鏡月玖璃子は、「パンゲアドール」という本を出している方である。
(以前書いた書評はこちら

ここで読んだ「愛着~attachment」は、彼女のサイトに発表されたものである。

エッセーではなく批評(criticism)である、と鏡月は言う。

それを読んだ「感想」が、以下である。

おそらく私の書いたものはエッセーである。

*****

ユトリロのパレット。

なんとも、響きのよい、芳しさを催させる、
甘美な言葉。

確かにそれは、「愛着」という言葉に、
あいふさわしい。

それにしても、自らの「愛着」について、語らぬまま、
ユトリロの「愛着」を語るのは、どうしてだろうか。

「愛着」を語ることは、ある種の、羞恥を伴うからであろうか。

たとえばこれを、「私の愛用品」とするならば、
おそらく、もっと気楽に、身近な品々やコレクションを、
思いつくままに挙げて、楽しげに、説明したことだろう。

また、これを、「私の執着するもの」とするならば、
さらにもっと、他人に説明することもためらわれて、
もう少し自嘲気味に、なるべく、ドライに語ってしまうか、
それとも、本気で、自身の心の奥底にあるひそやかな欲望を
滔々と告白口調で語り示すにちがいない。

しかし、「愛着」とは、「愛用」でも「執着」でもない。

「愛用」と「執着」のはざまにある、
軽々しくはないが、かといって、無駄に重々しいのでもない、
絶妙な、モノと関係。

(おそらく、ヒトではない。モノ、なのではないだろうか?)

いやいや、モノなのか、物なのか、ものなのか、対象なのか、
物体なのか、ブツなのか、物質なのか、「それ」なのか、
いい言葉が浮かばない。

むしろ、それは単なる、独立した「物」ではない。

愛着、アタッチメントとは、要するに、まるで、あるものに
あるものが、はじめから付いていたような、そんな関係であるのだから、
ただの「私」と「物」との関係ではない。

その「物」がまるで「私」の一部を構成しているかのような、
「私」にとって、その「物」が不可避で不可欠な付加物であるかのような。

であるから、どちらかといえば、「私」がその愛着の「物」を語るよりも、
「他者」から見て、「私」と「物」との相思相愛的な関係に思いを寄せるほうが、
なんとも自然に感じる。

最初に、この鏡月のエッセー「愛着~attachment」を読んだとき、まず考えたのは、
この「私」(つまり自分)にとっての「愛着」とは何だろう、ということだった。

そしてその回答は、なんの躊躇もなく、思いついた。

ギター、である。

私は、ギターを弾くのが好きだ。ギターの曲を聴くのが好きだ。

しかし、確かに自らの愛着について語るのは、けっこう億劫なものである。

聞き手(読み手)がこのモノに少しでも関心をもってくれていればよいいのだが、
そうでなければ、この語りは、空しく徒労に終わるおそれがある。

共通の「愛着」(作者の言う「約数」)があってはじめて、
己の「愛着」については、重い口を開くかもしれない。

しかし、そうでなければ、あまり、自分の「愛着」を語る気には、なれそうにもない。

だから、他者の愛着について、語るのであろうか。

だから、ユトリロのパレットについて、語るのであろうか。

では、私も鏡月に触発されて、パレットについて、語ってみよう。

画家にとっての「パレット」とは、絵を描くために必須の道具であるが、
ここでは、その意味での「愛着」ではない。

絵を描くという目的のために、絵の具を付着させ、薄めたり、混ぜ合わせる、
そういった「手段」としての「道具」ではない。

むしろ、そういった「道具」であるにもかかわらず、パレットにあえて、
絵を描くことにこそ、「パレット」に対する、そこはかとない「愛着」を
私たちは感じとるのであろう。

残念ながら私には絵心もなく、ユトリロのこの、パレットに描かれた絵というものも、
ネットでしかみたことがないので、本当のところ、どこまで彼にとって、
「愛着」があるのかは、分からない。

しかし鏡月の文章を読んで、逆に、思い出してしまったのは、自分がかつて、幼少の頃に、
パレットに落とし込んでいた、水彩の絵の具のことだった。

パレットではなく、絵の具である。

もしくは、パレットを汚す、絵の具である。

何もないパレットは美しい、と思った。

絵の具を少しずつ、順番に、チューブから絞り出したあとも、
決して醜くはない。

だが、ひとたび絵筆である色とある色を混ぜあわせはじめると、なぜだか、
美しいと思ったことがなかった。

むしろ、醜悪だとさえ思った。

私にとっての「パレット」は、ユトリロと違って、本当に「愛着」とはかけはなれたものだった。

ただ、それも、もう少し厳密に言えば、水で溶かして白い画用紙に色を塗りたくるという、
そういった絵が、嫌いだったことに起因するのかもしれない。

絵の具は、12色というよりも、24色や36色という、最初から「~いろ」と名付けられたチューブが、
できるだけ多いものが好きだった。

それは、自らが色を見出すのではなく、世界に名付けられた色をまず知りたかったからだろう。

しかし、実際に描くべきものは、「あおむらさき」も「やまぶき」も「もえぎ」もなく、
もっと淡白な、たとえばコンクリート色が大部分であったことに、嫌気がさした。

むしろ、油絵のもつ、あの、色彩が、溶け合わない、頑固さ、一途さ、
それに、あこがれていたとも言える。

水彩の「水」は「白」ではなく、「透明」である。そして、それは、色、というよりも、
薄める、という、機能を意味している。

水彩の場合、パレットでできること、それは、色と色を混ぜ合わせることよりも、
この水を使って、それぞれの「色」を薄めることである。

何も知らない私は、もう、パレットにおいて、絵を描くという行為に、絶望を抱いた。

そこには、何の喜びもなかった。

ほんとうは、画用紙なりに、色を落としてこそ、はじめて「絵を描く」ということである、
ということに気づいたのは、それからかなりしてからである。

図画の宿題として、家で、近所の寺を描いていてたことがある。

もう、いやだこんなこと、もう面倒だ、と思っていたところ、
うしろから、父親が、とつぜん、さらさら、とパレットからいくつかの色を絵筆につけ、
画用紙に塗り始めたのである。

