映画「ヴィヨンの妻」を観ました。


このところ、愛について


自分なりに考えてみたくて。



「すべてを失った後に、残るのが愛だと女は知っている」

「愛など信じたら、すべてが消えてしまうと、男は恐れている」



このフレーズに興味が湧き、レンタルしてきました。


太宰治は私の地元である三鷹に住んでいた作家。


そして三鷹で愛人と入水自殺をして他界した。


噂によると彼の遺体を玉川上水で発見したのは


私の高校の先生らしい。


 なんだか近い存在なので


それも手伝って作品に関心がありました。


鑑賞してみて、


心があっちこっちにひっかきまわされました。


 家にお金を入れず酒ばかり飲み、


愛人をつくる夫に


ひたむきに尽くし愛し続ける妻。


それでもそれでも


彼を愛し


ただただ


彼のことばかりを考える。


そのまっすぐな愛情に心を動かされる一方で、


これは本当に愛情なのだろうか?


愛情なのは確かなのだけれど、


いわゆる


だめんずを形成してしまう典型的な構図ではないかと


疑問が頭を過ぎる。


 夫役である浅野忠信が愛人役の広末涼子とのベッドシーンは


心が切り裂かれてしまいそうになるくらい辛かった。


自分の夫でもないのに、


苦しかった。


男は簡単にパンツを脱いでしまう生き物なのかもしれないと


改めて空しくなった。


自分は不貞をいとも簡単に繰り返す癖、


妻の行動には厳しく、


男の影を見つけるたびに妻を尾行する。


 ほかの男にプロポーズされて抱きしめられる姿を目撃しただけで


夫は家を飛び出して


愛人と入水自殺を図る。


生き残ってしまった夫は


殺人の容疑で拘留され、


 妻役である松たかこは夫を救うため、


ただ1度弁護士に体を捧げる。


それを知った夫は


別れを告げる。


それでも


妻は夫を追いかけ


手を繋ぎ


「一緒に生きていこう」


「生きてさえいればいい」


そしてこの物語は静かに幕を閉じる。


 愛人と心中をされてもなお


愛してしまう妻の心中。


愛する夫に他の女性の影があるのを知りながらも


気がつかないふりをして家から見送り


次はいつ帰ってくるのかも


わからないまま


家に帰るたびにお金をむしりとっていく


酒と女好きの夫を


それでも


愛し続けることが


とても切なくて


私には耐えられないけれど、


きっと耐えてしまうのだろうな


それでも私も愛し続けてしまうのだろうな


愛してしまうというのはそういうことなのだろうな


そんなことを考えていました。


 この作品を


「素晴らしい」と言う世論には頷けないが、


様々なことを


考えさせられる物語でした。


 やっぱり浮気は絶対にしてはいけない。


それが1番心に浮かびました。


昔はこんな風に思っていた。


「恋愛には初々しさがあり、ときめきがある。

けれど夫婦になればそれは色褪せていく。

そして男は若い女が好きだ。

更に男は必ず浮気をする生き物。

でも女は信じることを怠ってはいけない。

裏切りはいつかあるだろう。

それでも一緒に生きていくことで絆が生まれていく。

その絆こそが夫婦の意味ではないか」


そう思っていたけれど


違うように思えてきた。


そんなものを絆と呼ぶのはただの気休めに過ぎない。


受け入れきれない事実を乗り越えた上で


それに意味をつけなければ


気持ちがおさまらない人間の性が


脳の余計な構造が


そう思おうとしているだけだと思う。



 愛する人と過ごしていても


気に止まる素敵な人は現れるかもしれない。


けれど


愛する人を傷つけないことに務めるのも


愛する人と生きる上での義務ではないでしょうか?


生涯唯一の相手と出会ったら、


その人の心からの笑顔だけを考えていくべきだと


強く心に刻んだ。