読んだ本
低線量放射線を超えて 福島・日本再生への提案
宇野賀津子
小学館101新書
2013年8月

ひとこと感想
低線量被曝については健康被害ははっきりと出現せず、むしろ危険だと騒ぎ立て、不安がっているほうがストレスで健康被害が現れる、という立場。いくつか疑問もあるが、大方の説明は、理路整然としており、しっくりくる。ただ、言説空間に置かれると、不可避的に両極端の立場の片方に「加担」することになる点にも注意深くあってほしい。

***

「低線量放射線の影響で、数年のうちに福島にいると子どもたちががんや病気になるように大げさに騒ぎ立てて、危険を煽ることが科学者の役割でしょうか。」(5ページ)

ここにはすでに「大げさ」「騒ぎ立て」「煽る」という、およそ科学的ではない言葉が用いられている。

もし、科学者の立場を堅持して書くのであれば、こうなる。

子どもたちが福島に居続けると、低線量放射線の影響により、数年のうちに癌や病気になるおそれがある、と主張する科学者が少なからずいる。私の立場は、こうした意見と対立する。」

こうした文章に
「大げさ」「騒ぎ立て」「煽る」という言葉を加え、ある「立場」にある科学者を非難するのは、「科学」ではなく「政治」である。

少なくとも、この文章が非難している「科学者」と同じことをしていることに気づかねばならない。

ブルデューの言う「客観化する主体の客観化」である。

ラトゥールの言う「アクターネットワーク」の網の目のどこかに組み込まれている自分を自覚することである。

「私」からみると、この文章を書いている宇野という科学者の「立場」と宇野が非難している科学者の「立場」は、ある「対象」に対して正反対の見解をもっていることは理解できるが、いずれかが科学的に「正しい」とみなすことができない。

いずれの「立場」においても、科学者たちは、自らの「私利私欲」ではなく、ある種の「純粋さ」をもって、「世のため、人のため」に自らが「科学的に正しい」と思っていることを主張するとともに、対立する側を非難しているという意味において、まったく同じことを行っているにすぎない。

「低線量被曝」問題は、決して「科学的真理」をめぐる対立ではなく、それぞれの科学者が「信ずるもの」を誠実な気持ちで、そして、自分勝手に、世間に投げつけた結果生じたものである。

もちろん、宇野は、この問題に十分気づいている。

「危険を過剰に言うことも、過小に言うことも、罪になる」(6ページ)

だが、結果的には宇野が述べていることは「過小に言う」「立場」を強化するものとして括られることになるのは、不可避なはずなのに、そうした言説における配置のされ方には、あまり慎重ではないように思われる。

すなわち、宇野もまた「罪」をつくっている。

これは、「書籍」というメディアの特質による部分も大きい。

宇野が直接福島在住の子を持った母親にこうした内容を説明する分には、私が上記で述べたような問題は生じない。

それは一つの「診断」として、そうした「診断」を求めている人たちに有益である。

だが、「書物」は、そうした人たちだけが読むのではない。

自分を揶揄して言えば、「非当事者」(少なくとも直接的かつ切実な当事者ではない)も読むのである。

今までも何度も書いているが、もし、宇野が、前述のような
「大げさ」「騒ぎ立て」「煽る」という言葉を使って語りたいのであれば、それは、「科学者」としてではなく、政治家(評論家)として語る、という自覚を持たなければならない。

私なりに得た「科学者の社会的責任」とは、こうした、自らの立場や言説の配置のされ方への自覚をもって向き合うことである。

***

とはいえ、本書は、非常に啓発される内容が多く含まれており、たいへん有益な本であると思う。

少なくとも宇野は、ある一つの分野内に閉じこもり、その内部に向けて、内部のために、何かを語っているのではない。

低線量被曝に対する各分野の人たちの理解の仕方の特徴を分析しており、興味深い。

医者 この程度は大丈夫
物理学 危ない
分子生物学 危ない

実際に個体や細胞を扱っている科学者と、そうではない科学者とのあいだで、認識が大きく異なっていると指摘する。

現場と理論との乖離、という言い方もできるが、一方では、理論は現場では見えないものを見ることも可能な場合もあり、私には、いずれかが「正しい」というべきものではなく、いずれの立場も「その立場において正しい」と思われる。

