鏡月玖璃子は、「パンゲアドール」という本を出している方である。
(以前書いた書評はこちら)
ここで読んだ「愛着~attachment」は、彼女のサイトに発表されたものである。
エッセーではなく批評(criticism)である、と鏡月は言う。
それを読んだ「感想」が、以下である。
おそらく私の書いたものはエッセーである。
*****
ユトリロのパレット。
なんとも、響きのよい、芳しさを催させる、
甘美な言葉。
確かにそれは、「愛着」という言葉に、
あいふさわしい。
それにしても、自らの「愛着」について、語らぬまま、
ユトリロの「愛着」を語るのは、どうしてだろうか。
「愛着」を語ることは、ある種の、羞恥を伴うからであろうか。
たとえばこれを、「私の愛用品」とするならば、
おそらく、もっと気楽に、身近な品々やコレクションを、
思いつくままに挙げて、楽しげに、説明したことだろう。
また、これを、「私の執着するもの」とするならば、
さらにもっと、他人に説明することもためらわれて、
もう少し自嘲気味に、なるべく、ドライに語ってしまうか、
それとも、本気で、自身の心の奥底にあるひそやかな欲望を
滔々と告白口調で語り示すにちがいない。
しかし、「愛着」とは、「愛用」でも「執着」でもない。
「愛用」と「執着」のはざまにある、
軽々しくはないが、かといって、無駄に重々しいのでもない、
絶妙な、モノと関係。
(おそらく、ヒトではない。モノ、なのではないだろうか?)
いやいや、モノなのか、物なのか、ものなのか、対象なのか、
物体なのか、ブツなのか、物質なのか、「それ」なのか、
いい言葉が浮かばない。
むしろ、それは単なる、独立した「物」ではない。
愛着、アタッチメントとは、要するに、まるで、あるものに
あるものが、はじめから付いていたような、そんな関係であるのだから、
ただの「私」と「物」との関係ではない。
その「物」がまるで「私」の一部を構成しているかのような、
「私」にとって、その「物」が不可避で不可欠な付加物であるかのような。
であるから、どちらかといえば、「私」がその愛着の「物」を語るよりも、
「他者」から見て、「私」と「物」との相思相愛的な関係に思いを寄せるほうが、
なんとも自然に感じる。
最初に、この鏡月のエッセー「愛着~attachment」を読んだとき、まず考えたのは、
この「私」(つまり自分)にとっての「愛着」とは何だろう、ということだった。
そしてその回答は、なんの躊躇もなく、思いついた。
ギター、である。
私は、ギターを弾くのが好きだ。ギターの曲を聴くのが好きだ。
しかし、確かに自らの愛着について語るのは、けっこう億劫なものである。
聞き手(読み手)がこのモノに少しでも関心をもってくれていればよいいのだが、
そうでなければ、この語りは、空しく徒労に終わるおそれがある。
共通の「愛着」(作者の言う「約数」)があってはじめて、
己の「愛着」については、重い口を開くかもしれない。
しかし、そうでなければ、あまり、自分の「愛着」を語る気には、なれそうにもない。
だから、他者の愛着について、語るのであろうか。
だから、ユトリロのパレットについて、語るのであろうか。
では、私も鏡月に触発されて、パレットについて、語ってみよう。
画家にとっての「パレット」とは、絵を描くために必須の道具であるが、
ここでは、その意味での「愛着」ではない。
絵を描くという目的のために、絵の具を付着させ、薄めたり、混ぜ合わせる、
そういった「手段」としての「道具」ではない。
むしろ、そういった「道具」であるにもかかわらず、パレットにあえて、
絵を描くことにこそ、「パレット」に対する、そこはかとない「愛着」を
私たちは感じとるのであろう。
残念ながら私には絵心もなく、ユトリロのこの、パレットに描かれた絵というものも、
ネットでしかみたことがないので、本当のところ、どこまで彼にとって、
「愛着」があるのかは、分からない。
しかし鏡月の文章を読んで、逆に、思い出してしまったのは、自分がかつて、幼少の頃に、
パレットに落とし込んでいた、水彩の絵の具のことだった。
パレットではなく、絵の具である。
