読んだ本
脱原発「異論」
市田良彦、王寺賢太、小泉義之、絓秀実、長原豊
作品社
2011年11月
(2011年7月上旬の2日間、約10時間の討論が行われた)
ひとこと感想
タイトルは吉本隆明の「反核」異論と関連づけており、いずれも「運動」という文字を消すことによって、読み手に論旨を混乱させるとともに曖昧にさせている。とはいえ、吉本の本がそうであったように、本書もまた、「脱原発運動」の問題点と可能性との両面を浮き彫りにしているという意味で重要な仕事だ。ただ、本書の「著者」については、市田のみがそれに該当し、あとは「聞き手」という位置づけのほうが、読んでいてストレスがない(あ、それで、その他の人の「論考」がわざわざ巻末にあるのだ、と今気づいた)。
***
本書に登場する5人の人物の共通点は、容易に指摘できる。
全員、喫煙者(チェーンスモーカー)である。
しかも、わざわざ煙草を持っていたり吸っていたりする写真を本書に掲載しているところをみると、完全に確信犯である。
おそらく本書の「裏」のモチーフは、脱喫煙「異論」なのでは、なかろうか。
残念なことに、彼らの討論の場には、非喫煙者は、入ることができないか、入ったとしてもあまり心地よいものではないはずだ。
本書における「討論」とは、そういった「場所」であることをふまえて読むべきであろう。
出版とは、すなわち、その場所に居合わせていなくても、その空間を共有できる可能性を拓くものだとすれば、まさしく本書は、非喫煙者のためにあるのかもしれない。
***
本書は、以下のような構成になっている。
(冒頭に、長原豊が座談会開催にあたって配布したと思われる文書がある)
第I部 座談会
基調報告 市田良彦
座談会
第II部 論考
王寺、小泉、絓、長原各氏の文章
あとがき 絓秀実
***
冒頭の「吶喊(とっかん)と屈託――座談会を呼びかけるために」(長原豊)では、3.11が「吶喊」と「屈託」の時代の「始まりなのか?」(4ページ)という、問いかけからはじまっている。
さて、何のことだろう。私にはすっと入ってこない。それはなぜか? ここで言う「3.11」がどうやら、私の思う「3.11」と大きく異なるからである。
私にとって「3.11」は、「終わり」と「始まり」を意味し、原子力の「神話」が完全に終焉した(もしくは、させるべき)一方で、本当の意味でこれから、真剣に原子力がもたらしてきた(そして、これからももたらしてゆく)「現実」にしっかりと向き合うことをはじめなければならないものだった。
だが豊原ならびに本書(特に市田)では、なによりも「叛乱」のはじまり、「運動」のはじまり、としてとらえられていることが、際立った特徴となっている。
もっと具体的に言えば、原発をめぐる「運動」、すなわち、デモを行っている人たちに向けて、何か「知識人」としてこれは言っておきたい、ということがここで述べられている。
大雑把な構図としては、「知識人」が「一般住民」に対して、「闘い」のために、「言葉」という武器を提供しようとしている、そんな感じだろうか。
***
座談会は、まず、市田の「基調報告」からはじまる。
この「基調」とは、「3.11」に関する状況全体ではなく「運動」に関する意味づけ、ということに注意したい。
「運動」すなわち、いわゆる「反(脱、卒)原発デモ」を「総括」するのである。
最近はすっかりと話題に上らなくなっているが、3.11以後、一時期は、各地で「デモ」が起こった。
そのなかでも、2011年4月10日に行われた高円寺デモはSNSで呼びかけたところ15,000人が集まったために、さまざまな反応があった。
おもしろいのは、これに対する市田の感想である。
「それなりの歴史をもった市民運動が「素人」に負けた」(9ページ)
原発(事故)に対する反感を持った人たちが集まり、まったく互いが誰かも分からない状態でともにストリートを練り歩くということは、「叛乱の質をもっていた」(同)と一応は考えられる。
つまり、市田は、原発関連のデモに「叛乱」の萌芽をみてとり、そこに興奮しているのである。いや、ほんと、興奮冷めやらぬ、というところが、とてもよい。
「僕はこの能動的混沌にずっと魅惑されてきました。・・・世の中も自分たちもどこへ向かうのか分からん、という叛乱に特有の混沌状態に、ついわくわくしてしまう。」(10ページ)