それは、何度か繰り返され、見てみれば、驚くほど、美しい寺の錆びついた瓦がそこに、あった。

そうなのだ、私がそこで知ったのは、画用紙のうえで、何度でも色は重ねることができる、
ということだった。

そして、それが「絵を描く」ということであって、私は、パレットで「色をつくる」ことに、
執着し、そしてその結果「色を薄める」ことになり、挫折していたのだった。

ユトリロが「母」と「パレット」を「愛着」につないだ文章を読むことによって、
私は、かつて自分が「父」への「愛着」を「画用紙」とそこに塗られた「色」によって、
感じとっていたことに、今、気づいたのだった。

鏡月の美しい文章を読んで、こんなことを思った。











宮崎駿の「ハウルの動く城」と似たようなタイトルだな、何なのだろう? というのが、観る前の、第一印象である。

映画、ブリューゲルの動く城。

原題は、The Mill and the Cross。共同脚本を担当したマイケル・フランシス・ギブソンの本のタイトルをそのまま使用している。観てしまえば、この原題が正確な意味を持っていることが分かるが、一体何が起こるのか?なかなか分かりにくいタイトルであり、邦題は最初からネタばれさせて、分かりやすくしすぎたもの、といえるだろう。たとえば、「薔薇の名前」のような、想像力を喚起させるような巧みな題名をつけてほしかったものだ。それだけがちょっと残念であった。

監督は、ポーランドのマルチアーティスト、1953年生まれの、レフ・マイェフスキー。映画「バスキア」に参加していたそうだ。詩を書いたり、絵を描いたり、なんでもできる、天才。この映画では、美術や音楽も手掛けている。CG処理された風景の一部も、レフ自身が描いたものであるし、不思議な音階を奏でる彼のつくった音楽も、かなり印象深かった。

この、タイトルにある「ブリューゲルの動く絵」というのは、「十字架への道」(または「ゴルゴダの丘」という題名でも知られている)というブリューゲルの大作をベースに、その絵画に描かれている「物語」を映像化したものである。と言って、伝わるだろうか。

絵画の構成を語ることは、できる。大雑把に、左上に小高い丘がありそこには粉挽きの風車が描かれ、右上には、何やらおどろおどろしい処刑場や、鳥葬用の馬車の車輪に柱をつけてたてたものが見出せる。全体には、多くの人が登場しており、なぜなのだろうとよくみてみると、中央に十字架を背負った地味な男が歩かされており、どうやらまわりの大勢の人間たちは、その野次馬らしいことがわかる。手前中央には、嘆くマリアがいるので、どうもこの「地味な男」はイエスのようである。といっても、この絵自体は、とくに宗教的であるというよりは、もう少し複雑なメッセージがこめられているようだ。

映画の冒頭では、いきなり、この絵とほぼ同じように人物や風車や景色が設えられたシーンからはじまる。そして、静止していたものが動き出す。事前に何の知識もなく観た場合、一体、何がしたい映画なのか、最初は面食らうことだろう。まさか、ブリューゲルの名作の「ものまね」を映画で次々と再現するようなものなのかとも思ってしまった。しかし観ているうちに、映像の美しさと音声の騒々しさに呑みこまれてゆく。

この絵画に登場している人びとが、どういった暮らしをしていたのか。つまり、絵画に描きこまれた人物がなぜ、あの日、絵画に描かれたような状態に至ったのか。そのあとを追いかけるのだ。たとえば、風車小屋には、夫婦と息子が暮らしている。朝、目覚ましが鳴って、男が起き出し、女を起こすが、なかなか起きてくれない。何度かめでようやくベッドから出る。そして次に、息子を起こすと、息子は長い階段をのぼり、風車の回転を開始させる。また、子どもがたくさんいる家庭では、小さなベッドから次々と子どもが溢れるように出てくる。鶏を追いかける、おしめをとりかえる。騒々しく御飯を食べる。またまた、若い夫婦が目覚め牛を連れて外出する。またまたまた、樵が山で木を切っている。そして・・・。

もちろん、ここに描かれているものは、虚構であるが、同時に、16世紀のフランドル地方での暮らしぶりや心性などが刻まれた、文化の一断面とも言える。映画は、このディテールを執拗に再現しようとしているかのようである。

たとえば、衣服。ほとんどが布をかぶっただけのような衣服を身につけているが、レフがインタビューで言っていたのだが、独特の色なので地元の女性たちに手染めで色をつけてもらい、出演者たちにしばらくのあいだ着てもらい、なじませるなどの工夫をしている。

また、印象深かったのが、女性がパンをもらったあと、一度自分の衣服とおなかのあいだにはさむシーンがあったが、これは、どうやら当時の風習にあったものだとのことである。

そういったこだわりが、映像と音楽に、全面的に現れている。

絵画に描かれているのは100人を超す人物であるが、ここで焦点があてられるのはごく10数名であるが、思い出せるかぎりで、登場人物を列挙してみる。
・風車小屋の夫婦と息子
・赤い服を着て馬に乗る支配者たち(スペイン人)10人くらい
・鳥葬の刑に処せされた若い男と遺されたその妻
・ブリューゲル(と絵の依頼者)とその家族(たくさんの子ども)
・マリア
・裏切るユダ
・密告を受け入れた僧侶
・最後の晩餐(12人?)
・イエス、そして、ともに磔刑される罪人2人
・イエスの処刑を見にきた人びと
・パンを売る人
・2人の樵
・音楽を奏で踊る道化たち
・生き埋めにされた女性と生き埋めにする男性たち(魔女狩り?)

