読んだ本
信頼の条件 原発事故をめぐることば
影浦峡
岩波書店
2013年4月

*これは、「科学」掲載論文「「専門家」と「科学者」――科学的知見の限界を前に」の加筆修正版である。

 → 原発事故を語る「専門家」の過ち~影浦峡から学ぶ

ひとこと感想
本書のテーマ、それは、「取り返しのつかない後悔」をしないために、情報をきちんと読み解き、生きる、ということになる。その力は何も原発事故関連だけにかかわるものではない。ところでこの作者、かなり変な人だと思うが、同時に、とても全うでもあると思う。

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「個人的なところでは、決して解消されることのない後悔を背負うことをめぐる恐怖と焦りの感覚が、原発事故後ずっと頭と体を離れず、そもそも本書とつながるような発言や活動をしていることは、それに関係しています。」(96ページ)

低線量被曝の問題について、客観的な因果関係が証明されない、という科学的事実を前にして、だからと言ってそれを「安全」「安心」と言ってしまう専門家への批判は、本書のあとがきで、明確に語られている。

「仮に、例えば子どもに健康被害が出てしまった場合、保護者が、それが被曝によるものでないと納得することも難しい、ということでもあります。」(97ページ)

つまり「後悔」、作者の言葉を使うなら「血が引いていくような後悔」である。

「いつまでたっても血の引くような感覚とともに戻ってきて決してなくなることのない後悔もあります。そしてそのような後悔は、しないで済むならば絶対にしないほうがよいものだ」(96-97ページ)

それゆえ作者は、科学者やマスコミが科学的に分かっていないことを、わざわざ「安全」「安心」と読み変えていることに怒りが止まらないのだ。

「このような状況は、…東京電力の責任を軽減するために事故を矮小化し、本来東京電力と政府が責任をもってやるべき対策を充分にとらないまま、問題への対処を個人に押し付けるような言葉の配置と対応しています。」(97ページ)

そしてもう1点、このことは「自分だけよければよい」とするのではなく、「他者」への感受性をしっかりともつことを、作者は強調している。

もちろんこの「他者」とは、たとえば、原発で作業をする人たちや、自分たちよりも高線量の場所で暮らす人たち、のことである。

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本書が検討しているのは、以下の3点である。

1)どのようなかたちで少なからぬ発言が事実的にも科学的にも誤るに至ったのか

2)いかなる所以で社会的に不適切な発言が少なからずなされたのか、また、それはどのような効果をもったのか

3)どのようにして、信頼そのものを支える基盤が崩壊するかたちで信頼が失われたのか

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「想定外」という言葉は、その科学的探究における「想定外」ではなく、自分が分かっていることの範囲を超えているというだけのことを意味している。

そして、そのことは、自分が「知っている」ことがすなわち「正しいこと」であると短絡していることにつながっている。

さらに、自分が「知っている」こと以外は、まるでこの世に存在していないかのようにふるまっているが、
この態度は、きわめて非科学的である。

こうした非科学的態度が横行すると、誰が何を明らかにしなければならないのか、という「責任」までもが、あいまいになってしまう。

しかも、専門家どうし、例えば、規制する側とされる側が結託して「安全」を言い合えば、それが「安全」という「事実」、社会的コンセンサスのようなものをつくりあげる。

それでも専門家は、自分たちの手持ちの知識で事故を説明しようとする。しかし事故とは、そうした既存の知識を逸脱したものなのだから、その範囲内で説明できるはずがない。

にもかかわらず「説明」を要請された専門家たちは、強引に、既存の知識の枠組みの中に事故を無理やりあてはめて説明するため、無茶苦茶な飛躍や捏造、改変などが平気で行われることになる。

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さて、それでは、どういったように、語られるべきなのか。

信頼のある発言とは何か、以下の六点にまとめられている。

形式に関する要件
1)一貫性
2)包括性、体系性
3)説明責任、挙証責任

内容や位置づけに関する要件
4)話題の妥当性
5)事実性
6)内容の妥当性

本来、私たちは「科学者」の説明を、敬意をもって受けとめ、感謝の念を抱くことこそあれ、猜疑心と憎悪をもって立ち向かうようになってしまったのは、あまりにもフクシマに関する言動の歪みがひどかったからである。

このことに自覚的でない科学者は、すでに「科学者」ではない。

(マス)メディアもまた、そうした人たちを淘汰することなく、むしろ、再生産、強化、正当化、権威化を無批判に進めている。

それは、別に原発に賛成していようとしていまいと関係なく、両側から湧き出るように生み出されたきたし、今もなお、そうした事態に変化はない。

私が絶望するのは、そうした事態である。

辛うじて「ネット」があるおかげで、なんとかなっている。

未だに多いのは、「科学者」や「マスコミ」が、「不安をもち不信感を抱くこと」を、「無知」のためとみなしていることだ。

そうではない。

「不安」や「不信感」は、「冷静さの欠如ではなく、むしろ冷静かつ合理的な判断の感情レベルでの一つの現れである」(86ページ)

もちろん、そこに安住するのが良いとは言わない。

だが、そうした一般市民の「感情」をまるでバカにしたような「専門家」たちの発言は、もう、やめにしてもらいたい。

そして、こうした影浦に批判された「専門家」たちには、是非とも「反論」を期待する。

もしも「反論」できないのであれば、今までの「肩書き」「看板」は一刻も早く下ろすべきであろう。



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