このように、市田は、「原発事故」そのものや、その背景などよりも、「運動」に関心が向いていることが、分かる。
世の中、いろいろな人がおり、学者のなかにも、「お祭り」が好きな人は、このように、いるのである。
市田は、この「運動」の中身をいろいろと分析した結果、「議論」の抑制、欠如があったのではないか、と指摘する。
要するに、残念なのである。
「原発が是か非かというデモの「外」と「内」の緊張関係、対立をまさに「内」に呼び込むような論争の萌芽と、それを成長のエネルギーに変えて「外」と対決しようという工夫や姿勢をもっていてほしいんです。」(10ページ)
さらに興味深いことに、こうした「叛乱」と「災害」も同じ「自然力」であり、いずれに対しても「政治力」がものを言う、という。
「運動の前進と惨事の収束のどちらか一方だけがうまくいくとは到底思えなかった。」(11ページ)
そして、そのあと、6月11日には、全国的に、各地でデモが行われるが、この「分散」性は、市田からみると、失敗だったとみなされる。
実際に市田は神戸のデモに参加して、イラついている。
被災地とそれ以外の場所とは、まったく平等ではないのに、そのことに気づかないこと、そして、反原発がいつのまにか脱原発になったこと、に対してである。
市田の理解では、「反」は原発の即刻停止を求めるもの、「脱」は段階的に原発をなくす方向をつくってゆくというものという違いがあるが、こうした対立も「運動」には不可避だとするが、どうも「反」の方に肩入れをしていて、「運動」が「脱」に主導権がとられたのが、気に入らないようだ。
続いて市川は、第二に、原発事故を収束させようとする過程を「戦争」である、と断定している。
戦争は、すでに、「他国家」とのあいだだけで行われるのではない。
「敵」は、ここでは放射能であり、それを「制圧」しなければ、私たちの暮らしが根源から壊されてしまうがゆえに、「戦争」と呼ぶ。
「原子力災害は軍事的範疇の問題として処理されるべきもの」(14ページ)なのである。
これに対して参加者は、どちらかというと、ピンとこない感じであるが、私も、「戦争」というとらえ方に賛成する。
というよりも、あのような事態を「戦争」レベルで考えなければ、何もかもがおかしくなってしまうだろう。
誰かに責任を押しつけて、だからひどい対応だった、といったような議論は、まったく意味をなさない。
切迫した事態を前にして、少しでも「よい」方向に持って行くのに、通常の観念を持ち込んでも仕方がないのである。
さらにこの「戦争」状態に陥ったなかでみえたのが、「組織」というものの弱さだ、と指摘する。これが、第三点目となる。
情報公開を徹底すれば、誰もが平等になり、誰もが自主的に最適な選択肢を選ぶことができる、という考えが誤りだ、と市田は述べる。
私はこの前半は正しいが、後半は正しくないと思う。しかし、市田にとっては、どうも、世間が「情報」にこだわることが気に入らないようである。
そして、「組織」こそが、そうした選択肢を左右する重要な「器官」であると考えている。
「組織の力というのは、まさにその選択肢を広げるところにある」(17ページ)
私にはこれほどまでに「組織」に思い入れる術がないが、この「組織」というものを、ある種の「交通」もしくは「コミュニケーションの場」と考えれば、あながちおかしいようには思えない。
しかしそれをわざわざ手垢のついた「組織」という言葉を使う必要もないように思われる。
四点目としては、フーコーの「生権力」そして「牧人権力」という概念を応用した状況分析が行われる。
「惨事を目の前にして、安全という観念そのものを権力装置の地位に押し上げてしまったかのようです。」(19ページ)
これは核抑止力論がそうであったように、原発もまた、「全員の死の危険により全員の安全を確保しよういう論理」(同)であるということを露呈させるという意味で、至極まっとうな解釈である。
しかも、それのみならず、実際には、「避難民」を生みだしたことによって、そこに「牧人権力」が行使される局面を私たちはみることとなった。
村長や町長が住民をひきつれて、さまよう姿。
もう、「故郷」には戻れないかもしれない、という不安のなかで、離散する人びと。
