
(1997/中公文庫、2008.3.25)
副題「想念のエクトプラズム」
ドビュッシーの音楽は
そのピアノ曲を
何曲か聴いたことはありますが
基本的に自分の趣味とは合いません。
要するに、よく分からない。f^_^;
それでも本書を読み通せたのは
青柳いづみこが書いている
ということと
ドビュッシーがフランス17世紀末の
デカダン文学の影響受けていた
ということがあるからです。
御存知の方もいるかもしれませんが
ドビュッシーは
エドガー・アラン・ポオの
「アッシャー家の崩壊」を
オペラ化しようとして
長年かけながら
(死の直前まで手がけながら)
未完のままに終わりました。
ポオを受け容れるような
世紀末の文学趣味が醸し出す
時代の雰囲気というか
空気のようなものが
世紀末文学の
錚々たる面々の名前とともに
あげられていて
ミステリ小説好きとしては
興味津々で読めたのでした。
デカダン文学の勉強にもなったし。
開巻、びっくりしたのは
ドビュッシーの父親が
パリ・コミューンに参加していて
投獄されたこともある
という歴史的事実です。
パリ・コミューンについては
ずいぶん前に
そういうタイトルの岩波新書か何かを
読んだことがあったので
ずいぶん親近感が湧いたというか。
それがドビュッシーの音楽に
何らかの影響を与えたわけではないようですが
本書の冒頭の章は
ランボーやヴェルレーヌも登場して
それこそ、山田風太郎の明治もののような
伝奇小説的面白さがありました。
ミステリ好きとしては
後半・第6章からの
ポオ作品のオペラ化をめぐる記述が面白い。
T・S・エリオットがある講演で
なぜフランスでポオがウケるのか
分からないと言い
結局、みんな英語が
よくできなかったからに違いない
と喋っていることを紹介した箇所は
大笑いさせられました。
後半には
青柳による「アッシャー家の崩壊」論
といった趣きの箇所もあり
そちらに関心のある方なら
ポオ関連の文献として
楽しめるかと思います。
青柳いづみこによる
ドビュッシー論のポイントは
ドビュッシーが
「音楽家として育てられた文学青年」で
「作曲家のようにして育てられた演奏家として
作曲した」
という箇所に尽きるかと思います。
文学青年として
文学テクストを深く読み込めたけれども
その読み(テクストから受けた印象)を
そのまま楽曲として表わそうとしたから
オペラの未完成作品が
多かったのではないか。
そしてドビュッシーは
デカダンなものに惹かれながら
当時の保守的な耳のために
あるいは聴衆を楽しませるために
デカダンの方へと振り切れず
それが光を求める印象派的な作風として
同時代の人々には感じられたし
今でもそのように受けとられている
という主張になるかと思います。
メーテルリンクの戯曲に基づく
『ペレアスとメリザンド』が
当時のオペラの常識に反して
人間の自然な身振り素振り語りと
音楽的語法との融合を示し
それなりの成功を収めたらしいですけど
(リヒャルト・シュトラウスは
否定的だったそうです)
「アッシャー家の崩壊」については
ポオのテクスト自体が作りもの
読者への効果を考えた人工物であるのに
テクストから感じられる
恐怖などの自然な感情と
音楽的語法を融合しようとしたから
完成させられなかったのではないか
と書かれています。
また、ポオのテクストを読んで
自分が感じた恐怖心を描く際
やはり恐怖を盛り上げる技巧というものが
必要になってくる。
それがドビュッシーには
できなかったのではないか
とも述べられていて
面白い解釈だと思いました。
学位請求論文を基にしているので
一般書としては
やや固いところがあり
ドビュッシーのそうした
文学言語と音楽言語との
融合と乖離にまつわる苦闘についてなら
以前こちらで取り上げた
『双子座ピアニストは二重人格?』
(別題『モノ書きピアニストはお尻が痛い』)を
読んだ方が
分かりやすいかと思います。
『グレン・グールド
——未来のピアニスト』を読んだあとに
本書を読むと
精神の中に現われては消える
形のないもの
「いうにいわれぬもの」
(副題の「エクトプラズム」とは
それを象徴しています)
そういうものを
形にしようとして
苦労する者たちという点で
青柳のドビュッシー像と
グールド像は
共通するものがあるのかなあ
とか思ったりしたことでした。
