
(河出書房新社、2014年3月30日発行)
副題は「ゴジラは何でできているか」。
『ゴジラ』(1954)以前の
日本のSF映画の流れを追った本です。
SF映画というより
特撮映画といった方が
妥当かも知れません。
いわゆるSF、
ジャンルとしてのSFに限らず
特撮を使った忍術映画や
ホラーテイストの作品なども
対象になっていますから。
衣笠貞之助の『狂った一頁』(1926)から始まり
『和製キング・コング』(1933)
『大仏廻国・中京篇』(1934)
『都会の怪異 七時〇三分』(1935)
『怪電波殺人光線』(1936)
『鋼鉄人間』(1938)
『江戸に現れたキングコング』(同)
『東京要塞』(同)といった
現在ではフィルムすら残っていない作品も含めて
その内容が紹介されています。
このうち
『都会の怪異 七時〇三分』は牧逸馬の
『東京要塞』は海野十三の原作で
それぞれ映画化されたことすら
知らなかった人間ですから
たいへん勉強になりました。
プロレタリア文学者の
貴司山治(きし・やまじ)に
映画化を想定して書かれた
(そして結局は公開されなかった)
探偵趣味の物語があるということも知らず
シナリオ形式で書かれたそうですが
これはちょっと読んでみたいですね。
なぜかロボットが出てくる映画を
しかもチャンバラ時代劇として作ったらしい
極東キネマの作品には
興味が引かれましたが
(東映の『仮面の忍者赤影』の先駆?!)
フィルムが残っていないそうで
それは実に残念。
本邦初の
着ぐるみによるミニチュア特撮らしい
『大仏廻国』も、すごそう。(^▽^;)
映画が日本に入ってきた頃(明治30年頃)は
もちろんサイレント(無声映画)で
それはいいんですが
当時の観客は、鴨が泳いでいるシーンでも
鴨が泳いでいると弁士が言わなければ
意味が取れなかったというのは
ほう、という感じで面白く
「投射された画面の中身だけを
情報として受け取るという約束事」(p.34)が
映画輸入期の日本人には難しかった
というのには、びっくりでした。
だから例えば
SF映画の父といわれるジョルジュ・メリエスの
『月世界旅行』(1902)のような作品も
そのままでは当時の日本人には
理解できなかったろうといわれて
また、ほう、と頷かされたり。
「まったく未知の映像を
観客に理解させることは難し」く
ジュール・ヴェルヌの原作が
当時、ベストセラーだったからこそ
メリエスの『月世界旅行』も成功したのだ
というあたり(p.47)にも
続けて、ほう、となったり。
それでも当時の日本人が
約束ごととして理解していた映像
例えば歌舞伎の場面とかなら
弁士の説明がなくても理解できたから
歌舞伎の場面を映した映画が最初は多かった
というのを読んで、またもや
ほう、と感心した次第でした。
特に、最後の点に関して
忍者を移したあとにカメラを止めて
忍者をどかした後にガマを置いて
またカメラを回して撮った映像を
忍者がガマに変わったと理解できるのは
日本人だけだろう
というあたり(pp.46-47)は
なかなかうまい譬え話でした。
そうした状況の中から生まれてきた
さまざまな特撮映画に
円谷英二がどのように関わり
どう感じてきたかということも
フォローされていまして
だから先に書いたような副題になるわけです。
「ゴジラ生誕60周年記念」と
オビに謳われておりますが
かなり絡めてから攻めてきた感じですね。
もちろん、そこがいいわけです。
巻末には
「現在視聴可能な映画リスト」
というものが付いていて
こんなに観られるのかという驚きと
こんなに商品化されていないのか
という残念な想いにとらわれます。
『狂った一頁』や
『都会の怪異 七時〇三分』ぐらいは
DVD化されてほしいものです。
