かわいそうは誰がきめる?
同情というのは難しい。
可哀想というのはもっと難しい。
小さい頃、母は私に「保育園はかわいそうな子が通うところ」と教えていました。
今にして思うと偏見ばりばりですねw.
社会的にもそういう風潮があったみたい。
妻ねこは、父はサラリーマン母は専業主婦の昭和の典型的核家族で育ちました。。
郊外だからか、周囲も専業主婦がほとんど。
時代的に、子持ち女性で働いてるのは、公務員か看護士さんと自営業くらいだったかも。。
政治的にも、専業主婦を推進するような時代だったみたいです。
だから、核家族のワーキングマザーを支える制度はないし、学童保育(放課後3年生までの児童を預かる施設)も充実してなかったらしくて、家に帰宅時誰もいないから、鍵を持ち歩く「かぎっ子」という俗称も生まれました。
確かに、制度が整っていないという意味では可哀想かもしれないけど、(昭和の子供は現在より治安もよくて、帰宅後は外や友達の家で遊んだり、夕方再放送のアニメを楽しんでて、それほど孤独ではなかったかと。)
あのころの専業主婦の言う「共働き家庭の子は可哀想」は、裏を返せば「うちは幸せ」と言いたかったのかなと。
人は自分を正当化したがる生き物だし、多数派=普通=幸せと想う傾向もあるみたい。
(妻ねこの母の場合、10歳で父を亡くし母が住職(寺)になって、母親的存在の不在に不満があったため、自分は母親がいつでも子供のそばにいる家庭に憧れが特に強かったようです。)
専業主婦家庭が幸せで、共働きの家の子は可哀想だと、私は刷り込まれていました。
小学校の頃、共働き家庭の友達と家庭訪問の話をしてて
彼女が「うちのお母さん仕事だから」と言ったので、
「そっか。お母さん働いてると大変だね~。」と
同情をこめて言うと、
彼女が、その雰囲気を感じ取ったのか
はっとしました。
初めて、母や近所の専業主婦が言ってる「共働きの家の子は可哀想」というセリフは>「偏見」なんだと気がついて、恥じ入ったのを覚えてます。
※「差別発言は当人に向かって言ったダメでしょう!空気よめょ!」
と思ったそこのあなた。。
子供ってそんなもんです。。親の発言まんま真に受けてどこでもしゃべります。
子供に言いふらされたら困る事は言わないように、お気をつけあそばせ♪
ちなみに、妻ねこは、専業主婦も共働きもパートも、どれだっていいじゃないと想います。
各々メリットデメリットがあるし、子供の個性・環境・家庭事情に即してるかどうかが大切だと思うし。
自分の立ち居地を正当化したいのは普通の事だけど、自分以外の立場を否定することで自分を正当化するなょ。。。
と、その頃から強く思うようになりました。
「ワーキングマザーVS専業主婦」の言い争い本や番組が流行ったことがあったけど、正直、不毛な争いにしか見えませんでした。
可哀想って、時として、本人ではなく、他人が決めますょね?。
妻ねこは、魚貝全般に極度のアレルギーがあります。
日本はお魚大国。「魚貝アレルギー」と告げると、皆さん一様に
「お魚食べられないなんて、かわいそうに」と同情してくださいます(他に言いようがないだけかも(^^ゞだけど。)
魚貝アレルギー発症したのは物心つく前。魚の味は覚えていません。
魚を食べないのが当たり前(食べたらしにかねないし)に生きてきたので、
自分にとって“食べもの”じゃないし、魚を見て美味しそうとも想いません。
母が家族が魚料理の時私だけ別メニューを出してくれてたおかげで、
給食の時不便と思う事はあっても、お魚が食べられなくて哀しいとは微塵も想いませんでした。
大好きだったものが、途中から失われるのはツライですが、最初からそれがあたり前なので 大人になって、会食とかで(特に飲み会の幹事さんとか)相手に気を使わせてしまうのはデメリットだなぁ・・と自覚は出ましたが、不幸には想いません。
それでも、気の毒に・・可哀想に、ってよく言われます。
私、自分では可哀想と思わないけど・・
可哀想って他人が決めるもんなんだな。。
とか想いました。
同情してくださる人は、優しい人ばかりなので、お気持ちはいただきますが。
もちろん、大多数の人がどう感じるのかと知るのは社会性を身につけるために大事だけど、
“可哀想を刷り込む”のは、あんまり好ましくないなぁ・・と思ってます。
本人は不幸だとも自分が可哀想だとも思ってなかったのに、
周囲から「かわいそうに」と言われると
「私、かわいそうな人なのか」と、違和感をもったり、人によっては刷り込まれていく。
よく、クラスでいたでしょう?