かろうじて自治体の長がその「共同体」のシンボルとして機能し、対外的には、まだその「村」や「町」はあるように言説は生みだされているが、元の場所にはもう、その「村」や「町」はなくなりつつあるということを、誰もがみないようにしている。
「故郷」を理不尽に追われた人たちは、もっと叫んでもよいはずだ。
「故郷」の戻れなくなってしまった人たちは、もっと不満を訴えてもよいはずだ。
共同体の「長」すなわち「司牧」にも、この事態は、如何ともしがたい。
この葛藤は、もっとつぶさに、実情に即して論じるべきだと思うのだが、市田は、これに対して、「反牧人革命」が起こるかどうかが問題であり、世界各国で起こっている「叛乱」は、あとさきを考えずに、ともかく、「牧人権力」を無効にすることに集中している、とみなし、あまり「現場」には関心をもたない。
もう「脱原発デモ」にも期待していないなか、「避難民」のほうには、わずかに「叛乱」の可能性を市田はみている。
***
これまで住んでいた場所を奪われ、元に戻れなくなったとき、そこでは、単に家や土地を失うだけではなく、その土地に培われてきた過去や祖先からの継承してきたもの、そして、それを次の世代に引き渡すことすべてを失う、ということが起こっている。
このことを市田は、わざわざユダヤ人に寄せて説明しているが、はたして遊牧民的な次元だけでよいのだろうか。
農耕定住民と放牧移民との違いは、言わば、「アジア的」と「西欧的」の差異でもある、と私は考えている。
「牧人」の記述は、やはり、「土地」との関係性が希薄である。
農耕定住民的な要素の強い「福島」における避難区域からの「避難民」は、正直言って、「叛乱」といったような事態をもたらすことを期待するような解釈をほどこされるよりも、まずは、喪失したもの、喪失しつつあるものに対する「苦しみ」や「悲しみ」を、しっかりととらえなければならないのではないか。
もちろん、「犠牲者」を悼むこと、悲しむこと、または、そうした「犠牲」を憎むこと、怒ることを、求めているのではない。
ここまで「他人事」のように語るのも、ある種、潔いとも言えるし、所詮「インテリ」と開き直った市田の言い方には、そうしたことをふまえていることを暗に示してはいる。
とはいえ、ここまであけすけに語られることには、とても違和感を覚える。
***
中盤では、吉本隆明の「反核」異論を話題にしている。
市田は、まず、すべては平衡状態に向かっているというエントロピー論の時代に「原子力の解放」という言葉遣いに違和感を覚えたという。
ただ一方で、反核運動に単純に与せず、少し距離を置くこととなった原型という側面はあったという両面性はあると述べている。
市田は、反核運動とは直接関係ないが、吉本が社会主義を理想化し、その考えを変えないという態度には非常に共感するが、自立の根拠は大衆の欲望ではなく、「共産主義の欲望」だったのではないか、と持論を展開する。
吉本がそれなりの数が集まった当時の反核運動に疑義をはさんだのは「自然に出てくる不安を軽蔑している」(83ページ)からではないか、と市田は考え、自分は、それで良いんだ、つまり、不安を動機に動きだすべきだ、というスタンスだと述べている。
***
本書は、討論が中心なので、各人がああだこうだと言っている。
それが「討論」の醍醐味なのだが、最近、この手の本を読んでいても、今ひとつ、覇気が感じられない。
なんとも、無駄口を叩いて「書籍」をつくるという資本主義的システムを悪用しているようにしか見えないのである。
いや、書籍だけではない。「討論会」というものも、かなり怪しげになってきた。
少なくとも、一方的に「読者」や「聴衆」がいて、複数の話者がやりとりをする、ということに、あまり意義を見い出さない。
それこそ市田が言うように、やみくもにデモに集まる混沌のほうが魅惑される。
***
全体的には、いろいろなことが語られていると思うが、ここでは、結果的に、市田の発言を中心にまとめることとなった。
ここでは詳しくふれないが、あとは、小泉による、福祉や健康を目指す社会のありようへの問い質しについても、興味深い議論が行われている。
しかし、他の人たちの発言は、あまりにも断片化しすぎて、「論」というべきものにまで固まりきれないまま過ぎ去ってしまったきらいがある。
癖のある人物が集まっているために、読む側が過剰に期待してしまったのが悪いのかもしれないが、少々、肩すかしをくらってしまったようだ。
