読んだ論考
文化の頽廃と再建
アルベルト・シュヴァイツアー
国松孝二訳
シュバイツアー著作集 第6巻
白水社
Verfall und Wiederaufbau der Kultur: Kulturphilosophie, erster Teil
Albert Schwitzer
1923
ひとこと感想
少し前まではあたりまえのようなことを訴えていたように感じたが、今やそうした「倫理」を一貫性のあるものとして打ち出した、稀有な人物に思える。思ったほどに説教くさくなく、ある意味ではキリスト教の考えを逸脱しているかもしれない。
***
私なりに、21世紀の今、シュヴァイツアーの思想から何が得られるのか、考えてみた。
大きくまとめると、以下の三つの考えをもっている、と言える。
・平和への願い
・平等への願い
・生命への畏敬
平和に対しては、倫理として、人間どうしが殺傷しあうことをやめよう、と訴えている。この考えを拡張させると、人類全体に「恐怖」を与え続ける「核実験」や「原発」もまた、受け入れられないものとなる。
次に、平等に対しては、人種などに起因する差別意識をなくそう、と訴えている。この考えを拡張させると、性別やその他の属性などに起因する差別や、社会的立場を利用した嫌がらせなどもまた、受け入れられないものとなる。
さらに第三の生命への畏敬であるが、これは上記の二点が、最終的には「人類」や「人間」といった枠組みにとどまらず、「生きとし生けるもの」すべてに適用されるべきだというものである。動物愛護に反した行動や食肉、さらには実験用モルモットに至るまで、受け入れられない方向性をもつ。
もちろんこれらは、いずれも「未-実現」のものばかりであるが、少なくとも彼が訴えたときから100年近くたった今でも、「理念」として、私たちも掲げ続けるべきではないか、とあらためて思うのであった。
何よりも、これら三つのテーマは、私が長年のあいだ抱き続けてきた(内在的な)「課題」でもあり、それらをすべて包含して語り続けてきたシュヴァイツアーに、あらためて、「最良の知識人」としての像をみるのである。
いや、逆なのかもしれない。
いろいろなことがありすぎて、私たちはしばしば混乱してきたが、原点に帰れば、彼の言うことが、「典型的」もしくは「常識的」「良識的」「標準的」な、理想主義者の考えなのであった。
ある種、当たり前すぎて面白みがない、という人もいるかもしれないが、これを「当たり前」に受け入れてくれる人は、それで、まったくかまわないのだ。
ところが、私はむしろ、こうした考えに全面的に対立する考え(そして人)が、思った以上に世にある(いる)という驚きである。
まず、「平和」について驚くのは、隣国に対して好戦的な発言をする人間、「戦争しかない」と叫ぶ人間が、それなりにいる、ということだ。
しかもそれが「平和」にいることがまるで「悪」であるかのようにとらえられたりする。
個人レベルの場合、たとえ自分や家族など近親者に何か危害が加えられたとしても、そこで、同じことを仕返す人は、あまりいない。
法に訴え、法によって裁かれることを望むはずだ。
もちろんこれは「防衛」という次元とは異なる話であり、「戦争」として考えてほしい。
また、差別の問題については、もっと深刻であり、国連の人種差別撤廃委員会の対日審査会合で出ているように、近年、ヘイトスピーチなどの暴力行為がさもあたりまえのように行われている。
国連で言われていることが至極まっとうであると思うのだが、なんとなくそれを黙認する空気もあったりするのは、なぜなのだろうか。
これについては、あとで、ナショナリズムの問題として、もう少しふれる。
第三の、あらゆる生命への畏敬であるが、これも、さも当然と思っていたら、平然と自分の子どもや家族、さらには他の人間、そしてさらには犬や猫にまで、暴力をふるったり殺傷してもかまわない、と思っている人が、それなりにいる。
たとえば、野良猫に対して不凍液を混ぜたごはんをあげて殺傷しても法にはふれない、と嘯く人たちがいる(「埠頭駅」「定食」「猫」などで検索してみてください)。
地域猫やTNR活動をしている人たちのことを「愛誤」と揶揄し、憎しみをこめて攻撃をする人たちがいる。
その人たちなりの「理屈」や「言い分」があり、それを全面否定するつもりはないが、手段や考え方、表現の仕方などをみていると、少なくとも社会的に許容されがたいものだと、私は思うのだが、その人たちはそう思っていない。
私たちはよく「社会」や「世界」というが、自分がわかる「社会」や「世界」というのは、実はそのうちの、ほんの一部にすぎない。
しかも、基本的に人は、自分が気に入らないもの、嫌なもの、否定的にとらえているものから、なるべく遠ざかって生きようとするから、自分のまわりには、必然的に自分と近いものが多くなる。
そうすると、その「外側」にさまざまな価値観や考え方があったとしても、なるべく見ないふりをして、やりすごそうとする。