当然のことながら、ふんだんにCGやSFXが活用されているのだが、あくまでも手段であり、下手なSF映画よりもずっとSF的でありファンタジックである。

特に前半、ほとんど台詞らしいセリフがなく、ぼーっとすることができる。観る側としては、まるでプラネタリウムを眺めるかのように、この作品世界に没入できるのが、最大の魅力であろう。

ちなみに、この絵画作品について、ミシェル・フーコーは、『狂気の歴史』において、次のように述べていた。

「ブリューゲルのらい病者たちは、民衆たちがキリストのあとにしたがう、あのゴルゴダの丘の登り道を遠くから、しかしいつまでも見守っている。」(邦訳、田村俶訳、新潮社、1975年、22ページ)

実際にこの絵をみると、特に民衆たちは、イエスのあとにしたがうものの、あまり注意を向けているわけでもない。むしろシモンに注意が向けられてさえいる。 しかし狂気の理解の歴史的変容を探るフーコーにとってブリューゲルは、そういったディテールへの関心ではなく、日常に「狂気」が静かに共存していた時代を 生きた画家としてとらえられたのだった。

「ボッシュ、ブリューゲル、デューラーが、彼らのまわりに狂気がわきあがるのを見、そこに巻き込まれた、ひどく現世的な観客だったのにあいして、エラスムスのほうは、危険を感じないくらい離れた位置から、狂気を見ている。」(同、41ページ)

実際にこの絵画、そしてその映像化したこの映画も、決して病院や病名として隔離されているような現代の「狂気」とは異なる「狂気」が描かれている。車輪に手足を縛りつけ、鳥に食わせる刑も、磔刑も、生き埋めも、いずれも、理不尽に、残酷に殺されているという意味では「狂気」を内包している。しかしそれは、現代の言う「狂気」ではない。そこに登場する人びとは、ある種のおおらかさを持ち合わせ、屈託なくそのなかに身をゆだねている。同じくフーコーの『監獄の誕生』で描かれているように、身体刑は華々しく、スペクタクル、見世物であり、娯楽であった。したがって、ここでの処刑の数々は、残虐なものとしてではなく、生活の糧として、生活の内部の一面として、ごくごく普通の光景としてみるべきなのである。

ブリューゲルの絵画も、レフの映画も、その生活の全体像を1枚の絵画に、1つの映像作品に、詰め合わせにしたものであって、それら狂気の「摘発」ではない。

次の日には、村びとたちは、のんびりとフォークダンスを踊るのだった。


ピーター・ブリューゲル物語―絞首台の上のカササギ (エディションq)/ヨーン フェレメレン
¥3,780
Amazon.co.jp
価格がすべて決まっている居酒屋といえば、金の蔵Jr.がよく知られているが、同じような店に、「うまいもん酒場 えこひいき」がある。

いずれも、「299円均一」と言っているが、これは、税抜き価格であり、実際は、313円均一であることに注意しよう。平成14年に消費税が8パーセントになれば、323円均一になるということである。実質10円の値上げだ。

今回伺ったのは、神田東口店。JR神田駅の東口改札を出て、横断歩道を渡り、右手に「力めし」をみつつ商店街を直進し、「王将」が左手に見えたら、右の小路を見て、「大戸屋」が発見できれば、そのビルの地下1階が「うまいもん酒場 えこひいき」である。階段には、まねき猫があしらわれている。駅からは、徒歩で3分くらい。神田駅の改札は西口と東口で、かなり離れているので、それさえ間違えなければ、楽に行ける。

地下のお店なので、もともとが暗いせいか、店内は、明るめに設定されているようだ。客席間のしきりも極力抑え目で、全体が見渡しやすい構造になっている。ここでゆっくり話をしようと思っていはいけないが、ワイワイガヤガヤと盛り上がるには良い店であろう。

最初の注文、つまり飲み物だけ、店員さんに直接お願いする。そのオーダーが入ると、各席に設置されているタッチパネルでの注文となる。いちいち大声をはりあげて「すみませーん」と店員さんを呼ばなくてもよいのは、楽である。

さてメニューであるが、飲み物も、食べ物も、鍋でさえ、すべてが313円(税込)均一なので、頼む方は楽と言えば楽であるが、提供する側はかなり無理をしているな~と思うものもある。

想像するに、量で調節したり、味を濃くしたり、ボリューム感や納得感を出すための努力もいろいろとしているようである。

お通しが、いきなりキャベツのサラダで、ドレッシングは、にんにくを効かしたもの。

飲み物は多数そろえており、感心する。おもしろいものに、「グラスワイン(白)」がある。、れは、普通の白ワインではなく、カクテルであり、ジンジャーがブレンドされている。低価格のワインをうまく使い、味つけを工夫しているのだ。こういうものと思って飲むならば、悪くはない。

また、「パリパリ明太サラダ」は、「パリパリ明太」の下にレタスを多数敷くことにより量が多くみえるようにしてある。これも、「明太パリパリ」よりも無造作に敷き詰められたレタスがたくさん食べられると思えば、悪くはない。

ベーコン入りチーズオムレツは、ベーコンももちろん入ってるが、あくまでもメインは卵焼きであると思って食べることをお勧めする。たれが濃く、あまりチーズの風味が感じられない。ピザ用のチーズを少しぱらぱらと散らして、電子レンジでチンしたような感じである。

ちょっと「?」と思ったのは、焼き鳥である。ちなみにこの神田東口界隈は、低価格店の激戦区であり、焼き鳥に至っては1串80円、50円という店が競い合っている。そのなかで、2串で313円は、倍くらいの価格である。しかも「焼き鳥」といっても、ていねいに炭火で焼いているわけではなく、これもまたレンジでチンしたような火の通り方で、たれが濃いめである。飲み物は必然的に進むかもしれないが、私の食欲はやや減退した。

もちろん他に「鍋」などもあり、メニューは多彩で、それなりにあれこれと選べると思う(註:鍋物は2人前より。つまり626円~)。

さて、価格が均一なので、何皿頼んだのか、何杯飲んだのか、だいたい300円×注文数ですぐに計算できるところが、有難い。ところが。

盲点があった。

お通しである。

1人、313円、つまり、最初のキャベツのお通しは1人313円だったのだ。これは高い。

飲み物1杯 313円
食べ物3皿 939円
――――――――
      1,252円

ではなく、

お通し1人 313円
飲み物1杯 313円
食べ物3皿 939円
――――――――
      1,565円

なのである。

「安さ」というのは難しい。基本的には「コストパフォーマンス」が、客としては重視したいところである。「それなり」よりも、やや上を行く満足感があって、安い!うまい!という言葉が出てくる。

