不治の病 | オカミのナカミ

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気の利いたぽんこつです。メルシー。



ケータイのない時代、今思うと、待ち合わせというのはなかなかスリリングなイベントであったように思う。
一度家を出てしまうと、もう終わりである。
何らかのアクシデントで、その待ち合わせに遅れる及び行けれない事態が発生しても、連絡は取れない。
そして理由もわからず待たされる人が発生するわけだ。
なので、私が10代の頃は、主要な駅や待ち合わせとして利用されている場所には、黒板でできた「伝言板」があった。






常に待たされる側の、時間に正確で几帳面な人種が、業を煮やして捻り出したアイデアであろう。
だいたいいつの世も、待つ人、待たせる人というのはだいたい決まっている。
待つ人は常に待つサイドで、遅れる人は常に遅れるサイドだ。
私自身は社会人3年目あたりから、とにかく定時に到着できないという、原因不明の不治の病に犯されだしたので、とうとうこの伝言板を使うことは人生で一回もなかったのだが、その黒板はたいてい公衆電話の並んでいる近くだったり、駅の切符売り場や改札から目立つ場所に設置されており、おおむね几帳面な人間が、ルーズな人間に向けて、何某かをしたためていたものである。









白墨(何を急に昭和体になっとんか。チョークやろ)で書かれたソレは





「先にゆきます」
「〇〇で待つ」
「××に連絡ください」




という至極まっとうで冷静なものから




「〇時から待ちました。帰ります」
「1時間待った。疲れた」





という恩着せがましいもの、中には




「ずっと待ってました」
「ありがとう」





などと、ドラマを感じさせるようなものもあり、他人の人生を堂々と垣間見られる、なかなか興味深い板っきれだったように思う。







今はそんな伝言板どころか、公衆電話を探すのも一苦労する世の中である。
ケータイひとつあれば、よっぽどの僻地でない限り、変更も言い訳もオンタイムで相手に届く。
伝言板より、よほど正確で効率がよい。






 

 

とはいえ、連絡手段を手にした待たされるものの催促というのは、なかなか凄まじいものがあり、1分遅れてもケータイが即座に鳴るのはいかがなものか。
軍隊かよ。
お前の人生に余白や遊びはいっそないのかと、遅れている癖に相手をなじりたくなる身勝手さは、遅刻常習犯ならではの症状であろう。
そう、これは病なのである。
既にこの病の治療が手遅れとなっているオカミなどは、「少し遅れるかもしれません」とあらかじめエクスキューズしておく技も常備しているが、私とのつきあいが長いD門などは、わぜと待ち合わせ時刻より30分早い時間を知らせてくるなど、相手も戦略を講じてきたりするから始末に悪い。
こうなると、もはや待ち合わせは、経験的なカンを駆使した精神的攻防になったり、蕎麦屋の出前的な演技力の追究になったり、要するに正しい待ち合わせは何時やねん!とこじれてきたりするので、結局のところ、遅れ癖のあるヤツは素直に遅れて謝るのがいちばんである。
(いや、定時に来んかい)






しかし、相手が約束の時間になっても現れず、それが恋人ならなおさらのこと。
時計と相手の来る方向を何度も確認し、果たして相手は来てくれるのかと不安で胸が押しつぶされそうになっている時に、雑踏の中で彼の顔を見つけた時の嬉しさといったら、今の若い世代にはわかるだろうか。







大勢の他人の中で、自分を知ってくれている人を見つけた時のあの安堵感。


 

その人もまた、自分を見つけて、顔をほころばせてくれる、あの満ち足りた笑顔。





待つ人のいる幸せ、待ってくれる人のいる幸せ。









スマホ依存症の私ではあるが、待ち合わせがもたらすあの仄かなときめきと、ピュアな気持ちが戻ってくるのなら、10年ローンを組んでもいい気がする。
月額250円ボーナス払いなしで。
(一括で払え)







 

なので、オカミと待ち合わせをしているあなた。
私が定刻に現れないからといって、ケータイをジャンジャン鳴らすのはおよしなさい。
古き良き時代のあの胸の高鳴りと、ときめきを、待ち人の来たる幸せを、私はあなたにもわけてあげたいのです。
(ほらチェルシー)










・・・・っていう言い訳は通用せんだろうなと、今日も17時始まりの町内役員会に向けて、17時に家を出るオカミは、やはり病気であろう。
周りの人は、せいぜい私を労わってほしいものである。







だって不治なんだもの。








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