脱原発「異論」
市田良彦、王寺賢太、小泉義之、絓秀実、長原豊
作品社
2011年11月
(2011年7月上旬の2日間、約10時間の討論が行われた)
ひとこと感想
タイトルは吉本隆明の「反核」異論と関連づけており、いずれも「運動」という文字を消すことによって、読み手に論旨を混乱させるとともに曖昧にさせている。とはいえ、吉本の本がそうであったように、本書もまた、「脱原発運動」の問題点と可能性との両面を浮き彫りにしているという意味で重要な仕事だ。ただ、本書の「著者」については、市田のみがそれに該当し、あとは「聞き手」という位置づけのほうが、読んでいてストレスがない(あ、それで、その他の人の「論考」がわざわざ巻末にあるのだ、と今気づいた)。
***
本書に登場する5人の人物の共通点は、容易に指摘できる。
全員、喫煙者(チェーンスモーカー)である。
しかも、わざわざ煙草を持っていたり吸っていたりする写真を本書に掲載しているところをみると、完全に確信犯である。
おそらく本書の「裏」のモチーフは、脱喫煙「異論」なのでは、なかろうか。
残念なことに、彼らの討論の場には、非喫煙者は、入ることができないか、入ったとしてもあまり心地よいものではないはずだ。
本書における「討論」とは、そういった「場所」であることをふまえて読むべきであろう。
出版とは、すなわち、その場所に居合わせていなくても、その空間を共有できる可能性を拓くものだとすれば、まさしく本書は、非喫煙者のためにあるのかもしれない。
***
本書は、以下のような構成になっている。
(冒頭に、長原豊が座談会開催にあたって配布したと思われる文書がある)
第I部 座談会
基調報告 市田良彦
座談会
第II部 論考
王寺、小泉、絓、長原各氏の文章
あとがき 絓秀実
***
冒頭の「吶喊(とっかん)と屈託――座談会を呼びかけるために」(長原豊)では、3.11が「吶喊」と「屈託」の時代の「始まりなのか?」(4ページ)という、問いかけからはじまっている。
さて、何のことだろう。私にはすっと入ってこない。それはなぜか? ここで言う「3.11」がどうやら、私の思う「3.11」と大きく異なるからである。
私にとって「3.11」は、「終わり」と「始まり」を意味し、原子力の「神話」が完全に終焉した(もしくは、させるべき)一方で、本当の意味でこれから、真剣に原子力がもたらしてきた(そして、これからももたらしてゆく)「現実」にしっかりと向き合うことをはじめなければならないものだった。
だが豊原ならびに本書(特に市田)では、なによりも「叛乱」のはじまり、「運動」のはじまり、としてとらえられていることが、際立った特徴となっている。
もっと具体的に言えば、原発をめぐる「運動」、すなわち、デモを行っている人たちに向けて、何か「知識人」としてこれは言っておきたい、ということがここで述べられている。
大雑把な構図としては、「知識人」が「一般住民」に対して、「闘い」のために、「言葉」という武器を提供しようとしている、そんな感じだろうか。
***
座談会は、まず、市田の「基調報告」からはじまる。
この「基調」とは、「3.11」に関する状況全体ではなく「運動」に関する意味づけ、ということに注意したい。
「運動」すなわち、いわゆる「反(脱、卒)原発デモ」を「総括」するのである。
最近はすっかりと話題に上らなくなっているが、3.11以後、一時期は、各地で「デモ」が起こった。
そのなかでも、2011年4月10日に行われた高円寺デモはSNSで呼びかけたところ15,000人が集まったために、さまざまな反応があった。
おもしろいのは、これに対する市田の感想である。
「それなりの歴史をもった市民運動が「素人」に負けた」(9ページ)
原発(事故)に対する反感を持った人たちが集まり、まったく互いが誰かも分からない状態でともにストリートを練り歩くということは、「叛乱の質をもっていた」(同)と一応は考えられる。
つまり、市田は、原発関連のデモに「叛乱」の萌芽をみてとり、そこに興奮しているのである。いや、ほんと、興奮冷めやらぬ、というところが、とてもよい。
「僕はこの能動的混沌にずっと魅惑されてきました。・・・世の中も自分たちもどこへ向かうのか分からん、という叛乱に特有の混沌状態に、ついわくわくしてしまう。」(10ページ)