何か失敗とかけんかがあって、本人泣いてないのに
「●ちゃん泣いちゃうぞ!泣いちゃうぞ」って周りから言われると、
「わーん」て泣き出す子。
子供は刷り込まれやすい。
「可哀想」を考察しますとですね、
大学の時、考古学の授業なのに「可愛いについて」レポートを書かされたあことがあります。
一般教養の授業とはいえ、あの教授、女子大を舐めてたんかしら?
考古学を学びたがってた生徒には大不評でしたょw。
あ、でね、「可愛い」を真面目に調べててたら、
「可愛いと可哀想」は元は同義で、
「可愛い=可哀想=保護したくなる」という三段スライド方式の感情の表れなんだそうです。
動物(含む人間)の赤ちゃんて、顔つき可愛いでしょう?
あれは、一人では生きられない赤ちゃんが、大人に、ビジュアルで
「可愛い→かわいそう→保護しなければ!」
って感情を大人に抱かせて、保護して育ててもらって生き延びれるようDNAに組み込まれてるらしいの。
可愛い=可哀想は人類生き残りのための重要キーワードだったのですねー。
で(^^ゞ、何がいいたいかっていうと、“可哀想も、相手への優しさや保護したいと思わせる感情だから、大切”ということ。、
可哀想だと思うからこそ、どうにかしてあげたくて、手を差し伸べるのだから。
けど、
本人が辛がってもいない相手に、「かわいそう!」って言葉にして投げかけるのは、どうなのかなぁと。
同情って、本来はツラい想いをした人の気持ちに共感して寄り添うことを言うと思うんだけど、
場合によっては、同情された側は“可哀想のレッテル貼られた気分”にならないかなって。
あ、もちろん、本人がつらくて悲しくてという時、「可愛そうに」の言葉で、
安らいだり、救われることがあるかもしれませんが。
ついでにね、
美人だけどかなりぽっちゃりの友達が言ってたの。
「私、いつも、やせたらかなりの美人だねって言われるけど、
私、人生でやせてたこと一度もないんだけど。
骨格的にもこれがデフォルト=初期設定だと思うんだよね。
痩せたら美人って言われても、
痩せなかったら一生惜しい人みたいでなんかね。。」と。
妻ねこは年中無休のアトピー肌。たいてい顔が赤く荒れている。
「お肌がきれいだったらもっと可愛いのにね~。惜しいわね~。かわいそうに」
って同情されること多々。
でもね~、肌の荒れてない日なんて1年に片手で足りるくらい希少なんですけど。
つまり、いつも惜しい残念な人ってことですね・・とか思ってたょ。。
同情するのって難しいねー♪
相手を傷つけず、気持ちに寄り添うのって、大人になってもなかなか試行錯誤ですね。
P.S.
えっへー、今回長くなっちゃった♪文字多いしーw
でもこれ、まだ、明日の記事の伏線なんです。
明日の記事、もっと早く書きたかった記事なのに、腰痛めたり家庭内熱中症になったりトラぶってばかりで遅くなったけど、なんとか週末に間に合いそうだー(∩.∩)♪
可哀想というのはもっと難しい。
小さい頃、母は私に「保育園はかわいそうな子が通うところ」と教えていました。
今にして思うと偏見ばりばりですねw.
