読んだ本
原発事故学 岐路に立つ目がテクノロジーの解読
東洋経済新報社
1990年7月

ひとこと感想

熱い、というか気合いが入っているというか、とにかく、容赦のない言葉で語られる、内部からの原発「批判」である。矛先は、推進、反対両方である。桜井のような骨のある人が保安院にいたりすれば、もう少し事態は変わったのかもしれないが、桜井が言うとおり、政府、役人、電力会社の言うことが何よりも信頼できない以上、こうした危うい巨大技術とわざわざ隣り合わせで生きる必然性はないはずである。

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桜井淳(SAKURAI Kiyoshi, 1946-  )は、群馬生まれ、原子力安全解析を専門とした
技術者。現在は評論家。

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桜井に言わせれば、軽水炉の仕組みには必ず「機密情報」が含まれており、簡単に
「軽水炉を理解」できない。

「"緊急炉心冷却装置"の注入特性などは絶対にオープンにしたはならないデータである。」(3ページ)

つまり、どうしても「内部」の「専門家」でなければ、その安全性や特性について、十分にふれることができないのである。

桜井の信念は、ただ一つ、「事実は何か」(4ページ)である。

そのために、「推進」だろうと「反対」だろうと関係なく、指摘すべきときにはする、という姿勢を崩さない。

あっぱれである。

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原発の技術について、まず、日米の比較が行われる。

「アメリカの技術のすごさが肌に伝わってくる」(22ページ)

これは、ふつうに考えて、原爆開発や原爆投下の成果、というものであろう。

にもかかわらず、運転に関しては「雲泥の差」(23ページ)があり、スクラムの回数をみても、1ケタほど米国のほうが多い。

日独は、米国から原発を輸入し、改良を重ねて、平均的にかなり安全性の高い状態となっているが、米国の場合は、個々のばらつきが大きい。

なによりも、原発の「心臓部」である「圧力容器」の製造能力について、日本製の技術力の高さ、すなわち、安全性の高さについては、比較的よく知られている。

いろいろと数値を出して比較しているが、それはさておき、むしろ私たちが、驚くのは、技術力の高さそのものではない。

こうした技術力によって、3.11は、かろうじて、最小限の被害で食い止めた、と言えばよいのか、それもと、これどの技術力をもってしても、被害を出さずにおれなかった、と表現すればよいのか、そこで私たちは戸惑うのだ。

桜井の言うように、素直に、まず、技術力の高さによって、一定程度の事故被害が食い止められたということを、讃えるべきではないか。

ただし、であるからといって、それで、「安全神話」に与するのは、あまりにも楽観的であり、あくまでも「技術屋」の発想である。

しかし桜井は、注意深く、次のように書いているところが、なかなか渋い。

「日本には一つだけアメリカから完成品を輸入したものがあるが、その圧力容器は他のものと違うことに注意を向けなければならないし、また日本で製造したものでも初期のものはいまほどよくないことにも留意しなければならない。」(26-27ページ)

圧力容器の次に注目されるのが、溶接技術と、トータルなプラント製造技術、である。

これらの技術力に支えられて、欧米よりもトラブルが少なく、少なくとも数十倍は信頼度が高い、と桜井は考えている。

また、品質管理も徹底している。

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続いて桜井は、「老朽化」についても警告を発している。

しかも、「通産省」と「電力会社」に、もっと真剣に考えるべきだ、とはっぱをかけている。

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TMI事故については、桜井の主張は別著において展開されており、ここでは省略されている。

以下のものは、すぐれた報告であるという。

佐藤一男
久米三四郎
能澤正雄

桜井のTMI事故への評価は、以下である。

「溶融した炉心が20トンも圧力容器の底に落下したにもかかわらず、圧力容器が"メルトスル―”を起こさなかったのは、まさに"奇跡的"という以外に言葉がない。…TMI-2の事故は、これまで原発推進派が考えていた以上に深刻な事象であったことを、ここでは強調しておきたい。」(50-51ページ)

そう、桜井は、かなりしっかりと「技術」の見地から事故をとらえている。

「推進側はこの事故を特殊化せずに、これからの安全を守るための教科書にすべきである。」(51ページ)

さて、はたしてTMI事故の教訓は、日本において生きたのかどうか、それはすでに「3.11」で答えが出ているので、それ以上、問わないが、むしろ大事なのは、「事故」が起きないことであるが、人はなぜか、原発事故も起こりうる、ということに、あまりにも寛容である。

しかし、桜井は言う。

「安全系とオペレーターの絶対的信頼でしか安全を保てないシステムは巨大技術には向いていない。」(53-54ページ)

桜井は、米国の原発稼働が、あまりにも組織管理の面において杜撰すぎると、厳しく非難している。

しかも、日本においても、そうした風潮が感染しはじめていると警鐘を鳴らしている。

「日本の電力会社は、まだアメリカのように原発をなめきってはいないかもしれないが、なめ始めている。これが危険なのである。」(54ページ)

実際の例として、1988年に起こった大飯原発2号機の水漏れ事故について、怒りをあらわにしている。

「異常が発生したら、すぐに停めるのが安全を守るイロハであることを忘れないでほしい。日本の原発も、これから無理して動かそうとすれば、必ずTMI-2なみの事故に陥るだろう。このことをわれわれは覚悟しておかねばならない。」(55ページ)