もちろん、財政難で、今日は1565円で飲み食いしたい、といったような思いで店を選ぶのであれば、こういった価格設定と品ぞろえは良心的であるし、十分に企業努力をしていると思う。

これならもうちょっとお金を出せばもっと満足のできる店が近くにある、と思われると、この業態は、続けるのが難しいだろう。この価格、神田界隈では、また、私としては、やや不満が残る。


お客様は「えこひいき」しなさい !/高田 靖久
¥1,470
Amazon.co.jp
フーコー、ドゥルーズ、デリダ。

この三人は、本当に癖がある。個性派である。

個人的に言えば、このなかではフーコーを一番読んできた。30年近く。はじめは、まったく読めなかった。分からなくとも、何度も何度も繰り返し読み、そのうち、あっと、思うようになった。たくさん読んだ蓄積で「分かる」に至ったというよりは、読んでいるなかで、次第にフーコーの問題化した領域がみえてきて、刺激を受けてきた、という感じだ。

他方、すんなりと腑に落ちたのは、デリダだった。この三人のなかでは、もっとも感性が近いということなのか、デリダの場合、読んでいると、ある時点からデリダの思考にもぐりこむことができるような気になった。彼の思考を読みながら追体験しつつ、ゆらゆらと漂っている、というような感じだ。

そして今なお、困惑しながら読み進めているのが、ドゥルーズだ。ドゥルーズの場合、意図の鮮明さと裏腹に、書かれたものを追いかけければ追いかけるほど、その実態がつかめなくなってゆく。読んでも読んでも、読んだ!という気がしない。用いられる概念が魅力的であるだけに、歯がゆい思いをすることしきりだ。

いずれもある種の「難解さ」を有しているが、三者三様、根本的に異なり、おそらくこの三人の書物を「同じようにして」読める人は、いないと思う。自分のなかの「読み方」のギアを大きくチェンジさせなければ、読むことが、ままならないのだ。

フーコーを「読む」とは、彼が、書かれた文書(アルシーブ)を渉猟し、これまでとは異なる歴史=物語を見せてくれるので、元の批判対象とは異なるという意味で、なにがしかの理解の助けを得ることができる、と思い読み進めることができる。

デリダもまた、書かれた言葉(エクリチュール)の襞に漂うかすかな声を聞き取り、拡大化しているので、そこから、なるべく物事を慎重に、ていねいに考えてゆこうとする方向性を見出すことができる。

では、ドゥルーズは、どうだろうか。

1972年から1990年に至るあいだになされた対談を集めて刊行されたドゥルーズのPourparlersを読みながら、そんな得体のしれない哲学者ドゥルーズのことに思いをはせてみた。
翻訳は、「記号と事件 1972-1990年の対話」宮林寛訳、河出文庫、2007年。ドゥルーズの、かなり普通な語り口にふれられる貴重な書物だ。

以前はかたくなに「対話」を拒み、変な本を出したジャーナリストのクレール・パルネに対しても、本書においては、1986年にフーコーをめぐるインタビューに応え、普通っぽく語っているのには、驚かされる。どういった心境の変化なのだろう。

この本によって、いかにドゥルーズを読むかが、見えてくる。ドゥルーズが、珍しく親切に、「ドゥルーズの読み方」を指南してくれているのだ。

21ページめあたりには、次のようなことが書かれている。

・強度によって読め
・本を機械と思え
・小型の非意味形成機械と考えよ
・電源に接続するように読め
・教養は不要
・意味を求めるな
・注解や解釈、説明もいらない
・読み手にとってどう機能するかだけを考えればよい

これは、「アンチ・オイディプス」の読み方を説明しているのだが、そういう本の読み方は、本を読むことに慣れている人間にとっては、かえって厄介なことではあるまいか。無茶なことを言うものである。

つまり、書かれている内容が、理解困難なのではなく、書き方、言いかえれば、読み方に、困難さを抱く、ということだ。

それは、ドゥルーズもよくとりあげる、不思議な国のアリスの、「国」が不思議なのではなく、その物語の語り口が、不思議だ、と思うことと似ているのだろう。

では、もう「アンチ・オイディプス」という書物を、理解すること、解釈すること、読むことを放棄して、そこから作動するものをたどることにしよう。

たとえば、「器官なき身体」という概念をとりあげてみる。

真剣に(普通に)ドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」や「ミル・プラトー」を読むと、この概念のイメージが大きく二つに引き裂かれていることに気づく。

1)一方には、身体が器官を失って身体として作動しなくなるさま、言ってみれば、映画「マトリクス」に登場する、複数の人間の身体を接続して発電所にしてしまうようなイメージがある。

2)しかしもう一方では、器官に束縛されない可能性としての身体のありかた、言ってみれば、アニメ「エヴァンゲリオン」の人類相互補完計画のように、他なるものと相互浸透しあうようなイメージもある。これはやや「展望」のようなものが見出されるが、それでも簡単には「補完計画」は成功しないという点では、必ずしも明確な方向性を示しているわけではない。

そもそも、身体とは、器官があってはじめて身体である。

器官なき身体は、まず、そういう常識というか、固定観念というか、一般的な「概念」を、揺るがせようとしていることは、確かである。しかし、単純に、何かを批判するようなネガティブな概念でもないし、未来を志向し明確な対象物を指示するようなポジティブな概念でもない。

ここに、器官なき身体の、第三、第四のイメージを付け加えることも、できる。

3)器官に分化する前の身体、それは、いわば、「卵(ラン)」の状態をイメージする。そこには可能性としてまだ未決定な身体が提示されるが、同時に、未来においては、明らかに器官化された身体をも想定されることになる。

