読んだ本
東日本大震災と社会学 大災害を生み出した社会
田中重好、船橋晴俊、正村俊之:編
ミネルヴァ書房
2013年3月11日

ひとこと感想
日本社会学会が出した論考集。いずれも力の入った文章が多く、真剣に問題に立ち向かおうという意気込みはとても強く感じられる。ただし、全体としてこれが「日本社会学会」ができることのすべてなのかどうか、その全貌がよく分からないのが残念であった。

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本書の意図
大震災のあと、「復興」の取り組みに対して「社会学」ができることは何か、を問う。

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編者による「はじめに」には、次のようなことが書かれている。

本書の前提にあるのは、近代学問としての「社会学」が、いつのまにか「自然」や「人間」つまり、自然科学や人文科学との分業において、社会科学のなかで作業をすることになり、自然災害との関係などを問う機会を失ってきたという反省である。

また、社会学においては、「自由」「平等」「連帯」といった「価値」を主にテーマとしてきたが、あらためて「安全」にも焦点をあてるべきだと考えている。

端的に言えば、工学を中心に行っている「安全なまちづくり」に対して社会学も積極的にかかわろうというのが、本書のねらいであろうか。

しかしどうやら、「防災研究者」のあいだでは「社会学者」はすこぶる評判が悪いようである。

・役に立たない
・政策的な提言がない
・文理融合した連携研究がない
・研究成果の発表が遅い

これらの意見に対して本書は、2つの点において、「役に立つ」方向を目指す、という。

・防災は社会的、共同的な問題なので社会学的な考察が生かされる
・防災における構造的な対策について、社会学の知見が生かされる

??

今一つよく分からない。

2番目の「構造的な対策」については、次のようなテーマが含まれている。

・建物の耐震性向上
・住宅や産業施設の再配置
・原発の推進・反対といった社会的選択

最初の2つは工学でも頻繁に論じられているので、そう考えると最後の、原発を(地域)社会が受け入れるかどうかをめぐる実際的な議論への寄与、というのが社会学の本領ということになるのであろうか。

なかなか、厳しいテーマであるが、社会学は立ち向かう。

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本書の構成は、以下のとおり。

目次

序章 大震災が突きつけた問い(編者)

第I部 被災の現場からの社会学
1 広域システム災害と主体性への問い 山下祐介
2 地域コミュニティの虚と実 吉原直樹
3 東日本大震災における市民の力と復興 関嘉寛
4 千年災禍の所有とコントロール 金菱清

第II部 原発事故と原子力政策
5 福島原発震災の制度的・政策的欠陥 舩橋晴俊
6 何が「デモのある社会」をつくるのか 平林祐子
7 フクシマは世界を救えるか 長谷川公一

第III部 大震災への社会学からの接近
8 リスク社会論の視点からみた東日本大震災 正村俊之
9 不透明な未来への不確実な対応の持続と増幅 加藤眞義
10 「想定外」の社会学 田中重好

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序章によれば、「大震災」は、これまでの「日本の社会」の自明性を根本から崩してしまった。

ところで「大震災が突きつけた問い」とは、すでに阪神淡路の大震災のときに、一度問われたはずではなかったか。

そう、あのときも「自明性」が崩れた。

にもかかわらず、次第に、尻すぼみになっていった。

だが、今度は、そうはいかない、本気で立ち向かおう、と意気込む。

それは、気持ち的にはよく分かる。

ただし、肝心なのは、その立ち向かい方であり、その全体像であろう。

今一つ、それが見えない。

もちろん、今後の防災のありかたへの提言を行えるようにしたい、ということと、原発の是非を議論しなければならない、という意欲は、とても強く感じた。

だが、「社会学」が全体として何をしようとしているのか、本書を読んでも私にはうまくとらえることができなかったのである。

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そうした全体像への注文は置いておいて、各章すなわち各論はどうであろうか。

本書は三部構成になっている。

第一部と第三部が対になっていて、それぞれフィールドワーク(社会調査)を中心としたものと、社会(学)理論を中心としたものというように区分けされている。

そして第二部が、原発に焦点をあてている。

まず、第一部と第三部について、「序章」にある要約をもとに、その内容を概観する。

「広域システム災害と主体性への問い」(山下祐介)は、震災によって広域にわたって崩壊した「生活システム」を見直し、「システム」が暴走しないように生活者自らが主体的に統御すべきだと論じている。