このように、市田は、「原発事故」そのものや、その背景などよりも、「運動」に関心が向いていることが、分かる。
世の中、いろいろな人がおり、学者のなかにも、「お祭り」が好きな人は、このように、いるのである。
市田は、この「運動」の中身をいろいろと分析した結果、「議論」の抑制、欠如があったのではないか、と指摘する。
要するに、残念なのである。
「原発が是か非かというデモの「外」と「内」の緊張関係、対立をまさに「内」に呼び込むような論争の萌芽と、それを成長のエネルギーに変えて「外」と対決しようという工夫や姿勢をもっていてほしいんです。」(10ページ)
さらに興味深いことに、こうした「叛乱」と「災害」も同じ「自然力」であり、いずれに対しても「政治力」がものを言う、という。
「運動の前進と惨事の収束のどちらか一方だけがうまくいくとは到底思えなかった。」(11ページ)
そして、そのあと、6月11日には、全国的に、各地でデモが行われるが、この「分散」性は、市田からみると、失敗だったとみなされる。
実際に市田は神戸のデモに参加して、イラついている。
被災地とそれ以外の場所とは、まったく平等ではないのに、そのことに気づかないこと、そして、反原発がいつのまにか脱原発になったこと、に対してである。
市田の理解では、「反」は原発の即刻停止を求めるもの、「脱」は段階的に原発をなくす方向をつくってゆくというものという違いがあるが、こうした対立も「運動」には不可避だとするが、どうも「反」の方に肩入れをしていて、「運動」が「脱」に主導権がとられたのが、気に入らないようだ。
続いて市川は、第二に、原発事故を収束させようとする過程を「戦争」である、と断定している。
戦争は、すでに、「他国家」とのあいだだけで行われるのではない。
「敵」は、ここでは放射能であり、それを「制圧」しなければ、私たちの暮らしが根源から壊されてしまうがゆえに、「戦争」と呼ぶ。
「原子力災害は軍事的範疇の問題として処理されるべきもの」(14ページ)なのである。
これに対して参加者は、どちらかというと、ピンとこない感じであるが、私も、「戦争」というとらえ方に賛成する。
というよりも、あのような事態を「戦争」レベルで考えなければ、何もかもがおかしくなってしまうだろう。
誰かに責任を押しつけて、だからひどい対応だった、といったような議論は、まったく意味をなさない。
切迫した事態を前にして、少しでも「よい」方向に持って行くのに、通常の観念を持ち込んでも仕方がないのである。
さらにこの「戦争」状態に陥ったなかでみえたのが、「組織」というものの弱さだ、と指摘する。これが、第三点目となる。
情報公開を徹底すれば、誰もが平等になり、誰もが自主的に最適な選択肢を選ぶことができる、という考えが誤りだ、と市田は述べる。
私はこの前半は正しいが、後半は正しくないと思う。しかし、市田にとっては、どうも、世間が「情報」にこだわることが気に入らないようである。
そして、「組織」こそが、そうした選択肢を左右する重要な「器官」であると考えている。
「組織の力というのは、まさにその選択肢を広げるところにある」(17ページ)
私にはこれほどまでに「組織」に思い入れる術がないが、この「組織」というものを、ある種の「交通」もしくは「コミュニケーションの場」と考えれば、あながちおかしいようには思えない。
しかしそれをわざわざ手垢のついた「組織」という言葉を使う必要もないように思われる。
四点目としては、フーコーの「生権力」そして「牧人権力」という概念を応用した状況分析が行われる。
「惨事を目の前にして、安全という観念そのものを権力装置の地位に押し上げてしまったかのようです。」(19ページ)
これは核抑止力論がそうであったように、原発もまた、「全員の死の危険により全員の安全を確保しよういう論理」(同)であるということを露呈させるという意味で、至極まっとうな解釈である。
しかも、それのみならず、実際には、「避難民」を生みだしたことによって、そこに「牧人権力」が行使される局面を私たちはみることとなった。
村長や町長が住民をひきつれて、さまよう姿。
もう、「故郷」には戻れないかもしれない、という不安のなかで、離散する人びと。
