神社仏閣にお参りする時は、 | 姓名判断師 岡田健慈のひとりごと

姓名判断師 岡田健慈のひとりごと

姓名判断、改名を行っている岡田健慈の日々のひとり言を書いていきます





もう師走ですね、

年始には、神社、お寺などに、初詣をしますが、

チョット注意しなければならない事が有ります、

わたし個人の勝手なこだわりかもしれませんが、、、、、、。


例えば、慈光寺(都幾川町)があります、

この寺は、 (奈良時代の創建といわれる県内屈指の古刹で、源頼朝を始めとする多くの武将など権力者たちの崇敬を集めてきました。また、観音堂は坂東札所第9番として庶民に至るまで幅広い層に信仰されてきました。)


しかし、往った事が有る方は、お分りの事と思いますが、本堂が如何にも

貧弱なのです、

これは、何度も焼失した結果です、幸いにも、埼玉県で数少ない国宝も

慈光寺には、残っていますが、これは、

軍勢に囲まれた時に、脱出する前に、穴を掘って埋めて隠した為に

今現在残っているのです。


寺伝では康正二年(1456)に太田道灌の軍勢に討ち入られたとある。その後、記録にはないが上田朝直(松山城主、扇谷上杉家の重臣であったが、後に後北条家の臣下となった。)によって、同じく66坊を抱えて栄華を誇った東松山の岩殿正法寺とともに焼き打ちにあった。この時(推定1546~1556)焼失した釈迦堂からは二層の焼土層と、室町時代の瓦が多数、出土されている。
また、後北条家の慈光寺攻めの陣城は5キロ南方の大築山・大築城といわれている。



この事により、太田道灌、の子孫が此の寺にお参りしたとしたら、

ご利益が有るハズもないと思うのです、

人は死ねば罪は消えた様に思いますが、あの比叡山でさえ織田信長を


昭和の時代まで恨んでいたのは、何十年か前にニュースで放送やって

いたのをハッキリと覚えています、


(信長に対する恨みは、1994年の法要で表面的には一応解消したことになっているが、今でも比叡山は神秘的で怖いというイメージは残っているようで、このイメージは将来にわたっても消え去ることはないであろうといわれている。)


慈光寺の住職は、代々畠山重忠の子孫が後を継いでいます、

これは、畠山重忠の信仰熱くお寺に色々寄進していますので、

畠山重忠の板碑が大切に保存されています、


不思議としか言えないのが

畠山重忠公を騙し討ちに殺めた北条時子一族の北条家

とその後条家とは全く関係ないですが、後北条家は

畠山重忠公の大切にしていた慈光寺を

焼き討ちしました、、同じ北条を名乗る事から姓名判断では

ないですが、不思議な縁を感じます。

戦国期、関東最大の大名後北条家、一番の自慢は蜜柑

一番の理解者が家康、で後北条に世話に成っていたのに

秀吉側に付いたのは、いつはが有ります。


家康が、後北条家に、甘い、沖縄蜜柑を贈ったが、無視されてたので

こんなにも狭い世界観では、、、、

と、秀吉側に付いて、後北条家の滅亡につながったというエピソードが

有ります、

蜜柑、イコール小田原後北条、詰り蜜柑は後北条

小田原形の蜜柑は植えて居ません。


ちなみに、ミカンの北限は、埼玉の鉢形城周辺と言われていますが、


一方、太田道灌は、近くの越生町の龍穏時に分骨した墓が有ります、



これは、矢張り道潅公の信仰厚く、色々な寄進をしているからです

この龍穏時の石積みは、戦国時代から有名な職人で

江戸城の石積みもこの職人集団が施工しました、

江戸城は太田道灌が家康より先に築城したものです


このことから、太田道灌の子孫が居たとして、お参りすれば


それは、ご利益が有るに決まっていますね。


お寺や神社にお参りする時は、自分のルーツを確認して

お参りすることをお勧めします。