読んだ本
復刻 原子爆弾 亡き夫に愛をこめて
武井武夫、武井冨美子、武井共夫
光陽出版社
1995年11月

ひとこと感想
武井武夫の「原子爆弾」が凄いところは、1)発行した時期、2)内容、である。1)とにかく早く、GHQが検閲をはじめる前に刊行された。2)内容がしっかりしているだけでなく、かなりニュートラルに書いているが、これが、はたして良い書き方だったのかどうか、もっと検証される必要がある。

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武井武夫(TAKEI Takeo, 1910-1981)は、ジャーナリスト。同盟通信社、時事通信社のあと、日本共産党で働く。

武井冨美子(TAKEI Tomiko, 1922-)は、武夫の妻で、東大和市議会議員ほか。

武井共夫(TAKEI Tomoo, 1954-  )は、武夫の息子で、弁護士。オウム真理教被害対策弁護団の一人。

*本書は古本屋で購入した。目次の右側に武井冨美子と武井共夫のサインがあった。


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「8月6日午前8時20分、B29一機はヒロシマ上空に一個の落下傘を投じて飛び去った。落下傘は風に流されつつ広島の市街に迫り、約6000メートルの高度において轟然炸裂、稲妻のごとき閃光を発した次の瞬間には、広島全市はもうもうたる密雲に閉ざされてしまった。人類史上未曽有の大破壊が行われたのである。」(12ページ)

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水田九八二郎の「原爆文献を読む――原爆関係書2176冊」(中公文庫、1997年7月)の巻末にある「文献一覧」で、もっとも古い「原爆関係文献」は、以下のようになっている。

 昭20・9 原子爆弾 武井武夫 同盟通信社

すなわち、本書に再録されているこの「原子爆弾」こそ、国内で最初の「原爆関係文献」として位置づけられているのである。

この本では、この文献一覧のうち100冊がピックアップされ、簡単な概説が付されている。

それゆえ当然、武井のこの本
(31ページの小冊子)が、冒頭に登場しているかというと、そうではない。

栗原貞子の「黒い卵」からはじまり、武井の本は含まれていないのである。

この理由がわからない。

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「原子爆弾」は、1945年9月20日初版となっている。

この日付の、その翌日、9月21日は、GHQによる書籍の検閲がはじまった日である。

つまり、中身に関してはまったく検閲を受けずに読まれたという意味で、すでに非常に重要な文献だと思うのだが、どうであろうか。

この本は入手しにくかった、とか、部数が少なく、ほとんど読まれていなかった、と思う人もいるかもしれない。

だが、本書には、次のように書かれている(武井冨美子による)。

「この「原子爆弾」はその奥付に「二十万部」と記されている。実際には、同盟通信社の時代に十万部で、たちまち売り切れ、さらに十万部を増刷し、同社の自主解散後、出版部門をひきついだ時事通信社によって出版された。」(5ページ)

驚くことに、当時「原子爆弾」は二十万部のベストセラー本だったのだ。

それなのに、100冊には、含めなかった。

これは、おかしい。

念のために言えば、全国の図書館のうち、9館には現在も収蔵されているので、水田も入手しようと思えばできたのではないだろうか。

また、一つの理由として考えられるのは、武井が共産党という党派をはっきりと持っていたことにより、水田が「最初」にはふさわしくないと考えて、除外した、ということくらいである。

いずれにせよ、謎である。

以下は、この「謎」が、もしかすると、その記述の仕方にあるのではないか、という仮説を書いていることになるだろう。

「記述の仕方」とは、すなわち、ある種の「客観性」は、ある種の「無関心」のようにも受け取られ、さらに言えば、ある種の「自己逃避」の結果であるようにも理解されるかもしれない、ということである。

そうした本を水田はトップに置きたくなかった、という私なりの仮説である。

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1945年8月7日、すなわち、広島に原爆が投下されて数日後、大手新聞は、大本営の発表を受けて、原爆を「新型爆弾」として報道し、「原子爆弾」「原子弾」という言葉を使わなかった。

