、嫁ぎ先を探す事から始めた。それも乃木希典から見て、おめがねにかなう男子でなければならない。

陸軍の左官クラスで有望かつ出自の良い者の選抜は難を極めた。既婚者が多く、放蕩してるか、素行振る舞いに問題があるなどなどで適材が見あたらない。

万事休す状態、乃木希典の困り果てた現状を知り、戦友の野津道貫が「美人の縁談があるそうだが、うちの愚息で良いなら」と助け舟をだした。

野津道貫の長男・鎮之助は、その前の年侯爵となったばかりで独身の身で侯爵は珍しく、そうそうの身分では嫁げない相手であった。

が、当人の野津鎮之助は謙虚で陸軍軍人でありながら物静かで実直な人柄であった。見合いの席においても、あがりっぱなしで一言も発する事が出来ない。
「あのように美しい娘が自分の妻になるなど何かの間違いであるまいか?」と漏らしたという。

16歳にして人を見る目を持ち合わせていたヒロ子は、ずっと年上でありながら純朴で緊張しっぱなしの鎮之助に人としての良さも見通していた。

彼女、末広ヒロ子が良家の子女と言っても侯爵家から見れば、庶民である。

美人は、幸せにはなれないという諺がある。だが、例外も存在する。末広ヒロ子の場合は後者であり、又美貌もさることながら、彼女の心の美しさが幸を成したというべきだろう。

そして侯爵夫人、野津ヒロ子となった彼女は建築家・ジョナサン・コンドルが設計した赤坂にある野津豪邸の女主人となった。

【補足】

野津 鎭之助(のづ しずのすけ)
日本陸軍軍人
砲兵少佐
侯爵
父、野津道貫
長男
妻、野津ヒロ子
1908年11月~1942年11月 貴族院議員
東京・赤坂新坂町の自邸はジョサイア・コンドルの設計

(残念ながら野津 鎭之助の画像がありません)ガーン