武田八幡宮(韮崎市神山町) | okasurferのブログ

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地元山梨の神社を中心に巡拝し、
御朱印、御由緒など御紹介しています。

韮崎市神山町に鎮座される武田八幡宮を御紹介致します。
こちらの神社は弘仁13年(822年)創建の古社で代々甲斐守護武田氏の氏神として崇敬されて来た社です。
甲府市の武田神社は有名ですが(大正8年創建)こちらの社も旧社格は同じく県社に列せらております。
甲府方面から国道20号韮崎市役所前を左折し武田橋西詰を右折暫く道なりに進むと木造の二の鳥居が現れます。
こちらの鳥居は
寛政元年に再興され、県指定有形文化財になっております。





更に進み正面には大きな御神木に囲まれた石鳥居と御神門が御座います。





こちらの御神門も御立派で歴史が感じられます。





境内配置図の案内板が御座いました。






手水舎にてお浄めさせて頂き、更に進みます。






境内は斜面に立ち拝殿までは階段が御座います。







階段を昇り切ると舞殿(神楽殿)が御座います。









更に奥に階段があり拝殿が鎮座されています。










御本殿は檜皮葺き、三間社流造にて天文10年(1542年)武田晴信(信玄)により造営され、国指定重要文化財になっております。








また。本殿右側には一間社流造の摂社若宮八幡神社本殿が鎮座され、こちらも県指定有形文化財になっております。









御朱印は社務所にて授与して頂きました。(例祭時のみ)








御由緒を御紹介致します。


武田八幡宮(韮崎市
神山町北宮地1185


御祭神は誉田別命、足仲津彦命、息長足姫命、武田武大神


旧県社


本務社は
若宮八幡宮(山梨県韮崎市若宮1—4—14)


駐車場は10台程


武田八幡宮は弘仁13(822)年勅命により土地の神、武田王の祠廟に九州宇佐八幡を勧請し併祀して創建されたという。武田王は日本武尊の御子で武田村の桜の御所でこの土地を治められた。さらに清和天皇の貞観年間(859~76)に京都石清水八幡を勧請し甲斐武田氏の崇敬をあつめた。特に新羅三郎義光の曾孫信義は武田八幡宮の社前で元服し武田氏を名乗り甲斐武田が発祥した。

        
武田晴信(信玄)は父信虎の本殿再建を引き継ぎ天文10(1541)年12月23日に竣工させた。雄大な姿と華麗な装飾を備えた本殿は昭和4年国指定重要文化財に指定された。勝頼夫人は新府城落城の寸前の天正10(1582)年2月19日氏神武田八幡宮に勝頼の戦勝と武田家の繁栄を祈願し切々たる願文を奉納した。徳川家からは27石余りの御朱印を与えられ保護された。
「社頭案内板より」

武田八幡宮は弘仁13(822)年、嵯峨天皇の勅命により土地の神武田武大神と豊前国の宇佐八幡を合祀し創建された。社記に「地名の二字を冠として武田八幡宮と奉称し竪五尺横四尺の額面を賜り候」とある。二の鳥居についての記録を見ると、まず当社を氏神と定め尊崇した武田太郎信義の没後3,4年を経た承久2(1220)年に信義の弟加賀美次郎遠光が「本社末社123の鳥居迄造営御座候」と修復整備したことが社記に記されている。また江戸後期の神主矢崎好貫の棟札によれば「天文の元の年武田晴信朝臣の御代御神殿をはじめ石木の鳥居まで残かたなく新たに造りたてんとたくみのことはしめ給いて」とあり、二の鳥居は武田信虎の全面的な再建計画に入れられていた。本殿再建は武田晴信(信玄)によって同十年に完成されたことを示す棟札が残っている。二の鳥居の神額の裏には元禄14(1701)年に再興、寛政元(1789)年に再再興したという記録が刻まれている。その後、昭和54年に屋根の修理が行われ、更に平成11年着工の大改修に至った。
       
興石は昭和初期まで鳥居の中心線上で控え柱西面より神社側に興石東面が約3.5メートル離れた位置にあり、鳥居の下は車馬の通行が激しく禁じられていた。
その後、県道改修の際に現在地に移された。大祭には神輿の渡御が二の鳥居、興石まで行われている。社記によると二の鳥居場は110坪あり、御田祭などの祭事も執り行われた。昭和60年2月に二の鳥居附興石は韮崎市指定有形文化財に指定され、更に平成12年10月には附に神額を特記し山梨県指定有形文化財に指定された。
「社頭案内板より」



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