わざわざ自分の嫌なものに囲まれたがる人など、そう多くいるとは思えない。
やや話が逸れるかもしれないが、たとえば、夜に何台かのバイクで10代と思われる少年たちが大きな音をたてて走り回っていることがあるが、私たちはそれがたとえ迷惑だと感じても、通り過ぎるだけであれば、「うるさいな!」と苛立っても、それ以上に何か考えたり行動することはない。
やりすごすだろう。
そういうものだ。
しかしこれが、毎日続き、しかも長い時間近くで騒音をたてられたら、黙っていられなくなる。
ネットの情報は、それに近い。
言い方は悪いが、世の中はままならず、いろいろとかかわりたくないことも多い。
だが、避けて通れなくなると、何らかの対応をすることになる。
マスメディアは、戦時中の翼賛体制を除けば、これまで、基本的にはこうしたシュヴァイツアー的倫理を共有し、これを「社会的良心」と考え、そうした共通のフィルターによって報道されてきた。
ところが今では、平然と、極論を「自説」として叫ぶところが増えた。そしてそれはこれまでのメディアだけではなく、むしろネットにおいて余計に、これまで起こらなかったことが、起こるようになった。
「私たち」というくくりが「自分」とそれに近い考えをもっている人で構成されていると思っていたのが、実は、かなり多様であり、時には対立する場合も少なからずある、ということに気づかされるのである。
言ってみれば、自分とはまったくかけ離れた考えをもっている人たちの集まっている集会に、間違って参加してしまったとき、私たちはかなり、つらい思いをするであろう。
ネットで起こる出来事は、そうしたものに近い。
検索した結果表示されるものが、必ずしも自分と同じ「世界」にいない場合がある。
しかも、それが、不快であったり、恐怖を催したり、目をそむけたくなったり、することもある。
そういう場合、できるだけ何事もなかったかのように、その場を去ろうとするが、場合によっては、うまくゆかないこともある。
相手を非難したり攻撃するようなことを書きむようなことを、しないとは、かぎらない。
***
少し、整理しよう。
これらシュヴァイツアー的倫理に対立する世間の言動に共通するのは、何か。
それは、ある種の「非寛容」であり、「排他性」であり、「利己主義」かつ、他者との共存意識の希薄さである。
たとえ、自分たちが「正しい」と心の底で思っていても、それを口に出すということが、これまであまりなかったということなのだろうか。
インターネットによって、私たちは、見たくも、聞きたくもない、そういう言動にもかかわってしまうために、心がくるしいのだろうか。
だが、もしそうだとしても、少なくともその人たちの「本音」は、こうしたシュヴァイツアー的精神とは反目するにもかかわらず、はっきりと、自信を持って「正しい」と考えられている。
この落差は、一体何なのであろうか。
***
さて、シュヴァイツアー自身に語らせよう。
すでに「平和」や「畏敬」については、当ブログで書いたので、今回は、平等への障壁となると考えられるものとしての「ナショナリズム」に絞ってみる。
***
シュヴァイツアーはなにも「ナショナリズム」全般を非難しているのではない。
「ナショナリズムとは何であるか? それは卑しい熱狂的な愛国主義のことであって、高貴で健全な愛国主義とくらべると、正常な確信に対する妄想のようなものである。」(249ページ)
まず、前提として、「国民国家」が正当なものととらえられたのは、それほど古い話ではない、ということを確認しておかねばならない。
シュヴァイツアーはフィヒテをもちだす。すなわち、19世紀初頭を起点とするのである。
フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」は、決してナショナリズム発揚の思想ではない。
諸個人の文化(人間的成長)が高まるようにするうえで、国民国家というまとまり方が便利で都合がよい、とするものである。
「愛国主義の礼賛それ自体は野蛮と見なされるべきであり、それが必然的に無意味な戦争をひきおこす」(250ページ)
しかし実際のところシュヴァイツアーの目から見ても、こうした「理想」は破綻した。
二つの世界大戦、そしてその後の冷戦という名の厳しい均衡。長年にわたって、マイナスに作用し、結果的に国民国家は、文化を彫琢するというよりも疲弊させ破壊され、結果的には「没落」していった。
「ナショナリズムの性格は、利己的であると同時熱狂的であって、その説く現実政治は、個々の領土経済上の利害問題を過度に重大視した上に、これをドグマ化し、観念化し、国民の情熱によって裏打ちしようとするのである。」(251-252ページ)
こういうシュヴァイツアーの発言を読むと、まるで彼が21世紀の日本をみているかのように思えるのは、私だけだろうか。
文化の頽廃と再建
アルベルト・シュヴァイツアー
