読んだ本
社会美学への招待――感性による社会探究
宮原浩二郎、藤坂新吾
ミネルヴァ書房
2012年7月
*以下は、昨日の記事の続きである。
「社会の美しさ」と「原発事故」~「社会美学への招待」(宮原浩二郎他)を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11813445481.html
このなかで、とりわけ興味深いのは、著者の一人、藤坂がアルバイトをしている喫茶店のエピソードである。
ときどきやってくるお客さんにネコを連れてくる人がいるらしく、そのネコはもちろん飲食店なので(ドッグカフェやネコ喫茶でないかぎり)入店は許されない。
だがこのお客さんは、来るたびに、店先にある傘立てにリードをくくってお店に入ってくるという。
このネコを前にして、通りすがりの人たちが、さまざまに関心を示す様子を藤坂は記述する。
最初はお母さんが子どもにネコがいるよと言ってこどもがおそるおそる近づいたところからはじまる。
次第に人が集まり、気づいてみれば小さな「社会」がそこに生まれていたことに藤坂は気づく。
「たまたまここを通りがかった人びとと、店のお客様、幼稚園児からお年を召した方まで、たぶんこれから二度と出会わないかもしれない見知らぬ者同士が集まり、猫を囲んでほっこりと談笑している。」(138ページ)
いや「社会」のみならず、ここには「社会美」が生まれていたのであろうと想像される。
私も、以前、通りかかりの家の庭にいた猫をみつけ、自転車を降り、おいで、と手招きをしたら、そばにやってきて、ごろんと転がり、お腹をみせるので、しばし 戯れていたら、3歳くらいの男の子とその母親がやってきて、やはり、子どもは興味があって、猫を凝視し、私がその子に、喉元をやさしくなでると、喜ぶよ、 と言うと、おそるおそる手をのばし、猫が気持ちよさそうにしているのをみて、私と目を合わせ、やった!というような表情をしたときのことを思い出した。
私は、こうした「経験」を、本書を読むまでは「社会」にまで連接することはなかったが、「社会美」とは、そういうところから偶発的に生成するものであることに気づかされた。
「快さ」とは、そういった「心地よさ」である。
「心」と「地」すなわち「気持」と「場所」が好い関係にある、ということである。
***
私には、もう一つ、これは単純に「心地よさ」とは言えないものであったが、猫にまつわる別な思い出がある。
こうである。
やはりこのときも自転車にのって買い物をした帰り路だった。
狭く(一車線しかない)、ゆるいカーブの続く道の途中、電柱の近くに、何か、塊が見えた。
一瞬、見なかったことにしよう、と思った。
おそかった。
それは、猫のなきがらだった。
白地に一部黒いブチがあり、おそらく2~3歳にはなっている、やや大きめのネコ。
大きな外傷はみられなかったが、ぴくりとも動かず、あいたままの口からは血が流れていた。
まだ固まっていない。
道路、電柱、家の壁に、少し、血が飛び散っている。
わずかではあるが、白い毛も散っている。
この道は30分前に通ってきたばかりだから、わずかその30分のあいだに死んでしまったことになる。
状況からみて、バイクか車にひかれたように見える。
私は自転車を止めて、この猫のなきがらのそばに立ちつくした。
この道はそれほど頻繁に車が通るわけではないが、そうは言っても数分に1台くらいはやってくる。
猫のなきがらを傷つけないよう、見守るつもりで、しばらくのあいだ、そこに立っていた。
時折通りすぎる人たちがこちらを向くと、まず私がそこに立っていることを訝しがり、続いて猫に気づいてぎょっとして、目をそむけ、小走りに去ってゆく。
そういうものである。
その間、1時間くらいいただろうか。
そのあいだ、声をかけてくれた人もいた。
相手の老人「どうしたんですか」
私「交通事故のようです」
相手の老人「かわいそうにねえ」
私「道が狭いので、人間も危険です」
または、
相手の子ども「まだ生きているの?」
私「もう動かないよ」
相手の子ども「・・・(悲しそうな顔)」
そうしているうちに、近くに住んでいるらしい青年が、声をかけてきた。
また、すぐそばの家の人が娘とともに外に出てきた。
近所の人たちが、少し集まり、どこの猫だろうか、とか、近所に聞きにいったり、しはじめる。
そうしてゆくうちに、最初の青年が、私が近所の者でないことを知り、あとは、こちらでやるから、ありがとうございました、とていねいに言ってくれるので、その言葉に甘えて、お先に失礼します、と最後のもう一度、その猫を見やってお別れをしてから、その場を去ったのだった。
もちろん、その猫のことを想うたびごとに胸がしめつけられる感触は消えないし、決して「きれいごと」にしたいわけでもないのだが、こうしてその場に何人かの人たちが集まってくれたことに、わずかに「救い」があった。
そして、ここにも「社会美」が生まれた、と言えるのではないだろうか。
「快」「心地よい」という言葉では、なかなか言いつくせないが、社会美とは、そうした、悲しみや苦しみの共有、すなわち、コンパッションをも内包するものだと思う。
葬儀がすっかり形骸化していたり、死の看取りが医療化されたなかで淡々ととりおこなわれていることから、私たちは、なかなか日常でこうした経験を得ることが少なくなっている。
しかし、まったく失われているわけではなく、むしろ私たちがそのなかから発見し、掘り起こすことで、共に生きる「社会」の「美しさ」の生成がなされてゆくのかもしれない。
原発事故のあとを生きること、共に生きること、それは、決して楽しいことではないし、容易ではない。
むしろ、はっきりと対立するという構図が増えている。
さまざまな感情が入り混じる。
そのなかで、とりわけ失ってはならないものを、「社会美」という言葉から学びなおすことができた。
社会美学への招待――感性による社会探究