かろうじて自治体の長がその「共同体」のシンボルとして機能し、対外的には、まだその「村」や「町」はあるように言説は生みだされているが、元の場所にはもう、その「村」や「町」はなくなりつつあるということを、誰もがみないようにしている。
「故郷」を理不尽に追われた人たちは、もっと叫んでもよいはずだ。
「故郷」の戻れなくなってしまった人たちは、もっと不満を訴えてもよいはずだ。
共同体の「長」すなわち「司牧」にも、この事態は、如何ともしがたい。
この葛藤は、もっとつぶさに、実情に即して論じるべきだと思うのだが、市田は、これに対して、「反牧人革命」が起こるかどうかが問題であり、世界各国で起こっている「叛乱」は、あとさきを考えずに、ともかく、「牧人権力」を無効にすることに集中している、とみなし、あまり「現場」には関心をもたない。
もう「脱原発デモ」にも期待していないなか、「避難民」のほうには、わずかに「叛乱」の可能性を市田はみている。
***
これまで住んでいた場所を奪われ、元に戻れなくなったとき、そこでは、単に家や土地を失うだけではなく、その土地に培われてきた過去や祖先からの継承してきたもの、そして、それを次の世代に引き渡すことすべてを失う、ということが起こっている。
このことを市田は、わざわざユダヤ人に寄せて説明しているが、はたして遊牧民的な次元だけでよいのだろうか。
農耕定住民と放牧移民との違いは、言わば、「アジア的」と「西欧的」の差異でもある、と私は考えている。
「牧人」の記述は、やはり、「土地」との関係性が希薄である。
農耕定住民的な要素の強い「福島」における避難区域からの「避難民」は、正直言って、「叛乱」といったような事態をもたらすことを期待するような解釈をほどこされるよりも、まずは、喪失したもの、喪失しつつあるものに対する「苦しみ」や「悲しみ」を、しっかりととらえなければならないのではないか。
もちろん、「犠牲者」を悼むこと、悲しむこと、または、そうした「犠牲」を憎むこと、怒ることを、求めているのではない。
ここまで「他人事」のように語るのも、ある種、潔いとも言えるし、所詮「インテリ」と開き直った市田の言い方には、そうしたことをふまえていることを暗に示してはいる。
とはいえ、ここまであけすけに語られることには、とても違和感を覚える。
***
中盤では、吉本隆明の「反核」異論を話題にしている。
市田は、まず、すべては平衡状態に向かっているというエントロピー論の時代に「原子力の解放」という言葉遣いに違和感を覚えたという。
ただ一方で、反核運動に単純に与せず、少し距離を置くこととなった原型という側面はあったという両面性はあると述べている。
市田は、反核運動とは直接関係ないが、吉本が社会主義を理想化し、その考えを変えないという態度には非常に共感するが、自立の根拠は大衆の欲望ではなく、「共産主義の欲望」だったのではないか、と持論を展開する。
吉本がそれなりの数が集まった当時の反核運動に疑義をはさんだのは「自然に出てくる不安を軽蔑している」(83ページ)からではないか、と市田は考え、自分は、それで良いんだ、つまり、不安を動機に動きだすべきだ、というスタンスだと述べている。
***
本書は、討論が中心なので、各人がああだこうだと言っている。
それが「討論」の醍醐味なのだが、最近、この手の本を読んでいても、今ひとつ、覇気が感じられない。
なんとも、無駄口を叩いて「書籍」をつくるという資本主義的システムを悪用しているようにしか見えないのである。
いや、書籍だけではない。「討論会」というものも、かなり怪しげになってきた。
少なくとも、一方的に「読者」や「聴衆」がいて、複数の話者がやりとりをする、ということに、あまり意義を見い出さない。
それこそ市田が言うように、やみくもにデモに集まる混沌のほうが魅惑される。
***
全体的には、いろいろなことが語られていると思うが、ここでは、結果的に、市田の発言を中心にまとめることとなった。
ここでは詳しくふれないが、あとは、小泉による、福祉や健康を目指す社会のありようへの問い質しについても、興味深い議論が行われている。
しかし、他の人たちの発言は、あまりにも断片化しすぎて、「論」というべきものにまで固まりきれないまま過ぎ去ってしまったきらいがある。
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