国松孝二訳
シュバイツアー著作集 第6巻
白水社
Verfall und Wiederaufbau der Kultur: Kulturphilosophie, erster Teil
Albert Schwitzer
1923
ひとこと感想
少し前まではあたりまえのようなことを訴えていたように感じたが、今やそうした「倫理」を一貫性のあるものとして打ち出した、稀有な人物に思える。思ったほどに説教くさくなく、ある意味ではキリスト教の考えを逸脱しているかもしれない。
***
私なりに、21世紀の今、シュヴァイツアーの思想から何が得られるのか、考えてみた。
大きくまとめると、以下の三つの考えをもっている、と言える。
・平和への願い
・平等への願い
・生命への畏敬
平和に対しては、倫理として、人間どうしが殺傷しあうことをやめよう、と訴えている。この考えを拡張させると、人類全体に「恐怖」を与え続ける「核実験」や「原発」もまた、受け入れられないものとなる。
次に、平等に対しては、人種などに起因する差別意識をなくそう、と訴えている。この考えを拡張させると、性別やその他の属性などに起因する差別や、社会的立場を利用した嫌がらせなどもまた、受け入れられないものとなる。
さらに第三の生命への畏敬であるが、これは上記の二点が、最終的には「人類」や「人間」といった枠組みにとどまらず、「生きとし生けるもの」すべてに適用されるべきだというものである。動物愛護に反した行動や食肉、さらには実験用モルモットに至るまで、受け入れられない方向性をもつ。
もちろんこれらは、いずれも「未-実現」のものばかりであるが、少なくとも彼が訴えたときから100年近くたった今でも、「理念」として、私たちも掲げ続けるべきではないか、とあらためて思うのであった。
何よりも、これら三つのテーマは、私が長年のあいだ抱き続けてきた(内在的な)「課題」でもあり、それらをすべて包含して語り続けてきたシュヴァイツアーに、あらためて、「最良の知識人」としての像をみるのである。
いや、逆なのかもしれない。
いろいろなことがありすぎて、私たちはしばしば混乱してきたが、原点に帰れば、彼の言うことが、「典型的」もしくは「常識的」「良識的」「標準的」な、理想主義者の考えなのであった。
ある種、当たり前すぎて面白みがない、という人もいるかもしれないが、これを「当たり前」に受け入れてくれる人は、それで、まったくかまわないのだ。
ところが、私はむしろ、こうした考えに全面的に対立する考え(そして人)が、思った以上に世にある(いる)という驚きである。
まず、「平和」について驚くのは、隣国に対して好戦的な発言をする人間、「戦争しかない」と叫ぶ人間が、それなりにいる、ということだ。
しかもそれが「平和」にいることがまるで「悪」であるかのようにとらえられたりする。
個人レベルの場合、たとえ自分や家族など近親者に何か危害が加えられたとしても、そこで、同じことを仕返す人は、あまりいない。
法に訴え、法によって裁かれることを望むはずだ。
もちろんこれは「防衛」という次元とは異なる話であり、「戦争」として考えてほしい。
また、差別の問題については、もっと深刻であり、国連の人種差別撤廃委員会の対日審査会合で出ているように、近年、ヘイトスピーチなどの暴力行為がさもあたりまえのように行われている。
国連で言われていることが至極まっとうであると思うのだが、なんとなくそれを黙認する空気もあったりするのは、なぜなのだろうか。
これについては、あとで、ナショナリズムの問題として、もう少しふれる。
第三の、あらゆる生命への畏敬であるが、これも、さも当然と思っていたら、平然と自分の子どもや家族、さらには他の人間、そしてさらには犬や猫にまで、暴力をふるったり殺傷してもかまわない、と思っている人が、それなりにいる。
たとえば、野良猫に対して不凍液を混ぜたごはんをあげて殺傷しても法にはふれない、と嘯く人たちがいる(「埠頭駅」「定食」「猫」などで検索してみてください)。
地域猫やTNR活動をしている人たちのことを「愛誤」と揶揄し、憎しみをこめて攻撃をする人たちがいる。
その人たちなりの「理屈」や「言い分」があり、それを全面否定するつもりはないが、手段や考え方、表現の仕方などをみていると、少なくとも社会的に許容されがたいものだと、私は思うのだが、その人たちはそう思っていない。
私たちはよく「社会」や「世界」というが、自分がわかる「社会」や「世界」というのは、実はそのうちの、ほんの一部にすぎない。
しかも、基本的に人は、自分が気に入らないもの、嫌なもの、否定的にとらえているものから、なるべく遠ざかって生きようとするから、自分のまわりには、必然的に自分と近いものが多くなる。
そうすると、その「外側」にさまざまな価値観や考え方があったとしても、なるべく見ないふりをして、やりすごそうとする。