4)また、意図的に身体から器官を奪ってしまえば、それは、身体を単なる「はこ」とみなすことになり、むしろ、空虚な身体、屍もしくは、奇形化した身体を想像してしまう。

通常の解釈であれば、この両義性にたいして、書き手の混乱、もしくは、文脈による意味の複層化などを指摘して終わってしまうところであるが、ドゥルーズは むしろ、「書き手」の問題としてではなく、この「器官なき身体」という概念が、「読み手」にとって、どのように作動するのかが、重要だ、と言うのである。

では、私は、あえてもう一つの、第五のイメージを「器官なき身体」に付与しよう。

5)インターネットのネットワーク

以前私は「コンピュータウイルス解体新書」において、ファイル共有ネットワークをもって、近代資本主義社会の原点である私的所有への欲望の終焉について述べたが、コンピュータのインターネットが形成するネットワーク、もちろんこれは、今ではコンピュータのみならず、スマートフォンもしくは携帯電話のネットワークでもかまわないのだが、これらのデジタルデータの「不可視」にネットワークは、単なる「網の目」ではなく、その全体が「身体」として、私たちの生活空間にはりめぐらされている。この身体には、「端末」や「装置」の存在はあっても、「器官」は存在しない。メディアやマスメディアとは、ある種の未成熟な「器官なき身体」であったと言えるが、今あるネットワークこそが、本当の「器官なき身体」なのではないだろうか。ジョージ・オーウェルはこれを「ビッグブラザー」として、つまり、監視装置としてしかとらえることができなかったが、欲望機械として作動しているインターネットこそ、たとえそれが、「現実空間」とは異なる「バーチャル空間」であったとしても、私たちにとっては、「第二の現実」であり、下手をすると、むしろその空間のほうが、人間の「観念」にとっては、本当の「現実」とさえ言ってよいように思える。


記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)/ジル ドゥルーズ
¥1,260
Amazon.co.jp
また、武田邦彦の本を読んだ。今度は、生物多様性のウソ、という題名で、小学館101新書、2011年6月の刊行である。

震災、原発事故後であるが、書かれたのは、それ以前であったのだろう。多産な方である。

読んで、いろいろと学ぶ点が多かった。

常日頃、どちらかというと自分の日常のささいな事柄に注意を払って生きているために、宇宙とか地球とか生命とか生態系とか、大きな流れ、広がり、その相関において物事を考える習慣をもたないでいると、こういった武田の科学的で簡明な指摘に、はっとさせられてばかりであった。

この「生物多様性」という言葉、要するに、絶滅する生きものを守ろうというものであるが、心情というかムード(情調)としてならば、消えゆくもの、消滅するものへの、悲しみの感情があるのだから、保護したり、守ったりしてあげねば、助けねば、という気持ちになるのは、分からないでもない。

むしろ、そういう感情を持たない方が、人間性を疑われてしまう可能性がある。

冷静にみれば、ここには、二重の心性が混在化している、と分析することができる。

一つは、「喪」の感情であり、消失することに対する悲しみである。失いたくない、という気持ちが、「保護」に至る。

もう一つは、「欠如」の感情であり、不足したものを埋め合わせたいという欲望である。希少なものには価値があるという気持ちが、「保護」に至る。

前者が古代的であるとすれば、後者は近代的である。人によって、場合によって、この両者の感情がさまざまにブレンドされている。

本書が興味深いのは、いずれの感情も考慮に入れずに、純粋な「観察者」として、「絶滅(危惧)種保護」が不適切であることを指摘する点である。

武田は、「人間の知恵は浅はかである」(40ページ)として、以下のことを生物多様性に関係する「基礎事実」として掲げる。

・5億5千万年前に、地球に多細胞生物が誕生した

・それ以来、生きものの種は、増え続けてきた

・逆に、絶滅は、進化の過程で、減少してきた

・よって、現在の生きものの種は、過剰である

・1年に4万種の絶滅が500年くらい続いても、問題は起こらない

・種の数が少ない地域の生態系が異常を来しているという事実はない

このことを学んだだけでも本書を読んだ価値はある。

さらに、こうした「基礎事実」に対して、「不明な事柄」として、次の2点を武田は挙げている。

・人間にとって妥当な生きものの種の数は、科学的に明らかになっていない

・生態系にとって妥当な生きものの種の数さえ、不明である

つまり、人間にとっても、エコシステムにとっても、絶滅(危惧)種の保護を絶対的な「善」とみなす論拠がない、ということである。これは、よく分かる。

そして、こういった、科学的であるというよりは、観念、感情の問題であることを隠蔽して、あたかも科学的であるかのように説明するのは「偽善」であり、それにのるマスコミや私たちも、愚か者であるということになるのも、よくわかる。

でも、大事なのは、この問題が、単なる「科学」の問題ではないということではないだろうか。むしろ私は、「観念」もしくは「感情」の問題として、正面から問う必要がある、と考える。

武田は、こういう議論の似非科学性を非難するだけではなく、先ほどふれたように、「喪」の感情、「欠如」の感情として、絶滅(危惧)種を救いたい、と思うことへの批判も行わねばならないのではないだろうか。

これは、最後の「おわりに」で述べられているゴルフ場の件にも言えることだ。

武田は、ベトナムの段々畑もゴルフ場の緑も、いずれも「自然に人間が手を加えた姿」として、同じように評価すべきだ、と述べている。それは、もっともなことである。その次元で言えば、異論はない。

しかし、ゴルフ場は、単に、人間と自然との見事な合成物であるだけではない。空間の占有の問題であり、社会的、経済的、政治的問題である。もっと単純に言えば、ゴルフをしない人間、好きではない人間、興味がない人間にとっては、あれほどの広大な(目立つ)敷地を一部の人たちが娯楽で使っているのが、そもそも感情的に気にいらないのだ。