もしくは、パレットを汚す、絵の具である。
何もないパレットは美しい、と思った。
絵の具を少しずつ、順番に、チューブから絞り出したあとも、
決して醜くはない。
だが、ひとたび絵筆である色とある色を混ぜあわせはじめると、なぜだか、
美しいと思ったことがなかった。
むしろ、醜悪だとさえ思った。
私にとっての「パレット」は、ユトリロと違って、本当に「愛着」とはかけはなれたものだった。
ただ、それも、もう少し厳密に言えば、水で溶かして白い画用紙に色を塗りたくるという、
そういった絵が、嫌いだったことに起因するのかもしれない。
絵の具は、12色というよりも、24色や36色という、最初から「~いろ」と名付けられたチューブが、
できるだけ多いものが好きだった。
それは、自らが色を見出すのではなく、世界に名付けられた色をまず知りたかったからだろう。
しかし、実際に描くべきものは、「あおむらさき」も「やまぶき」も「もえぎ」もなく、
もっと淡白な、たとえばコンクリート色が大部分であったことに、嫌気がさした。
むしろ、油絵のもつ、あの、色彩が、溶け合わない、頑固さ、一途さ、
それに、あこがれていたとも言える。
水彩の「水」は「白」ではなく、「透明」である。そして、それは、色、というよりも、
薄める、という、機能を意味している。
水彩の場合、パレットでできること、それは、色と色を混ぜ合わせることよりも、
この水を使って、それぞれの「色」を薄めることである。
何も知らない私は、もう、パレットにおいて、絵を描くという行為に、絶望を抱いた。
そこには、何の喜びもなかった。
ほんとうは、画用紙なりに、色を落としてこそ、はじめて「絵を描く」ということである、
ということに気づいたのは、それからかなりしてからである。
図画の宿題として、家で、近所の寺を描いていてたことがある。
もう、いやだこんなこと、もう面倒だ、と思っていたところ、
うしろから、父親が、とつぜん、さらさら、とパレットからいくつかの色を絵筆につけ、
画用紙に塗り始めたのである。
それは、何度か繰り返され、見てみれば、驚くほど、美しい寺の錆びついた瓦がそこに、あった。
そうなのだ、私がそこで知ったのは、画用紙のうえで、何度でも色は重ねることができる、
ということだった。
そして、それが「絵を描く」ということであって、私は、パレットで「色をつくる」ことに、
執着し、そしてその結果「色を薄める」ことになり、挫折していたのだった。
ユトリロが「母」と「パレット」を「愛着」につないだ文章を読むことによって、
私は、かつて自分が「父」への「愛着」を「画用紙」とそこに塗られた「色」によって、
感じとっていたことに、今、気づいたのだった。
鏡月の美しい文章を読んで、こんなことを思った。
(以前書いた書評はこちら)
ここで読んだ「愛着~attachment」は、彼女のサイトに発表されたものである。
エッセーではなく批評(criticism)である、と鏡月は言う。
それを読んだ「感想」が、以下である。
おそらく私の書いたものはエッセーである。
*****
ユトリロのパレット。
なんとも、響きのよい、芳しさを催させる、
甘美な言葉。
確かにそれは、「愛着」という言葉に、
あいふさわしい。
それにしても、自らの「愛着」について、語らぬまま、
ユトリロの「愛着」を語るのは、どうしてだろうか。
「愛着」を語ることは、ある種の、羞恥を伴うからであろうか。
たとえばこれを、「私の愛用品」とするならば、
おそらく、もっと気楽に、身近な品々やコレクションを、
思いつくままに挙げて、楽しげに、説明したことだろう。
また、これを、「私の執着するもの」とするならば、
さらにもっと、他人に説明することもためらわれて、
もう少し自嘲気味に、なるべく、ドライに語ってしまうか、
それとも、本気で、自身の心の奥底にあるひそやかな欲望を
滔々と告白口調で語り示すにちがいない。
しかし、「愛着」とは、「愛用」でも「執着」でもない。
「愛用」と「執着」のはざまにある、
軽々しくはないが、かといって、無駄に重々しいのでもない、
絶妙な、モノと関係。
(おそらく、ヒトではない。モノ、なのではないだろうか?)
