一昨日も母と教会に行って来ました。


母は、耳が遠いので、牧師さんの説教が聴きづらいと言ってました。


自分は昔から、礼拝中に牧師先生の説教をノートに書き写していてそれが習慣化しています。

その日も牧師先生の説教をノートに書き写していました。


今回も母のために礼拝の説教をパソコンで書き起こして、プリントアウトして、母にあげましたが、書いてみて、このブログを見てくださる皆さんにも分かち合いたいと思い、ここに公開することにしました。


その牧師さんの説教(お話)です。



第1主日礼拝次第:2016年2月7日
説教:渡真利文三先生
マタイによる福音書:5章・43~48節


題“隣人を愛し、祈る”


皆様、おはようございます。

久しぶりに講壇に立つと緊張するやら、皆さんのお顔を見れたり、さわやかになりますが、90歳になる私のためにも、お祈りください。


今日のみ言葉より、お話します。

この2月、今から、67、8年前、賀川豊彦先生が、来沖、講演され、聴講し、クリスチャンになる決心をいたしました。


2月5日、京都でイエス様を称え、クリスチャンとして、生きた26人が教会に通われているとのことで、その方々が京都から長崎まで強制的に歩かされ、そして、十字架にかけられて亡くなられました。この26聖人が長崎駅近くの記念館に祀られています。


――あまり、いつも立たないので、久しぶりにこの場(講壇)に立つとガクガク震えますが(笑)…。


26聖人――400年前の2月5日(一昨日)、その方々が長崎で殉教された日に、私もこの方々に信仰を学びつつ、聖書を学びたいと思います。


何年か前にキリシタン――長崎・西坂にて彼らの偉大な信仰に今でも大きな感動を憶えました。彼らの偉大な信仰に今でも大きな感動を持っています。


26聖人と呼ばれているその中に6人の外国人宣教師と3人の少年がいました。一番年下が12歳。彼の名はルトビコ・イバラギと言いました。
この少年に役人が、
「京都から長崎まで歩かねばならないが、『キリストを知らない』と言えば、許されるぞ」
と言われたのですが、イバラギはこれを拒否し、長崎まで歩きました。
信仰を捨てれば、武士の身分の授与も約束されていました。

しかし、自らの命の限界を知るも「永遠の命を捨てません」と、きっぱり拒否しました。

他の殉教者たちも十字架上でイエス様を賛美しながら命を捨てました。

その中のパウロ・三木は、
「私は何の罪を犯していないが、キリストを伝えたことで死ぬことになります。その恵みに感謝します」
と言いました。
この言葉に私も励まされました。

「死にたくない」
と、あれこれ言っても、しかし、イバラギさんの証しを聞いて、「主イエス様の教えを説いただけで死ぬ」ことを喜びとして受け入れると遺言しました。

彼は、
「真実を申し上げます。私たちは太閤(たいこう)様を始め、処刑にかかわった人達を恨んでいません。しかし、太閤様を含む日本の全ての人達の救いを願っています」
――こうした生き方の後、この26聖人の事が現在でも資料として記念館に残されています。

この、なんとも気高い、誇らしい人々――自分を殺そうとしている人達を憎まず、日本人全ての救いと永命を求めたい生き方に私は涙を流しました。

聖書に、「あなた方に、“敵を愛し迫害する人達のために祈れ”と言い、“父よ、彼らをお許しください、彼らは自分の行動の意味を知らないでいるのです!”と、イエスの最後を見とどけた」――26聖人もイエス様に倣ったのです。


先日も一人の青年が、家庭で福音を伝えようとして、教会でみ言葉を聴いて、父親にも「教会へ行こう」と、誘ったところ、父親に「私も青年時代に『敵を愛せよ』と聖書を学んだ。しかし、それはナンセンスだ。私にはキリストの話をしていいが、他の人達には伝えるな」と言われたそうです。


やはり、我々の中にも出来るだけ、聖書のことを語ろうと心している人々もいる。
「家族には伝えてもいいが、他の人には伝えるな!」と言われて、ショックを受けた青年。
やはり我々の周りには、聖書の教えに反対する人達がいる。その人々のために祈りながら宣教・伝道のためにも祈りが必要。