こうして読んでいると、比較的「推進派」的言説の問題点を指摘しているようにみえるが、そうではない。

反対派であろうとなんであろうと、厳しいのが桜井の長所だ。

「88年から89年にかけての原発論議は、十分に実証性のあるものは少なく、その八割から九割は信用し難い内容である。」(81ページ)

もちろんそのなかには、広瀬隆も含まれるが、一見科学的、技術論的な指摘をしているかのような論文でも、専門家からみると、広瀬と五十歩百歩というものもあるという。

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さらに後半、桜井は、もっと問題発言を行っている。

通産省資源エネルギー庁の資料から、日本の原発が1988年までに155,413人・レムの被曝をしている、ということをもとにして桜井は、以下のように見積もる。

「これに従来のリスク評価値を当てはめれば19.4人の致死的ガンを、また新しい評価値を使えば58.2~77.6人の致死的ガンが算出されることになる。」(150-151ページ)

これくらは、たいしたことがない、というのが、今までの「推進」派の論調であったが、桜井は、まったく違うことを言う。

「これだけの致死的ガンを誘発する技術を、このまま継続するか否かは意見の分かれるところであろう。いまのリスク評価値が保守的すぎるのか、それとも現実的なのか・・・もし現実的であるならば、いまの致死的ガンの発生数はとても社会的に許容できるレベルではない。」(151ページ)

いや、逆に桜井は、もし、被曝リスクに閾値があるのなら、確かにこの問題はクリアされると考えるが、現実的には、まだはっきりしていないにもかかわらず開発と稼働を続ける意味がわからないと嘆いている。

また、ピーク時の電力需要を中心に、電力の大切さを訴えるやり方も、桜井からみれば、あまりにも稚拙で、「政策的なコントロール」(153ページ)で凌ぐことは可能、と断定している。

こうしたところは、なるほど、と思うのだが、一方で、次のような困惑も示している。

これは、誰だって困惑する。

1990年頃の調査で、原発事故の起こる心配をしている人が多いなかで、それでも原発は必要だと考える人の数もとても多い。

桜井は、決して、国内の原発で致命的な事故が起こるとは思っていない。

にもかかわらず、誰もが「原発は危険」と思っているのであれば、後半の「それでも原発は必要だ」という部分はあくまでも「情緒」であって、前者こそが大事であると考える。

国民の意識が調査どおりだとすれば、やはりその意思を最優先した政治がなされるべきであろう。」(155ページ)

これも、なかなか「推進派」には言い出せない言葉である。

さらに桜井は、1990年当時において、次のように認識している。

いまの電力の予備供給力は十分にあり、また電力の供給手段は現実的にいくつかあるので、何が何でも原発に依存しなければならないような社会的要因はなにもないはず」(155ページ)

もちろんそこには、いくつかの理由があって、「依存」しているのである。

・金儲けとして原発産業はうまみがある
・地球温暖化も陰謀めいた側面が多い

私たちは、いかにも他の発電が二酸化炭素をむやむに放出していると考えているが、桜井によれば、おかしい。

「いま放出されている7割の炭酸ガスは、主として産業活動(約33%)、自動車(約21%)、日常生活(約14%)の中から出ており、火力発電所からはわずか三割(約28%)に過ぎない。」(158ページ)

つまり、火力発電をとめても、のこりまだ七割もの考えねばならない部分が残っているということである。

たとえば、簡単にいえば、自家用車の利用をやめる、ということも選択肢にあげてもよいことになる。

タクシー、および、公共交通機関、そして、電気自動車だけを利用するというやり方もある。

だが、そういった議論がまったく起きない。

また、問題点として、「役人」をも桜井は挙げている。

私たちが現状を把握できるデータを公開せず、ただ、「信じてください」と言っているようなやり方には、桜井も愛想を尽かしている。

いやはや、おもしろかった。

この人、タダモノではない。

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「原発技術というのは、これまでの産業技術としての"旨味"があありすぎる。」(184ページ)

とし、コスト面や地球環境問題、エネルギー安全保障といった、これまで、積極的に推進派が口にしていた原発のメリットを全否定している。

"地球危機"というが、これはノーマルな状態の議論から生じたものではなく、いうならば脱原発にストップをかけるために打ち出された政治スローガンである。表面的にはまともな議論のように見えるが、きわめてアブノーマルな議論である。」(185ページ)

また、過去の事故について、チェルノブイリに言及している。

「チェルノブイリ原発事故は、絶対に起こしてはならない事故であった。あのような事故を直視したならば、誰でも原発には対するか慎重にならざるを得ない。」(186ページ)

また、社会主義国における産業技術のレベルの低さを強調し、知識人たちが称賛してきたことへの反省がなさすぎる点に憤っている。

原発をはじめ、どのような「技術」であれ、各国それぞれのものが純粋に同一といえるものはない。各国のさまざまな要素が含みこまれている、というのが、桜井の技術観である。

「大部分は技術論を表面的に装っているが、技術論ではなく、推進あるいは反原発のための"運動論"にすぎない。」(186ページ)

結果的に、事故に対する「言説」は、大きく二分されてしまう。すなわち、

・推進派 事故を過小評価
・反対派 事故を過大評価

いずれも、間違っており、もっとしっかりとした事故分析とその結果の現場へのフィードバックを重視すべきである。

なお、最後に桜井は、今後の展望として、以下のことを指摘している。

・軽水炉時代はしばらくは続く
・増殖炉や核融合の開発は、文明の選択の問題
・ひとつの技術に大幅に依存してはならない
・石炭のガス化と太陽エネルギー利用が今後期待される


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