この「感情」は、単なる「情緒」ではなく、「社会論」としても描くことは可能である。

まず、端的に、ゴルフ場の数が多すぎ、利用者の占有空間としては、アンバランスである。

また、それは、ふだん道を歩いていて、車が歩行者に配慮せずに猛スピードで走っている姿をみていて思う憤りと同じで、そこに「暴力」と「抑圧」を見るからである。車に乗って気持ちよく風を切るのは、もちろん、心地よい。手入れされたゴルフ場の芝や起伏をのんびりと眺めるのも、もちろん、心が和む。

しかし、それらは同時に、「権力」と「抑圧」の装置ともなっていることは、無視できない。

武田の主張は、ときに、こういった「社会論」の視点を(意図的に)外すことがある。

ここが、不満なのである。

生物多様性のウソ (小学館101新書)/武田 邦彦
¥777
Amazon.co.jp
ちょうど、JR神田駅と、秋葉原駅の中間地点あたり、ガード下に、小さな床屋がある。

至って普通である。席が2つあり、それらしい白衣を着た初老の男性がいうも、所在なげに、店にいる。あまりお客さんがいないので、それを普通と呼んでよいのか迷うところであるが、至って普通なのである。

普通ではないのは、この店自体ではなく、その二階である。

階段を昇ると、お店、「家庭料理 レスト」がある。

表通りからみると、一度床屋さんに入って、そのなかの階段を昇ることになる。食事の前に床屋に行きたいという人には、一石二鳥かもしれないが、食事だけしたい人にとっては、ただの呉越同舟にすぎない。

正直言って、このお店に実際に入るまでには、かなりの時間を要した。

おそるおそる、わざわざ、あえてレストに行こうと決意させたのは、メニューをみてからである。

一階の床屋の窓にメニューが貼っているのだが、そこには、数は少ないものの、洋食、「特製ビーフシチュー」「ジャーマンオムレツ」などが並んでいたのだ。特にジャーマンオムレツが気になって仕方がなかったので、勇気をふるって、床屋の扉を開け、その中を通り、階段を昇り、レストに突入した。

そこは・・・

至って普通の、つまり、あっ、とか、えっ、とか、驚くほどではない、普通の喫茶店やスナックに似た感じの内装。熱帯魚が泳いでいる水槽が、むしろ、おしゃれ感さえ醸し出している。

これまた普通のおばちゃんが2人でやっているようで、とても気さくに、席をすすめてくれる。

食べるものを決めると、返す刀で、食前酒と称して、自家製のお酒をふるまわれた(おちょこのサイズですが)。やはり酒が入ると人は、快活になりやすい。

わははと笑い話をしながらできるのを待つ。

お待ちどうさま、とやってきたのは、確かにオムレツであったが、黄色くやわらかい卵を切ると、なかには、ジャガイモとソーセージが入っていた。ほう。だから、「ジャーマン」オムレツなのね。理解しました。

ボリュームもあり、お味もよろしいです。

あと、一緒に行った同僚は、ビーフシチューを頼んでいましたが、これもまた、ごろごろビーフの塊が入っていて、よかったようです。

このお店に入るには、かなり勇気がいる。しかし、その敷居の高さをクリアして入ったなら、あとはなじみやすい。実際に他のお客さんも、常連風の人が多かった。

この手法は、決して爆発的な集客は見込めないものの、長期的にみれば、ある程度の来客数を維持できるものではないか、と思う。ただ問題なのは1階の床屋さんが、閑散としすぎていることである。

床屋さんへちょっと/山本 幸久
¥1,575
Amazon.co.jp
ドゥルーズは、1977年に『対話』という奇妙な本を出していたが、1996年の増補版には、新たに、「哲学は多様体の理論」(『対話』江川隆男・増田靖彦訳、河出書房新社、2008年、229ページ)であり、この「多様体」には、アクチュアルなものとバーチャルなものとが含まれている、ということを、書き加えた。なぜ、あえて付け加えたのか。

たとえば、ガタリとの「共著」である『アンチ・オイディプス』に、ドゥルーズが「一人」で何か、新たな文章を書き足すということは、ないように思われる。それはアクチュアルなものとして、すでに「作動」しているのだから、ドゥルーズが勝手に何かを追加しは、しないであろう。

しかしこの、クレール・パルネという女性ジャーナリストとの「共著」しかもタイトルが「対話」においては、小さな「付録」が増えている。

不思議な「出来事」である。

しかも、内容がまた、得体がしれない。読んでも、その内容からなぜ追加したのかを察することはむずかしい。

内容的には、前述した、「哲学が多様体の理論」というのは、まだ分からなくはない。「同一性の理論」ではないことは、わかる。

たとえば、数学や物理学など、自然科学は基本的に「同一性の理論」に基づいた学問である。公理や定理を共通基盤に置き、理論を構築できるし、その矛盾や誤りを指摘することも可能であるだろう。

しかし、哲学が形成してきたその「かたまり」は、もちろんそういった「同一性の理論」を目指す動きも含まれているが、それを内包しつつも、結局はそこに収斂せずに、拡散し続けて、今日に至っている。

これから先、どこかの地点で、この知の堆積がきちんとした秩序や体制をもった構築物となるなんてことは、決してない。

もちろん「同一性の理論」への希求とそのための努力が「無駄」であるとは思わないが、おそらく、その「理想」は現実化されないと思うのだ。

ドゥルーズがこの多様体の理論としての哲学が、「アクチュアルなもの」と「バーチャルなもの」の双方を含みこんでいる、というとき、おそらくこういった「真理」を目指す態度の両義性を想定しているのであろう。

そもそも、「多様化」ということ自体がアクチュアルなありようであり、「真理」や「同一性」を目指すということが「バーチャルなありようである。

したがって、哲学は「同一性のための理論」ではないにもかかわらず、「同一性のための理論」であるということが一つの究極的な理想や目標として想定されることによって、「多様性のための理論」として現実化する。

もう一度言うが、バーチャルなものがあってはじめてアクチュアルなものが生成する、ということをあえてドゥルーズはここで述べている。多様性は、一元化、同一性、普遍原理、理想、といった多様性を縮小させるような指向性があったはじめて多様化すること。