そのなかで、同盟通信社川越分室にいた武井武夫と杉山市平は、海外放送を傍受しそれを「原子爆弾」と名付け、当時の外相に伝達していた。

当時の模様(舞台裏)は、若干の脚色(人名が実名ではなく変えられている)をほどこされつつ、武井が1969年に書いた「してぃ・おぶ・かわごーえ」という文章に描かれている。

トルーマン声明の電文(モールス信号による新聞電報で、紙テープにパンチングされて届く)をもとに武井が口述し、それをオペレーターがタイピングするというやり方だったようである。

武井は科学記事の担当であり、英語がよくできたのだ。

手際良く武井はこの内容を次のようにまとめている。

・米国は、広島に落とした
・原子爆弾は、火とはまったく異なる次元の破壊力をもつ
・ドイツと異なる方法で、黒鉛を用いて原子核分裂物質をつくった
・グローヴズを指揮者とする、マンハッタン計画によって生み出された
・研究側の代表は、オッペンハイマー
・フェルミやアインシュタインも研究に協力
・ロスアラモスで原爆実験を行っていた

できあがった原稿は、武井のいた川越支局から日比谷の本社にまで2時間かけて運ばれて、ようやくデスクのもとに届けられる。

しかしこの内容は重要だということで、デスクから電話があり、電話口で口頭で、あらためて翻訳し、それを速記者が記録し、その記録を別の速記者が復元する、という人海戦術である。

そうした経緯をふまえて、今一度ていねいに原爆のことを概説したのが、この小冊子「原子爆弾」である。

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ここでは、立場によって異なるような内容を含まないようにしつつ、武井は、以下のことに焦点をあてようとしている。

「原子爆弾そのものがいかなる学理に基づき、いかなる破壊力を有し、いかなる規模において計画され製作されたか」(11ページ)

きわめて中立的、客観的な記述を心がけた、ということであろう。

だが、残念ながら冒頭から誤認がある。

武井は、B29が落とした「落下傘」こそ原爆だった、という書き方をしている。

この@「落下傘」は後に、天候観測用のもので、爆弾そのものには落下傘はついていなかったと、米国側が説明している。

また、武井は米軍が偵察機を何度か出しても「密雲に妨げられて写真を撮影するにいたらず」(12ページ)と書いているが、米軍は周到にきのこ雲の写真を撮影している。

たとえ「客観的」と言っても、こうした「間違い」はある。

ただ、この点をここで非難したいわけではない。

逆に、米軍側が発表した情報の「誤り」を、武井は指摘もしている。

8月8日のグアム島にあった戦略航空隊司令部の公報内容である。

「B29一機が六日投下した原子爆弾により、広島全市6.05平方マイルのうち4.1平方マイル、すなわち、同市の60パーセントが破壊され、5つの主要工業目標物が一掃された。」(13ページ)

実際には、この区画の外側にも広がり、死傷者も空前絶後だったのだ、と武井は述べている。

こうした記述を読めば、武井が必ずしも米国側の情報をすべて鵜呑みにしているわけではないことが、分かるであろう。

すなわち、ここで米国側は、「破壊」「一掃」という言葉を使っているが、そこにいたのが戦闘員だけではなく、無数の非戦闘員がいたことを語っていない点に、武井は、静かに憤っているのである。

また、長崎については、当初の第一目標が天候不良につき断念され、第二目標として選ばれたということを指摘している。

このときはまだ、第一目標が小倉だったということが公開されていないので、第一目標については「不明」と書かれている。

これについても、特に「推測」することなく「不明」のままにしている。

さらにそのあと、米国による二つの説明を加えている。一つは、ロスアラモスでの「実験」の様子である。もう一つは、長崎の「戦果報告」である。

こちらも、人的被害ではなく、もっぱら施設関連のみに焦点があてられている。

「長崎駅ならびに貨物取扱構内約20パーセント、長崎出島の埠頭が25パーセントにいなtっている。戦略航空隊司令部の発表では少なくとも13の重要工場が履滅し、同港の工業地区はほとんどすべてが破壊され尽くしたと述べている。」(16-17ページ)

さらに、UP電報の記述も同様である。

「爆撃士は「三菱鉄鋼工場に確かに命中した」と述べており、・・・爆撃の効果は広島以上だった」と語っている。」(17ページ)

