■戊辰戦争・二本松少年隊と二本松藩①~敵からの賞賛 | ⋆

何度でも更新。

二本松城が落城したのは、旧暦7月29日ですが、
新暦でいえば、今くらいの時期です。

たまたま、新暦だといつになるか情報が入ってきて、
慶応4年7月29日→1868年9月15日火曜大安、とのこと。

我ながら9月15日に再度更新するってΣ(゚д゚;)

◇◇

ずっと、知ってもらいたかったこと。

戊辰戦争の二本松。
二本松藩であり、二本松少年隊。

たくさんの伝えたい物語があります。

二本松少年隊物語 霞の天地/幻冬舎

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↑こちらは漫画。

正直、発信するにあたって、色々読んでいるつもりでも、全然勉強不足。
実際、まとめている素晴らしいサイトとかたくさんあって、
自分の非力さを痛感します。

けど、焦ったり、自分を責めても、何ひとつ変わらないのも分かっている。

ならば、今、自分に出来ることをやるだけ。

あとは、また改善してゆけばいい。
その命が、明日も約束されているとして…。

けど、大袈裟ではなく、ホントいつ死んでもいいように、
少しだとしても、納得がいかなくても、出し切るしかない。
何でも、これが最後かもしれない、と思ってやるべ。

そして、わたしが大隣寺に行けた、戦地に行ったということ、
もうすぐ落城する日、そんなタイミングに背中をおされまして。

数回に分けても、ひとつが長いですが、お読みくだされば、幸いです。



慶応4(1868)年7月29日落城。

敗れ、賊名を負わされた二本松藩士はこれを恥じ、永い間沈黙を守り続けた。

しかし、その沈黙が破られた。

敵・西軍からの二本松藩士に対する賞賛であった。


◇◇

◆二本松少年隊の悲劇より抜粋。
http://plaza.rakuten.co.jp/wawanko/57019/#abei


二本松戦争は、あっけなかった。

しかし、後に薩摩の6番小隊長・野津七次により、こう語られた。

    「二本松は『戊辰戦争中第一の激戦』であった

◇◇

数学者が見た 二本松戦争/並木書房

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◆「二本松戦争」より抜粋。

新政府側の首脳部の一人として実際に二本松に攻め入り、

彼らの戦いぶりを眼のあたりにした板垣退助は、

「一藩こぞって身命を擲(なげう)ち、斃(たお)れてのち已(や)むまで戦い抜き、

武士道の精髄を尽くしたのは二本松をもって最上とする」と絶賛した。

◇◇

二本松の決着は、虚しいほどに、あっけなかった。
なんといっても、城下には少年と老人しか居ないも同然だったからだ。

しかし、立っているだけで精一杯の高齢老人の果てまで、最期の瞬間まで戦った。

誰一人として大人しく降伏しようとしない。

劣勢末期の藩なれば、当然のごとく、兵には少年が混在するものだ。
今日に始まったことではない。

しかし、この藩の場合、それが極端すぎた。
二本松藩の場合、少年と呼ぶには、むしろ相応しくない幼い子供達が戦った。

哀れに思い、生け捕りにしようとしても、暴れて抑えられない。
やむを得ず斬った・・・そんな報告も得ていた。



逃がしてくれた官軍もいる。
大壇口からの撤退の際、真っ先に遭遇した敵。

遭遇したというより、実際は、それまでの砲撃戦で直接戦っていた相手。

この薩摩の将とは、大抵予想はつくところだが、本人は、我也とは一切語らなかった。
但し、彼以外の誰でもないだろうと思われる発言は残した。

少年達は、よく訓練されており、よく戦った

軍人としては、これ以上、語るわけにはいかなかったのだろう。

◇◇

明治・大正から昭和にかけてわが国の論壇のリーダーの一人であった徳富蘇峰(そほう)は

「会津・二本松の卓越した政治姿勢があったから、日本は植民地にならずにすんだ」

とまで激賞している。


欧米大国は、東南アジアから隣国中国にまで進出してきており、

それら諸国を半植民地化していた。

ただ、わが国に至って会津・二本松が見本を示してくれた、

己れの尊厳を守るためには一藩こぞって

死をもいとわないという武士道的精神の激励さを知るに及び、

武力による制圧の困難さを悟らされたことが、

日本が植民地にされずにすんだ一因であった。


《②へ続く》