だとすれば、ドゥルーズはこの本に対して、ここで「敗北宣言」をしているのではないか。

つまり、この本は多様性を求めて「対話」という形をとったものの、十分にうまく機能しなかった。アクチュアルには失敗だが、バーチャルには可能性があった。そう言いたかったとも言える。

バーチャルな対話の試み、アクチュアルな対話としての挫折、対話というもののアクチュアリティ、対話というもののバーチャリティ。成功と失敗。失敗も多様性のうちのひとつ。

なんとも、不思議な本である。

対話/クレール パルネ
¥2,310
Amazon.co.jp
あなたは、米TVドラマ「SOAP」を知っているだろうか。

高校生のとき、日曜たしか11時すぎくらいに毎週放映されていた(北海道において)のを、途中からみはじめたのだが、なんだか変てこなドラマで、およそ日本で制作されているようなドラマとは異なり、芝居のようなドラマで、台詞と表情やしぐさで訴えるものだ。元は、1977年から1981年に米国で放映されたようなので、あまりタイムラグがなく日本でも流されたことになる。

物語は、二人の姉妹、おそらく40代くらいだと思うが、その一家を交互にみせる。

姉のジェシカ・テートは、旦那がいかにも金持ちそう。子どもは少しひねくれている。息子がいるが、これがどうやら息子ではない。また、父親がいるが、どうもまだ戦争が終わっていないよう。あと執事の男がいつもシニカルなことを言って、良い味をだす。

そして妹のメアリー・キャンベルは、旦那がちょっといかれている。義理の?息子とはいつも喧嘩。娘はどうやらジェシカと同じ恋人のよう。

いずれも、家族というには、あまりにも「壊れた dysfunctional」様子。でもその壊れっぷりがいいのである。中途半端ではなく、徹底している。

しかし、そういえば、最初の回も分からないし、最終回までみたのかどうかもよく覚えていない。唯一覚えているのは、メアリーの旦那が性的不能だったのを何とか打開しようと努力しているさまと、後半でなぜだかUFOがやってきたというところ。

悔しいので、探してみたら、安価でDVDが手に入った。なんと全90話もある。結構長い。1話が30分。全部観るには、45時間もかかるのだった。これから時間を見つけて観てゆくことにする。
Soap: Complete Series [DVD] [Import]/Katherine Helmond,Richard Mulligan,Cathryn Damon
¥5,416
Amazon.co.jp
第1話を観たが、登場人物の紹介で終わった。つまり、一人ずつ、どういう人間なのかを示しておしまい。と思ったら、最後に、ジェシカと、メアリーの娘が同じ恋人を持つことがわかるところから、話ははじまるのだった。


クリムトは、1905年、「マルガレーテ・ストンボロー=ヴィトゲンシュタインの肖像」を描いた。マルガレーテとは、哲学者ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインの姉である。この姉は、弟に「設計」の機会を与えたことがある。建築家パウル・エンゲルマンとともに、彼女の邸宅を設計したのだ。

どこまでがルートウィッヒの手によるのか、判然とはしないが、少なくとも、エンゲルマンが大枠を組み立てたとすれば、ルートウィッヒが行ったのは、特に内部の「装置」の部分であったようだ。

小山明「ヴィトゲンシュタインの建築問題」(KAWADE道の手帖〈哲学入門〉『ウィトゲンシュタイン』河出書房新社、2011年所収)は、これまでこの建物の外観しか知らなかった私に、おそらくウィトゲンシュタインによるであろう、内部のつくりこみの様子を教えてくれ、非常に興味深かった。


その1 透明な高床
1階の玄関と内部の各部屋とのあいだには、かなりの段差がある。玄関は地上と接しているが各部屋は、かなり地面から離れている。これは、温水床暖房のためのボイラー関連設備、パイプ、ダクトなどが埋め込まれているためだ。また、大きな鉄のシャッターが床下に沈み込んでいる。1階といえども、すでに、1階を成立させるために、床がせりあがっているという、このありようは、言ってみれば、1階自体にほとんど余計な装置を見せないようにしている、という意味で、まことにウィトゲンシュタインらしい。


その2 ドアの多重機能
室内のドアには、以下の5つの機能で構成されている。

1)鉄のシャッター
2)ガラスドア
3)ロールブラインド
4)ロールカーテン
5)ガラスドア

基本は2つのガラスドアで、その中央にブラインドとカーテンが組み込まれて、日差しや風通しを調節することができようになっている。そして、鉄のシャッターという、強固な遮蔽装置をも併せもっている。しかし、さらに興味深いのは、この、ドアの取っ手である。


その3 ドアの取っ手
玄関から入って階段を昇り、各部屋に行くドアがあり、手前に戻るようにして進む左右に、それぞれ朝食室と居間がある。この朝食室と居間に行くにはドアを開けねばならない。また、進行方向には、左に食堂、右に階段室がある。こちらに進むにも両方ともドアがある。取っ手の位置を図にすると、以下のようになる。黒丸が取っ手の位置である。

食 堂      階段室
  ●        ● (外向き)
     ホール
   ●      ● (内向き)
朝食室 玄関  居間

朝食室 = (左手前) = 左側に取っ手
居 間 = (右手前) = 右側に取っ手
食 堂 = (左 奥) = 左側に取っ手
階段室 = (右 奥) = 右側に取っ手


その4 ドアの多様性
話はドアに戻るが、厳密には、以下の5種類から構成されている。

1)両開きのガラスドア
2)両開きの鉄のドア
3)両開きのガラス二重ドア
4)両開きの鉄とガラスの二重ドア
5)両開きのすべてが一方向に開くガラス二重ドア

これらが各所に配置されているが、とりわけ興味深いのは、サロンにかかわる扉である。サロンの扉は4つある。そのうち、ホールから入る扉と居間から入る扉、そして夫人居間に向かう扉には、それぞれの内側に鉄の扉がある。また、夫人居間のドアの右側には均等に2つの扉があり、これらはガラスの扉であるが、地下から鉄のシャッターがのぼってくるようになっている。つまり、サロンは鉄のシャッターで遮断が可能な空間なのである。