ただ、ここで宇野が次のように述べていることに、理論的な仕事をしている人たちは耳を傾けなければならない。

「放射線障害の修復に関する研究や炎症との関連の研究は2000年以降に大きく進んだ」(29ページ)

すなわち、「危険だ」と主張している人たちが、こうした、2000年以降の研究成果をふまえて言っているようにはみえない、勉強不足だ、と宇野は非難しているのである。

その一例として、下記の論文を挙げている。これくらいは読んでおけ、ということであろう。

Manabe et al. A Mathematical Model for Estimating Biological Damage Caused by Radiation. J. Phys. Soc. Jpn., Vol.81, No.10, 2010.

「弱い放射線なら修復力の方が勝って変異は蓄積しない」(30ページ)

一方で宇野は、「危険を煽る」論文(個人レポート)の検証をする(こちらを参照)。

Chris Busby, "The health outcome of the Fukushima catastrophe. Initial analysis from risk model of the European Committee on Radiation Risk ECRR," March 2014. 邦訳

が、どうもこれは宇野からみると、論外であるようで、もっと評価に耐えうる類似論文として、下記のものを挙げる。

Tondel M. et al, Increased Incidence of Malignancies in Swede After the Chernobyl Accident - A Promoting Effect? American J Industrial Medicine, 49, 159-168, 2006.

また、広島の原爆被曝者と隣の岡山県民の癌リスクを比較した研究が、たとえば「肝癌」をとりあげたり、地域による癌発症率のもともとの違いなどを考慮に入れずに低線量であっても癌リスクが上がる、という証拠とするやり方には、きわめて問題のある論考とするのが、下記である。

Watanabe, Miyao et al, Hiroshima survivors exposed to very low doses of A-bomb primary radiation showed a high risk for cancers, Environ Health Prev Med, 2008.

たしかに、こうした論文を「論拠」に出されれば、その専門領域外の人間にとっては、その問題点を見極めるのは困難である。

いや、むしろ、そうした「意表をついた」ような論考こそ、何か目新しく、斬新な研究成果のようにみえることもある。

これは何も自然科学にかぎったことではない。

人文社会系でも山のようにそうした論考が産出されているが、誰もが目をつぶっている。それは、大半が人の生死にかかわらないからである。

だが、こうした低線量放射線問題などは、多くの人の暮らしやいのちにかかわるがゆえに、論文の発表やその評価などは、慎重であるべきだし、かつ、関係者は相互にチェックを行い、「行き過ぎた」研究発表をそのようなものとして位置づけることも必要とされるであろう。

***

「今回の事故で一番の問題は」(48ページ)と宇野は書く。

「事故後みだりに動かないようにと文部科学省からの申し入れや一部の学会通達があり、真面目な研究者ほど動きが封じられたことです。」

さて、これは、どこが「問題」だ、と述べていることになるのだろうか。

「真面目な研究者」がきちんと発言できなかったことが、問題なのか。

それとも、そうした真面目な研究者の「動きが封じられた」ことなのか。

この因果関係の説明は、次のように続く。

文科省や学会からの意向を受けたことで「真面目な科学者」が発言を控えてしまったこと。

また、かといって文科省や学会が、しっかりとした情報や発言を行わなかったことも問題のようである。

さらに、そのあとに、「大きな混乱の原因」として、次のように述べている。

「組織に縛られない一部の科学者がてんでばらばらに発言をし、元々原子力や放射線の影響について批判的だった科学者の声が相対的に大きくなりました。」(48ページ)

おおもとは、文科省や学会が適切な発言をしなかったことが原因で、その結果、低線量被曝の危険性を過大視するような不適切な発言ばかりが世間にあふれてしまった、と私には読める。

しかし本書で、この問題への追求は、あまりなされていない。

全体の論調としては、
低線量被曝の危険性を過大視するよう研究者に対して疑義をはさむほうが圧倒的に多い。

たとえば、文科省や学会が、次のように全体を見渡せる説明をしていれば、
そうした「勝手な発言」をする研究者がいるとしても、それほど「混乱」はなかったのではないか。

「この経緯から、リスクを過小に言うのも、過剰に言うのも無責任だと思いました。その時々の情報をしっかりと吟味し、きちっとリスク評価をして伝えることこそ科学者の役割です。何事も安全側に立ってというのは平時には良いですが、学問的にも意味のない、低めの基準は危機に対しては時として手足を縛り、現実的な対応ができなくなります。」(55ページ)