あくまでも「攻撃目標」は、軍事関連施設であるかのようである。

武井は、基本的に、米国からの情報を「そのまま」に伝えようとしている。

それが、間違ったことである、とはとうてい言えない。

それ以上に信憑性のある情報がなく、検証もしようがない以上、ていねいに所与の内容を記述しようとすることは、決して不誠実ではない。

だが、結果的には、武井がそれ以上、被害者の視点をそうしたテクストに挿入しないかぎり、その内部へと包摂されてしまっているのである。

それゆえ、ここには、二重の課題がある。

第一に、米国側の情報に対してであり、まったく「人」がそこに存在しないかのように説明することによって、原爆の破壊力だけを伝えている、ということである。

そして第二に、武井の記述に対してであり、米国側の情報をそのまま翻訳することによって、ある種の「客観性」があると信じている、ということである。

本書は、たとえGHQによる検閲がなかったとしても、こうした二重の表現上の「検閲」が行われたうえで、「原子爆弾」のイメージを克明にこの国に付与したのである。

これは、昨日とりあげたウィリアム・ローレンスの「0の暁」にける「操作」と、それほど違いがないように思われる。

武井はもちろん、単純に米軍を支持していたわけではないが、結果的には、米軍の「まなざし」に自身を同化させていたように、本書は読める。

明らかに旗色が悪くなっているにもかかわらず戦争を続けようとする、軍部にたいする憎悪は本書から伝わってくるものの、原爆の被害と加害という現実には、本書からはなかなか近づくことができないのである。

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なお、ドイツの原爆開発については、現在からみて、明らかに誤解されている。

まず、事実。

「(1945年8月よりも)
何カ月か前に英軍決死部隊がドイツ軍重水工場を爆破したという電報があったことを思い出した」(70-71ページ)

これは実際に確認されている事柄である。

しかし、このことからの類推なのか、次のようにも述べている点はどうであろうか。

「ドイツが敗戦前すでにほとんど原子爆弾を完成しようとしていたことはスチムソンの報告にも明らかである」(21-22ページ)

これも米国からのある種のプロパガンダに武井は乗ってしまった例である。

米国は、あくまでもドイツが原爆完成間近であったので、原爆の実際的使用を急いだ、という言い訳をしたいのである。

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とはいえ、武井と、ウィリアム・ローレンスとは、決定的に異なっていることを、最後に書き添えておこう。

やや、弱腰ながら、「多くの人命が原爆によって救われた」という
トルーマンの申し開きに対して、次のように述べている。

「戦争である以上、これは論ずべきではないかもれないが、全世界の人が何か割り切れないものを感じるのではないだろうか。」(36ページ)

しかし武井はこうした議論を「人道問題」とし、本書の中心に置いていないため「脱線」として取り扱い、それ以上語ろうとしない。

残念である。

***

原爆がもたらした惨事、それを私たちは「ヒロシマ」「ナガサキ」と呼んでいるが、この「惨事」そのものへの関心が薄いのは、一体なぜなのだろうか。

原子力の解明、「原子爆弾」の開発、爆発試験、そして、実際の投下に対しては、克明に記述しようとしているにもかかわらず、なぜ、ヒロシマ、ナガサキの現実を見たり、知ったり、書いたりしないのだろう。

これは、精神分析的に言えば、逃避行動であり、無意識による自己検閲ということになる。

あまりにも凄まじい出来事が起こってしまうと、私たちは、忘れようとしたり、なかったことにしたり、したくなる。

ここでも、そういった「防衛機制」が働いているのかもしれない。

だから、「未来における原子力の平和利用」とは、フロイトの言う「夢」に相当する。

「ウラニウムその他の原子のなかに包蔵されている原子エネルギーは、等量の石炭の燃焼により放出されるエネルギーの百万倍以上になる。将来に残された問題はこの爆発エネルギーを捕捉し、平和時代における人類の種々の機械の運転に駆使することでなければならない。」(46-47ページ)

そして、むしろ、これからの原子力の平和利用を夢見ようとする――いや、「3.11」まで、私たちは、多くの人びとは、原子力の陽光を浴びて、ついついまどろんでしまっていたのだ。

「フクシマ」によって、私たちは、夢から醒めたのである。


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