その5 窓とドアの一元化
ドアが窓の役割も果たしているというべきであろうか。大きな縦長の扉が並び、内側に開くと窓の機能をも持ち合わせている。これはもしかすると、ライプニッツの「モナドには窓がない」から触発されたのだろうか。


ドアにこだわったウィトゲンシュタイン。一体なぜ、ドアだったのだろうか。その「理由」を知りたいところであるが、それ以上に、この建物で生活してみたいものだと思う。その生活のなかで、ウィトゲンシュタインのもくろみがつかまえられるのか、それとも、実用面からみて、まったく生活に適さないのか、それが知りたいところである。

ウィトゲンシュタイン (KAWADE道の手帖)
¥1,680
Amazon.co.jp

**

付記 以下の書があったことを加えておく。

ウィトゲンシュタインの建築 新版/青土社
¥2,310
Amazon.co.jp
福島第一原発から30~40キロ離れたところに、飯舘村はある。

チェルノブイリ事故でわかるとおり、このあたりなら、危険性を伴う距離であることは言うまでもない。

しかし、管野典雄村長は、「まさか」と言う。私はこのような認識に衝撃を受ける。

「まさか我々の村が放射能に汚染されているなんて想像もしていなかった」(11ページ)

危険なことは分かっていたが、予測していなかったので、なんら対策をしていなかったことが悔やまれる、というなら分かる。しかし、「まさか」というのは、どのくらい、ありえないことと思っていたのだろうか。あの界隈に住んでいた人たちにとっては、今回のようなことが起こりうる、という不安や恐怖といった感情はなかったのだろうか。私はもっと、住んでいる人々には、覚悟のようなものがあるのかと思っていた。そこが、ちょっと不思議である。

もちろん、原発は、飯舘村が是非を問うたわけでもないし、利権を得たわけでもないだろう。勝手に国や県や東電がやったことなのだろう。それは、分かる。しかし、村民の生活を守る、といったときに、どうしても原発のそばの土地は、危険性があることは、想定せざるをえないのではないか。

想定していたにもかかわらず、ここがだめだった、ここは役に立った、そういう話が聞きたかった。

本書「美しい村に放射能が降った 飯舘村長・決断と覚悟の120日」は、2011年8月にワニブックス【PLUS】新書として刊行された。語られているのは、以下のような事柄である。

・2011年3月11日から4月までの村での出来事
・管野氏の出生から、酪農経営、公民館長、東北酪農青年夫人会議委員長の話
・企画「若妻の翼」「嫁、姑キムチの夢」
・村長に当選
・企画「いいたて発――未来への旅」「特養老人ホーム」「村への通信簿」そして2期目
・企画「愛の句碑」、合併問題、企画「までいライフ」
・計画的避難区域通告、政府へ提出した10の要望、2011年4月~5月
・企画「いいたてむら 丸ごと防犯プラン」、2011年5月
・企画「までいな希望プラン」、飯野町出張所、2011年6月

私としては、菅野村長の出生から村の地域づくりのストーリーには、とても興味がわいた。

約6000人が住む村で、一体どういったことがなされていたのかを伺うことができたからである。そして、失礼ながら、小さな地域では、本当にやることがないのだな、と感じてしまうのだ。いや、実際には、いろいろな行政をめぐる事柄に携わっているのだろうけれども、村の婦人の海外研修や句碑を公園に作ったというようなことが、震災前までの大きな出来事として、村長の大切な思い出として、述べられていることが、本当に、のどかなまちであったことを、伺わせる。

そして、そのあとに押し寄せる、現実。この両者の、落差。

ここにこそ、この本の妙味があるのだろう。

一体、何代前からそこで暮らしていたのか、私には想像ができないが、もしかすると、数百年以上の歳月を、同じ土地で生きた人もいるのかもしれない。そして、その共同体も、また、同じだけの長さをともにした人びとを中心に持続してきたのかもしれない。

村長が自ら語るように、この飯舘村における「他者」へのかかわりは、きわめて、冷たい。逆に村ひと同士は「お互いさま」の「精神」、つまり相互扶助が根付いているという。もちろん「よそもの」も、避難地区から移動してきた人びとの「一時的な」受け入れなどには、積極的な「歓待」があるが、村民ではない優秀な人材を助役にしようとしたところ支持者からも反対されたというところなど、まさしく、他者への拒絶反応が例示されている。

村長は、「開かれた村」を目指した、というが、「開かれる」はあくまでも、内部に居続ける村民が「世界」とかかわって、再び村で暮らし続けることを前提としている。

こういった伝統的な共同体感は、どれくらい日本のなかにあるのか、私は正確には分からない。

私は、社会学や民俗学の研究から、こういった「閉鎖的な」共同体が減少していると思っていたが、意外にも多く残されているのではないかと、感じた。

これは善し悪しではない。重要なのは、そういった共同体におけるありようと、流動的な都市圏で生きる人びととは、根底的に対応や考え方が異なって当然だ、ということを強調することである。

極端な例をとれば、ユダヤ民族のように、世界中に離散していたとしても、相互の連鎖が長期にわたって維持されている場合もある。

共同体を共同体ならしめるのに「土地」とその純粋な構成員を前提とする場合、「原発」ならびに「放射性物質の飛散」は、単に「外部」からの「脅威」としてしかとらえられないのかもしれない。しかし、ボードリヤールが言うように「透きとおった悪」としての「原発」ならびに「放射能」は、あまねく世界に「浸透」するものだ。この「浸透」を拒むことが困難である以上、今回は「事故」というだけではなく、インターネットや伝染病その他の「透きとおった悪」に対しても、今度対策を考えてゆかねば、この「共同体」はその維持が困難になるにちがいない。

美しい村に放射能が降った ~飯舘村長・決断と覚悟の120日~ (ワニブックスPLUS新書)/菅野 典雄
¥798
Amazon.co.jp