私ならばここまで全体を見渡せる言い方ができるのであれば、個々に勝手な発言をする研究者たち一人ひとりをあげつらうよりも、文科省ならびに学会が、大事なときにきちんとした発言や対応をしなかったことのほうが、よほど大問題だと思うのだ。

それこそ非常事態において、少しでも情報がほしくて不安でいる人たちを前にして、過小に評価する研究者も、過大に評価する研究者も、問題があることは間違いないとしても、それ以上に、何もまともに評価できなかった文科省と関連学会を不問に付すことこそ、研究者としては許されないことではないのか。

(ただし私としては、別にそうしたオーソリティに依存すべきだ、と思っているわけではない。判断するのは「私」である以上、オーソリティも、個別の研究者も、それぞれの見地から語っていればよい。私たちは、それらの総体から自ら判断するだけである。)

***

さて、そうしたポリティカルな次元での、本書への「評価」だけでなく、本書が説明する、低線量被曝の「現実」への説明もみてゆこう。

宇野は、まず、1ミリシーベルトと100ミリシーベルトの「違い」を理解するよう、私達に促している。

つまり、100ミリシーベルト以下では、癌リスクの上昇は認められない(つまり、健康被害は確認されない)という見解の根拠を、もう少し理解してもらいたい、と宇野は考えている。

その例として出しているのが、細胞に対してセシウム137のガンマ線がどう飛ぶのかというの可視化した研究である(渡邉立子「低線量放射線の微視的エネルギー付与分布」)。

説明が分かりにくいが、要するに、ここで言う「1ミリシーベルト」というのは、年間線量で、1日で割ると、0.0027ミリシーベルト、と言いたいようだ。

図示されているのをみると、数か所に放射線が飛んだ痕跡があるものの、確かにこの場合、細胞核にほとんど影響を与えているようには見えない。

これを100倍にすると、どうなるか。つまり、100ミリシーベルトというのは、どういう状態のことか。

放射線の痕跡は明らかに増える。

けれども、この程度であれば、遺伝子障害が十分に修復される、と宇野は言う。

ただし、同じ「100ミリシーベルト」でも、一瞬の被曝となると、様相が少し異なる。

激しく細胞核に放射線が飛んでいる。

しかし、「これでも特に障害が認められなかったと報告されている」(64ページ)ので、「人間というのはなかなかタフなものだ」と書いているのだが、ただし、これ以上になると話は変わってくるという。

「しかしながら、それ以上となりますと、修復が追いつかなくなります。」(同)

すなわち、100ミリシーベルトを超えると、確実に、「危険」なのである。

一般的に言われている、100ミリシーベルトで癌死亡リスクが0.5%上昇する、というものである。

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また、以前にも当ブログでふれたが、第五福竜丸事件での死因「肝癌」や被爆者の人たちの肝障害などについては、輸血によるウイルス肝炎が本当の原因ではないか、と疑われていることは、どこかで、公式見解をどこかの学会は出すべきだろう。

こういうことを曖昧にし続けていると、どんどん混乱してくるのである。

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本書のなかで、私は、データ的に疑義をもったのは、以下の一点だけである。

ここでは、「日本における大気中の放射性物質月間降下量」の統計グラフが掲載されている。

「私自身が今の福島の放射線の影響についてそれほど悲観的でない理由の一つに、私の子ども時代の大気中の放射線量を知った点があります。」(75ページ)

そして77ページにグラフがあるのだが、グラフの読み方については特に文章化されておらず、ただ以下のように説明されている。

「1960年代の大気中の放射線量のデータを見たとき、今の福島の放射線量で子どもたちが皆がんになったり、何らかの異常が多発することはないと確信できました。」(76ページ)

グラフには、横軸が時間軸で、1955年から2010年くらいまでをフォローしており、縦軸は対数表示で、「ミリベクレル/平方メートル)と読めるのだが、その手前にある欧文が分からない。