社会的にもそういう風潮があったみたい。
妻ねこは、父はサラリーマン母は専業主婦の昭和の典型的核家族で育ちました。。
郊外だからか、周囲も専業主婦がほとんど。
時代的に、子持ち女性で働いてるのは、公務員か看護士さんと自営業くらいだったかも。。
政治的にも、専業主婦を推進するような時代だったみたいです。
だから、核家族のワーキングマザーを支える制度はないし、学童保育(放課後3年生までの児童を預かる施設)も充実してなかったらしくて、家に帰宅時誰もいないから、鍵を持ち歩く「かぎっ子」という俗称も生まれました。
確かに、制度が整っていないという意味では可哀想かもしれないけど、(昭和の子供は現在より治安もよくて、帰宅後は外や友達の家で遊んだり、夕方再放送のアニメを楽しんでて、それほど孤独ではなかったかと。)
あのころの専業主婦の言う「共働き家庭の子は可哀想」は、裏を返せば「うちは幸せ」と言いたかったのかなと。
人は自分を正当化したがる生き物だし、多数派=普通=幸せと想う傾向もあるみたい。
(妻ねこの母の場合、10歳で父を亡くし母が住職(寺)になって、母親的存在の不在に不満があったため、自分は母親がいつでも子供のそばにいる家庭に憧れが特に強かったようです。)
専業主婦家庭が幸せで、共働きの家の子は可哀想だと、私は刷り込まれていました。
小学校の頃、共働き家庭の友達と家庭訪問の話をしてて
彼女が「うちのお母さん仕事だから」と言ったので、
「そっか。お母さん働いてると大変だね~。」と
同情をこめて言うと、
彼女が、その雰囲気を感じ取ったのか
はっとしました。
初めて、母や近所の専業主婦が言ってる「共働きの家の子は可哀想」というセリフは>「偏見」なんだと気がついて、恥じ入ったのを覚えてます。
※「差別発言は当人に向かって言ったダメでしょう!空気よめょ!」
と思ったそこのあなた。。
子供ってそんなもんです。。親の発言まんま真に受けてどこでもしゃべります。
子供に言いふらされたら困る事は言わないように、お気をつけあそばせ♪
ちなみに、妻ねこは、専業主婦も共働きもパートも、どれだっていいじゃないと想います。
各々メリットデメリットがあるし、子供の個性・環境・家庭事情に即してるかどうかが大切だと思うし。
自分の立ち居地を正当化したいのは普通の事だけど、自分以外の立場を否定することで自分を正当化するなょ。。。
と、その頃から強く思うようになりました。
「ワーキングマザーVS専業主婦」の言い争い本や番組が流行ったことがあったけど、正直、不毛な争いにしか見えませんでした。
可哀想って、時として、本人ではなく、他人が決めますょね?。
妻ねこは、魚貝全般に極度のアレルギーがあります。
日本はお魚大国。「魚貝アレルギー」と告げると、皆さん一様に
「お魚食べられないなんて、かわいそうに」と同情してくださいます(他に言いようがないだけかも(^^ゞだけど。)
魚貝アレルギー発症したのは物心つく前。魚の味は覚えていません。
魚を食べないのが当たり前(食べたらしにかねないし)に生きてきたので、
自分にとって“食べもの”じゃないし、魚を見て美味しそうとも想いません。
母が家族が魚料理の時私だけ別メニューを出してくれてたおかげで、
給食の時不便と思う事はあっても、お魚が食べられなくて哀しいとは微塵も想いませんでした。
大好きだったものが、途中から失われるのはツライですが、最初からそれがあたり前なので 大人になって、会食とかで(特に飲み会の幹事さんとか)相手に気を使わせてしまうのはデメリットだなぁ・・と自覚は出ましたが、不幸には想いません。
それでも、気の毒に・・可哀想に、ってよく言われます。
私、自分では可哀想と思わないけど・・
可哀想って他人が決めるもんなんだな。。
とか想いました。
同情してくださる人は、優しい人ばかりなので、お気持ちはいただきますが。
もちろん、大多数の人がどう感じるのかと知るのは社会性を身につけるために大事だけど、
“可哀想を刷り込む”のは、あんまり好ましくないなぁ・・と思ってます。
本人は不幸だとも自分が可哀想だとも思ってなかったのに、
周囲から「かわいそうに」と言われると
「私、かわいそうな人なのか」と、違和感をもったり、人によっては刷り込まれていく。
よく、クラスでいたでしょう?