わざわざ自分の嫌なものに囲まれたがる人など、そう多くいるとは思えない。
やや話が逸れるかもしれないが、たとえば、夜に何台かのバイクで10代と思われる少年たちが大きな音をたてて走り回っていることがあるが、私たちはそれがたとえ迷惑だと感じても、通り過ぎるだけであれば、「うるさいな!」と苛立っても、それ以上に何か考えたり行動することはない。
やりすごすだろう。
そういうものだ。
しかしこれが、毎日続き、しかも長い時間近くで騒音をたてられたら、黙っていられなくなる。
ネットの情報は、それに近い。
言い方は悪いが、世の中はままならず、いろいろとかかわりたくないことも多い。
だが、避けて通れなくなると、何らかの対応をすることになる。
マスメディアは、戦時中の翼賛体制を除けば、これまで、基本的にはこうしたシュヴァイツアー的倫理を共有し、これを「社会的良心」と考え、そうした共通のフィルターによって報道されてきた。
ところが今では、平然と、極論を「自説」として叫ぶところが増えた。そしてそれはこれまでのメディアだけではなく、むしろネットにおいて余計に、これまで起こらなかったことが、起こるようになった。
「私たち」というくくりが「自分」とそれに近い考えをもっている人で構成されていると思っていたのが、実は、かなり多様であり、時には対立する場合も少なからずある、ということに気づかされるのである。
言ってみれば、自分とはまったくかけ離れた考えをもっている人たちの集まっている集会に、間違って参加してしまったとき、私たちはかなり、つらい思いをするであろう。
ネットで起こる出来事は、そうしたものに近い。
検索した結果表示されるものが、必ずしも自分と同じ「世界」にいない場合がある。
しかも、それが、不快であったり、恐怖を催したり、目をそむけたくなったり、することもある。
そういう場合、できるだけ何事もなかったかのように、その場を去ろうとするが、場合によっては、うまくゆかないこともある。
相手を非難したり攻撃するようなことを書きむようなことを、しないとは、かぎらない。
***
少し、整理しよう。
これらシュヴァイツアー的倫理に対立する世間の言動に共通するのは、何か。
それは、ある種の「非寛容」であり、「排他性」であり、「利己主義」かつ、他者との共存意識の希薄さである。
たとえ、自分たちが「正しい」と心の底で思っていても、それを口に出すということが、これまであまりなかったということなのだろうか。
インターネットによって、私たちは、見たくも、聞きたくもない、そういう言動にもかかわってしまうために、心がくるしいのだろうか。
だが、もしそうだとしても、少なくともその人たちの「本音」は、こうしたシュヴァイツアー的精神とは反目するにもかかわらず、はっきりと、自信を持って「正しい」と考えられている。
この落差は、一体何なのであろうか。
***
さて、シュヴァイツアー自身に語らせよう。
すでに「平和」や「畏敬」については、当ブログで書いたので、今回は、平等への障壁となると考えられるものとしての「ナショナリズム」に絞ってみる。
***
シュヴァイツアーはなにも「ナショナリズム」全般を非難しているのではない。
「ナショナリズムとは何であるか? それは卑しい熱狂的な愛国主義のことであって、高貴で健全な愛国主義とくらべると、正常な確信に対する妄想のようなものである。」(249ページ)
まず、前提として、「国民国家」が正当なものととらえられたのは、それほど古い話ではない、ということを確認しておかねばならない。
シュヴァイツアーはフィヒテをもちだす。すなわち、19世紀初頭を起点とするのである。
フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」は、決してナショナリズム発揚の思想ではない。
諸個人の文化(人間的成長)が高まるようにするうえで、国民国家というまとまり方が便利で都合がよい、とするものである。
「愛国主義の礼賛それ自体は野蛮と見なされるべきであり、それが必然的に無意味な戦争をひきおこす」(250ページ)
しかし実際のところシュヴァイツアーの目から見ても、こうした「理想」は破綻した。
二つの世界大戦、そしてその後の冷戦という名の厳しい均衡。長年にわたって、マイナスに作用し、結果的に国民国家は、文化を彫琢するというよりも疲弊させ破壊され、結果的には「没落」していった。
「ナショナリズムの性格は、利己的であると同時熱狂的であって、その説く現実政治は、個々の領土経済上の利害問題を過度に重大視した上に、これをドグマ化し、観念化し、国民の情熱によって裏打ちしようとするのである。」(251-252ページ)
こういうシュヴァイツアーの発言を読むと、まるで彼が21世紀の日本をみているかのように思えるのは、私だけだろうか。
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