いやいや、モノなのか、物なのか、ものなのか、対象なのか、
物体なのか、ブツなのか、物質なのか、「それ」なのか、
いい言葉が浮かばない。
むしろ、それは単なる、独立した「物」ではない。
愛着、アタッチメントとは、要するに、まるで、あるものに
あるものが、はじめから付いていたような、そんな関係であるのだから、
ただの「私」と「物」との関係ではない。
その「物」がまるで「私」の一部を構成しているかのような、
「私」にとって、その「物」が不可避で不可欠な付加物であるかのような。
であるから、どちらかといえば、「私」がその愛着の「物」を語るよりも、
「他者」から見て、「私」と「物」との相思相愛的な関係に思いを寄せるほうが、
なんとも自然に感じる。
最初に、この鏡月のエッセー「愛着~attachment」を読んだとき、まず考えたのは、
この「私」(つまり自分)にとっての「愛着」とは何だろう、ということだった。
そしてその回答は、なんの躊躇もなく、思いついた。
ギター、である。
私は、ギターを弾くのが好きだ。ギターの曲を聴くのが好きだ。
しかし、確かに自らの愛着について語るのは、けっこう億劫なものである。
聞き手(読み手)がこのモノに少しでも関心をもってくれていればよいいのだが、
そうでなければ、この語りは、空しく徒労に終わるおそれがある。
共通の「愛着」(作者の言う「約数」)があってはじめて、
己の「愛着」については、重い口を開くかもしれない。
しかし、そうでなければ、あまり、自分の「愛着」を語る気には、なれそうにもない。
だから、他者の愛着について、語るのであろうか。
だから、ユトリロのパレットについて、語るのであろうか。
では、私も鏡月に触発されて、パレットについて、語ってみよう。
画家にとっての「パレット」とは、絵を描くために必須の道具であるが、
ここでは、その意味での「愛着」ではない。
絵を描くという目的のために、絵の具を付着させ、薄めたり、混ぜ合わせる、
そういった「手段」としての「道具」ではない。
むしろ、そういった「道具」であるにもかかわらず、パレットにあえて、
絵を描くことにこそ、「パレット」に対する、そこはかとない「愛着」を
私たちは感じとるのであろう。
残念ながら私には絵心もなく、ユトリロのこの、パレットに描かれた絵というものも、
ネットでしかみたことがないので、本当のところ、どこまで彼にとって、
「愛着」があるのかは、分からない。
しかし鏡月の文章を読んで、逆に、思い出してしまったのは、自分がかつて、幼少の頃に、
パレットに落とし込んでいた、水彩の絵の具のことだった。
パレットではなく、絵の具である。
もしくは、パレットを汚す、絵の具である。
何もないパレットは美しい、と思った。
絵の具を少しずつ、順番に、チューブから絞り出したあとも、
決して醜くはない。
だが、ひとたび絵筆である色とある色を混ぜあわせはじめると、なぜだか、
美しいと思ったことがなかった。
むしろ、醜悪だとさえ思った。
私にとっての「パレット」は、ユトリロと違って、本当に「愛着」とはかけはなれたものだった。
ただ、それも、もう少し厳密に言えば、水で溶かして白い画用紙に色を塗りたくるという、
そういった絵が、嫌いだったことに起因するのかもしれない。
絵の具は、12色というよりも、24色や36色という、最初から「~いろ」と名付けられたチューブが、
できるだけ多いものが好きだった。
それは、自らが色を見出すのではなく、世界に名付けられた色をまず知りたかったからだろう。
しかし、実際に描くべきものは、「あおむらさき」も「やまぶき」も「もえぎ」もなく、
もっと淡白な、たとえばコンクリート色が大部分であったことに、嫌気がさした。
むしろ、油絵のもつ、あの、色彩が、溶け合わない、頑固さ、一途さ、
それに、あこがれていたとも言える。
水彩の「水」は「白」ではなく、「透明」である。そして、それは、色、というよりも、
薄める、という、機能を意味している。
水彩の場合、パレットでできること、それは、色と色を混ぜ合わせることよりも、
この水を使って、それぞれの「色」を薄めることである。
何も知らない私は、もう、パレットにおいて、絵を描くという行為に、絶望を抱いた。
そこには、何の喜びもなかった。
ほんとうは、画用紙なりに、色を落としてこそ、はじめて「絵を描く」ということである、
ということに気づいたのは、それからかなりしてからである。
図画の宿題として、家で、近所の寺を描いていてたことがある。
もう、いやだこんなこと、もう面倒だ、と思っていたところ、
うしろから、父親が、とつぜん、さらさら、とパレットからいくつかの色を絵筆につけ、
画用紙に塗り始めたのである。
それは、何度か繰り返され、見てみれば、驚くほど、美しい寺の錆びついた瓦がそこに、あった。
そうなのだ、私がそこで知ったのは、画用紙のうえで、何度でも色は重ねることができる、
ということだった。
そして、それが「絵を描く」ということであって、私は、パレットで「色をつくる」ことに、
執着し、そしてその結果「色を薄める」ことになり、挫折していたのだった。
ユトリロが「母」と「パレット」を「愛着」につないだ文章を読むことによって、
私は、かつて自分が「父」への「愛着」を「画用紙」とそこに塗られた「色」によって、
感じとっていたことに、今、気づいたのだった。
鏡月の美しい文章を読んで、こんなことを思った。