何か失敗とかけんかがあって、本人泣いてないのに
「●ちゃん泣いちゃうぞ!泣いちゃうぞ」って周りから言われると、
「わーん」て泣き出す子。
子供は刷り込まれやすい。
「可哀想」を考察しますとですね、
大学の時、考古学の授業なのに「可愛いについて」レポートを書かされたあことがあります。
一般教養の授業とはいえ、あの教授、女子大を舐めてたんかしら?
考古学を学びたがってた生徒には大不評でしたょw。
あ、でね、「可愛い」を真面目に調べててたら、
「可愛いと可哀想」は元は同義で、
「可愛い=可哀想=保護したくなる」という三段スライド方式の感情の表れなんだそうです。
動物(含む人間)の赤ちゃんて、顔つき可愛いでしょう?
あれは、一人では生きられない赤ちゃんが、大人に、ビジュアルで
「可愛い→かわいそう→保護しなければ!」
って感情を大人に抱かせて、保護して育ててもらって生き延びれるようDNAに組み込まれてるらしいの。
可愛い=可哀想は人類生き残りのための重要キーワードだったのですねー。
で(^^ゞ、何がいいたいかっていうと、“可哀想も、相手への優しさや保護したいと思わせる感情だから、大切”ということ。、
可哀想だと思うからこそ、どうにかしてあげたくて、手を差し伸べるのだから。
けど、
本人が辛がってもいない相手に、「かわいそう!」って言葉にして投げかけるのは、どうなのかなぁと。
同情って、本来はツラい想いをした人の気持ちに共感して寄り添うことを言うと思うんだけど、
場合によっては、同情された側は“可哀想のレッテル貼られた気分”にならないかなって。
あ、もちろん、本人がつらくて悲しくてという時、「可愛そうに」の言葉で、
安らいだり、救われることがあるかもしれませんが。
ついでにね、
美人だけどかなりぽっちゃりの友達が言ってたの。
「私、いつも、やせたらかなりの美人だねって言われるけど、
私、人生でやせてたこと一度もないんだけど。
骨格的にもこれがデフォルト=初期設定だと思うんだよね。
痩せたら美人って言われても、
痩せなかったら一生惜しい人みたいでなんかね。。」と。
妻ねこは年中無休のアトピー肌。たいてい顔が赤く荒れている。
「お肌がきれいだったらもっと可愛いのにね~。惜しいわね~。かわいそうに」
って同情されること多々。
でもね~、肌の荒れてない日なんて1年に片手で足りるくらい希少なんですけど。
つまり、いつも惜しい残念な人ってことですね・・とか思ってたょ。。
同情するのって難しいねー♪
相手を傷つけず、気持ちに寄り添うのって、大人になってもなかなか試行錯誤ですね。
P.S.
えっへー、今回長くなっちゃった♪文字多いしーw
でもこれ、まだ、明日の記事の伏線なんです。
明日の記事、もっと早く書きたかった記事なのに、腰痛めたり家庭内熱中症になったりトラぶってばかりで遅くなったけど、なんとか週末に間に合いそうだー(∩.∩)♪