「Radloacuvlly deposiun」と書いているようなのだが、視力の弱い私には拡大鏡を使ってみてもよく分からない。これは、どういう意味なのだろうか。

正確には分からないとしても、いちおう、縦軸が「線量」であることは理解できる。

グラフ内に「高円寺」「筑波」という表記があるのが、これはおそらく「観測地」であると推測される。

1965年あたり(高円寺)で最高値が10の6乗に近づいている。

また、1986年あたり(筑波)で10の5乗を超えている。

2000年代は、10の2乗以内に収まっている。

さらにこのグラフの下に以下のような説明がある。

「2001年3月以降の変化を、横軸を広げて書いてみました。8月には、空気中の放射線量は事故以前レベル近くまで低下していることがわかりました。」(77ページ)

このグラフの横に延長して、書きこまれているのは、「さいたま市」「ひたちなか」「新宿」における線量が書きこまれている。

確かに「8月」には事故以前レベルに近い数値になっていることは、分かる。

しかし、注意したいのは、それ以前の「数値」である。

2011年3月は、今までの数値よりも高く、10の7乗に達しているのである。

つまり、今までとは異なったことが、少なくとも3月には起こったということである。

それを簡単に、このグラフをみて安心できる、と言い切れるのは、どうしてなのか。

また、このグラフは、あくまでも「関東圏」のデータである。

宇野がこのグラフで説明しているのは、あくまでも「関東圏」の事態であって、「福島」ではない。

宇野がどうやって「
今の福島」が安全だと理解したのか、このグラフと文章では、さっぱり分からない。

避難をした区域の人たちや福島市、郡山市など、線量が今でも高い場所においては、このグラフに書き込まれている「関東圏」の線量よりも、少なくとも10倍以上はあるはずである(関東圏が0.05マイクロシーベルト/毎時、であるのに対して、たとえば。

読んでいる側に「不安」を抱かせたくないのであれば、
この部分はきちんと説明すべきところであるだろう。

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ほか、確かにその後の線量の変遷をみても、関東兼はもちろん、福島でも甲状腺ガンの発症に対して、過大に恐れることはないだろう、という指摘は、私も同感である。

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もう一点、説明に矛盾があるように思われたところがある。

「遺伝的影響」に関するところで、広島、長崎における当時の「放射線被曝に対する胎児への影響」について、89ページでは、「いずれの結果も被ばく群と被ばくなし群とで差がないという結果です」と書いているのだが、90ページでは次のように書いている。

「広島・長崎の被ばく者の研究では、胎児への影響については、小頭症および知的障害の発生増加が報告されています。」

明らかな矛盾がある。

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逆に「過小に評価」に対する批判的な目として、ホルミシス効果について、宇野は次のように指摘している。

(ホルミシス効果のような)「この現象が認められるのはあくまで一定の条件の範囲内であり(照射する線量や時間間隔などかなり限定された条件です)、これをもって低線量放射線はむしろ身体に良いと一般化はできません。ホルミシス効果があるから、長期間にわたる低線量被ばくは却って身体にいいと一般化して説明するのは、適切ではないのです。」(119-120ページ)

***

さて、こうして、気になる点だけを挙げても、それなりの説明になってしまったが、あらためて、もう一度問うておこう。

なぜ、これほど「低線量放射線の人体(健康)への影響」について、世間で無理解が蔓延したままなのか。

少なくとも、もう、当時の混乱は収まっているから、冒頭に記したような、宇野が批判している、当時の文科省や学会が適切な情報を出さなかった、という説明は、ここではできない。

問題点は、二つある、と言える。

第一に、宇野が指摘するような、自然系の科学者でさえ、過大に危険視する人が少なからずいるということである。

ただ、彼等は、勉強不足なのか、確信犯で、自分たちの「イデオロギー」すなわちポリティカルな理由で、そうした見解を貫いているのかどうか、その点が私たちには理解できない。

第二に、こうした情報を「文章化」し、メディア(テレビ、新聞、書籍)などで伝達させようとする側が、大半「文系」で、こうした自然科学のとらえ方に難があるため、ということも言えるだろう。

***

総合的にみて、他の類書のなかでは群を抜いて明快かつ真摯であろうことは疑いない。

だが、こうした「書籍」の「言説」さえ、その「言説空間」においては、おのずと、ある「ポジション」をとってしまうことにも、くれぐれも注意を払ってほしいと思う次第である。


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