「祈っている人には、殺そうとしても出来なかった」という。

私たちが聖書を読む前にも読んだ後も祈って行くことが大切。自分で、自分の力ではなく、主と共に、主のみ言葉と力によって歩むべきです。

ですから、私たちが、どこへ行っても、“主と共にいる”場所にはイエス様の働きがあるのです。


今、一人の青年が家庭で父親に福音を伝えると、不本意な事を言われた。しかし、祈りながら、意見の違いを乗り越えて、いつでも、常に祈っていくのが大事です。

「私たちは何を祈るか?」――あなたは、お母さんのために、お父さんのために、どう祈り、接していますか?友人・知人のために祈っていますか?祈りなきところにはサタンしか介入しません。
勝利のために祈ることも必要です。


この26聖人のエピソードで、12歳の少年の言葉――「父よ、彼らをお

許しください。彼らは何をしているのか分からないでいるのです」


私は「この人のために、父母のために、神に祈っていなかったから祈っていきたい」と、祈り終えた後、翌週、母親が、
「明日は日曜日だから、私とお父さんも教会へ連れて行ってくれる?」
と言われた息子は泣いて、
「父さん、母さん、ありがとう」
と言いました。
そして、息子・娘のために真剣に祈るのが大切です。
私達も隣人のために祈って行くべきです。

そして、祈っていない姿を痛感させられ、この父母を省みてください、と。

そして、愛してください、と言って仕えるのが大事です。
家族に言われなくとも、率先して家族を手伝いながら、家庭を築きたい。

その事が行動にも現れることで結実に導かれるのです。

「そこには、私が隣人のために祈ってくれる人に神は自分の働く前に隣人を送ってくれる。だから、イエス様も『祈りなさい』とおっしゃいました」。
「あなたと共について行きます。なので、祈りなさい」
しかし、祈らないことが多いのです。


礼拝に出ても、「あ、今日は牧師がこう言っていたな」、「今日は教会で○○さんが、こう言っていたな」と、思い返しつつ生きて行きましょう。

イエス様も御自身から人々の前に出て、祈られました。祈りによって自分の元へ来たサマリヤの女性のためにも祈られました。
サマリヤの女性はイエス様との出会いによって人間性が変わりました。同じクリスチャン同士でも互いに祈り合うのを忘れてはいけません。


26聖人の方々も祈りを捧げているところへ、多くの迫害を受け、京都から長崎まで強制的に歩かされ、長崎の丘にて十字架上で主を称えつつ、息を引き取りました。

ここにて、
「渡真利君、駄目だよ。もっと、しっかりしなくちゃ」と、励まされました。
今日のみ言葉の中に「隣人を愛せよ!」とあります。

本当に誰に対しても自分が隣人にならなくてはいけません。
会う人たち全てを愛すべきです。敵を愛しなさい――祈り、愛し、自分を苦しめ、迫害する人のために祈りなさい――悪人にも善人にも神様は太陽を昇らせ、雨を降らせる――私達も何をされても、その人達に愛を持って接しなさい。


私達もイエス様のように生きていくのが大切です。どんな人のためにも祈り、助け、支え、協会へ導けるように祈りましょう。高齢でも若い人々にも、どんな人にも真心をもって接し、祈り、導かなければなりません。

私のように90歳になっても、教会まで歩いてこれる人も後々、出てくるでしょう。


しかし、丈夫でない人にも神の声を聴く喜びを伝えましょう。
分け隔ては駄目です。いろんな人たちがいます。いろんな異なる人たちがいます。その人達に愛をもって祈らなければなりません。ただ、私達の生きる姿がいい加減ではなく、真剣に人を愛して、教会へ導きましょう。

私達はあきらめる前に、その人達のために祈るべきです。

ある婦人は「いつ会っても私に嫌味を言ったその人のために何年も祈りました。祈って3年後に、その人は教会へ導かれました」
ですから、私達の祈りは、その人のためだけの祈りではなく、父さん・母さんのためにも毎日祈って行くべきです。


兄弟姉妹、夫、妻のために祈ってきましたでしょうか?
伴侶について「あんな人のために?」と思って祈ることで相手も変わる。その前に自分も変わる。愛をもって、その人のために祈っていかねばなりません。


本当に私達は心から神様に仕えるすばらしいクリスチャンになりましょう。


(――祈り――)




以上、2016年、2月7日の胡屋バプテスト教会の礼拝の説教でした。