宮原浩二郎、藤坂新吾
ミネルヴァ書房
2012年7月
*以下は、昨日の記事の続きである。
「社会の美しさ」と「原発事故」~「社会美学への招待」(宮原浩二郎他)を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11813445481.html
このなかで、とりわけ興味深いのは、著者の一人、藤坂がアルバイトをしている喫茶店のエピソードである。
ときどきやってくるお客さんにネコを連れてくる人がいるらしく、そのネコはもちろん飲食店なので(ドッグカフェやネコ喫茶でないかぎり)入店は許されない。
だがこのお客さんは、来るたびに、店先にある傘立てにリードをくくってお店に入ってくるという。
このネコを前にして、通りすがりの人たちが、さまざまに関心を示す様子を藤坂は記述する。
最初はお母さんが子どもにネコがいるよと言ってこどもがおそるおそる近づいたところからはじまる。
次第に人が集まり、気づいてみれば小さな「社会」がそこに生まれていたことに藤坂は気づく。
「たまたまここを通りがかった人びとと、店のお客様、幼稚園児からお年を召した方まで、たぶんこれから二度と出会わないかもしれない見知らぬ者同士が集まり、猫を囲んでほっこりと談笑している。」(138ページ)
いや「社会」のみならず、ここには「社会美」が生まれていたのであろうと想像される。
私も、以前、通りかかりの家の庭にいた猫をみつけ、自転車を降り、おいで、と手招きをしたら、そばにやってきて、ごろんと転がり、お腹をみせるので、しばし 戯れていたら、3歳くらいの男の子とその母親がやってきて、やはり、子どもは興味があって、猫を凝視し、私がその子に、喉元をやさしくなでると、喜ぶよ、 と言うと、おそるおそる手をのばし、猫が気持ちよさそうにしているのをみて、私と目を合わせ、やった!というような表情をしたときのことを思い出した。
私は、こうした「経験」を、本書を読むまでは「社会」にまで連接することはなかったが、「社会美」とは、そういうところから偶発的に生成するものであることに気づかされた。
「快さ」とは、そういった「心地よさ」である。
「心」と「地」すなわち「気持」と「場所」が好い関係にある、ということである。
***
私には、もう一つ、これは単純に「心地よさ」とは言えないものであったが、猫にまつわる別な思い出がある。
こうである。
やはりこのときも自転車にのって買い物をした帰り路だった。
狭く(一車線しかない)、ゆるいカーブの続く道の途中、電柱の近くに、何か、塊が見えた。
一瞬、見なかったことにしよう、と思った。
おそかった。
それは、猫のなきがらだった。
白地に一部黒いブチがあり、おそらく2~3歳にはなっている、やや大きめのネコ。
大きな外傷はみられなかったが、ぴくりとも動かず、あいたままの口からは血が流れていた。
まだ固まっていない。
道路、電柱、家の壁に、少し、血が飛び散っている。
わずかではあるが、白い毛も散っている。
この道は30分前に通ってきたばかりだから、わずかその30分のあいだに死んでしまったことになる。
状況からみて、バイクか車にひかれたように見える。
私は自転車を止めて、この猫のなきがらのそばに立ちつくした。
この道はそれほど頻繁に車が通るわけではないが、そうは言っても数分に1台くらいはやってくる。
猫のなきがらを傷つけないよう、見守るつもりで、しばらくのあいだ、そこに立っていた。
時折通りすぎる人たちがこちらを向くと、まず私がそこに立っていることを訝しがり、続いて猫に気づいてぎょっとして、目をそむけ、小走りに去ってゆく。
そういうものである。
その間、1時間くらいいただろうか。
そのあいだ、声をかけてくれた人もいた。
相手の老人「どうしたんですか」
私「交通事故のようです」
相手の老人「かわいそうにねえ」
私「道が狭いので、人間も危険です」
または、
相手の子ども「まだ生きているの?」
私「もう動かないよ」
相手の子ども「・・・(悲しそうな顔)」
そうしているうちに、近くに住んでいるらしい青年が、声をかけてきた。
また、すぐそばの家の人が娘とともに外に出てきた。
近所の人たちが、少し集まり、どこの猫だろうか、とか、近所に聞きにいったり、しはじめる。
そうしてゆくうちに、最初の青年が、私が近所の者でないことを知り、あとは、こちらでやるから、ありがとうございました、とていねいに言ってくれるので、その言葉に甘えて、お先に失礼します、と最後のもう一度、その猫を見やってお別れをしてから、その場を去ったのだった。
もちろん、その猫のことを想うたびごとに胸がしめつけられる感触は消えないし、決して「きれいごと」にしたいわけでもないのだが、こうしてその場に何人かの人たちが集まってくれたことに、わずかに「救い」があった。
そして、ここにも「社会美」が生まれた、と言えるのではないだろうか。
「快」「心地よい」という言葉では、なかなか言いつくせないが、社会美とは、そうした、悲しみや苦しみの共有、すなわち、コンパッションをも内包するものだと思う。
葬儀がすっかり形骸化していたり、死の看取りが医療化されたなかで淡々ととりおこなわれていることから、私たちは、なかなか日常でこうした経験を得ることが少なくなっている。
しかし、まったく失われているわけではなく、むしろ私たちがそのなかから発見し、掘り起こすことで、共に生きる「社会」の「美しさ」の生成がなされてゆくのかもしれない。
原発事故のあとを生きること、共に生きること、それは、決して楽しいことではないし、容易ではない。
むしろ、はっきりと対立するという構図が増えている。
さまざまな感情が入り混じる。
そのなかで、とりわけ失ってはならないものを、「社会美」という言葉から学びなおすことができた。
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