(30年ぶりに再び)読んだ本

歴史のメトドロジー シリーズ プラグを抜く5

福井憲彦編

新評論

1984.05

 

ひとこと感想

一世を風靡したアナール派歴史学。しかしあらためてふりかえってみると、良くも悪くも、当初の「経済」「社会」「文明」」というキーワードのなかから 次第に 「経済」が抜けていったような印象をもった。今一度、「経済」と「歴史」との関係を考え直す必要があると思う。また、アダム・スミスとカント、ヒューム、ルソーとの関係、そして、ウィトゲンシュタインとケインズとの関係も見直したい。

 

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フーコーもそうだった。彼の初期の仕事、特に「狂気の歴史」と「臨床医学の誕生」においては、「経済」は大きな柱の一つとして議論されていた(少なくとものフランス語の意味での)

アナール派歴史学においても、第一、第二世代は「経済」を大きくとりあげた歴史研究を行っていた。

 

もちろん第三世代においても、人口動態のデータをはじめ、「経済」は決して消えたわけではないが、一般的に受け止められた「アナール派歴史学」は、アリエスの心性史をはじめとした、社会文化史に比重が傾いていったように思う(シャルチエもフーコーとブルデューを絡めた文化史だった)。

 

本書においては、ル=ゴフが「新しい歴史学」という題名で、アナール派歴史学の歴史をふりかえっているが、あらためて「経済」との深いかかわりを思い起こさせてくれた。

 

彼らの「集団」としてのありようは何よりもその研究誌への寄稿にある。

 

1929年に「経済社会史年報」は創刊された。

 

この誌名をつけたのは、リュシアン・フェーブルとマルク・ブロック、つまりアナール第一世代の中心人物の2人である。

 

「経済的」ということで問われていたのは、フランスの伝統史学ではほとんど完全に等閑にされていた一領域の地位を向上させることであった」(62ページ)

 

当時のドイツの雑誌「季刊・社会経済史」の影響を受けているとはいえ、彼らは「社会史」に「経済」を加えるという順序で自分たちの目論見を表現したことになる。

第二次世界大戦後に、1946年、タイトルが変わる。

 

「アナール――経済・社会・文明」である。

 

「歴史」の代わりに「文明」が入っただけではない。これら3つの語彙はすべて@複数形」ねのである。

残念ながらマルク・ブロックは1949年にドイツ人によって銃殺され、戦後はリュシアン・フェーブルによって牽引された。

 

この後、第二世代と言われる一人のフェルナン・ブローデルもまた、その大著では「物質文明」や「資本主義」を中心に論じているが、その後第三世代に至っては、ある意味では心性史や文化史がメインになってきているように思われる。こうした力点の移行は一体どのようにして起こったであろうか。

 

これは課題である。

 

およそ他方で経済学の方はというともっぱら短期・中期(せいざい数10年)しかみようとしない。おそらく「環境」を問題化したとき(例えば資源の枯渇や、温度化など)はじめて歴史学(アナールのような)との接点はつくられるのだろう。

なお、ジョルジュ・デュビュイの仕事は初発は経済史であったことはとても興味深い。