ここでよく分からないのは「生活システム」(もしくは「広域システム」)である。

論者は当時、弘前にいた。

弘前は震災の度合いからすれば、それほどの被害を受けたわけではない。

しかし、にもかかわらず、さまざまな不都合が生活に起きた、ということを述べている。

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「地域コミュニティの虚と実」(吉原直樹)は、結局被災地においては「地域コミュニティ」は「あるけどなかった」という。

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「東日本大震災における市民の力と復興」(関嘉寛)は、震災ボランティアの課題をこれまでの経緯から分析する。

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「千年災禍の所有とコントロール」(金菱清)は、タイトルが分かりにくいが、「震災マイノリティ」が「リスクがありながらもその地域でなお暮らすための論理」(105ページ)を考えようとしている。

本論考にはかなり興味深い内容が含まれている。

まず、浸水した場所とそうでない場所というのが、神社や墓で見事に分かれたという。

「神社やお墓のある場所は安全地帯であるが、人びとが暮らしていた一帯はリスク地帯である。」(105ページ)

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第III部の三つの論考を概観する。

「リスク社会論の視点からみた東日本大震災」(正村俊之)は、日本社会の特性をしっかりと見極めて、それを今後の危機管理体制を構築するうえでいかす必要があると主張している。

日本の社会には、1)近代社会、2)特殊日本的社会、3)現代社会、という三つの位相があるという。

1)近代社会とは、言ってみれば、原発事故に対して、コストとリスクのバランスから対策を考えることである。

2)特殊日本社会とは、事前の防止策にばかり目を奪われて事後対応策を軽視してしまうことである。

3)現代社会とは、科学技術が人間の制御能力を超えるようになってしまい、そのために、わずかにシステムの一部で起こった異常事態に対しても連鎖的に全体に影響を及ぼすことになってしまっている。

3)については特に、政治家や官僚、東電、専門家、マスコミなど、どのように「語る」かが問われることとなった。

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「不透明な未来への不確実な対応の持続と増幅」(加藤眞義)は、放射能からの「避難」がもたらした混乱をふりかえり、そこに「子ども」「コミュニティ」という二つの重要な「シンボル」が、むしろ避難者にジレンマを与えてしまっていると指摘する。

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「「想定外」の社会学」(田中重好)は、ツナミを起点とした「想定外」の「連鎖」への注意が重要だと指摘し、「災害」ではなく「ハザード」にいかに対応するか(そして社会過程として)を考えようとする。

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・・・しかし、このように読んでみても、「社会学」がこうした知見を行政の次元で生かされるのか、東電などの事業体の次元で生かされるのか、市民の生活の知恵として生かされるのか、そうした落としどころがしっくりこない。

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それでは第II部「原発事故と原子力政策」はどうであろうか。

はじめは「福島原発震災の制度的・政策的欠陥」(舩橋晴俊)である。

原発事故の「社会的」(人為的)要因として、「原子力ムラ」と言われている「原子力複合体」の果たした役割に焦点を当てている。

論旨はきわめてシンプルで、これまで指摘されてきた技術的欠陥を原子力ムラが適当に対処し、安全性を損なうような作用をもたらしたというものである。

しかしこうした欠陥をなぜ防御できなかったのか。

端的に言えば、原子力ムラの「威力」が各方面で作動していたからである。

一言で「経済力と情報操作力と政治力」(141ページ)の相互関係によって、うやむやになっていたと考えているようだ。

しかもその原因を「日本社会の人間関係と主体性の質」に見ている。

本当だろうか?

この言い方は、つまり、日本社会の特性が、フクシマの悲劇を招いた、とみなしているということである。

いや、ある意味では、そういう説明も、何らかの「意味」があるのかもしれない。

しかし、「日本人だから」「日本社会だから」という説明は、あまり重要ではないと、私は思う。

しかもここで登場するのは、森有正の「私的二項関係」である。

これのどこが社会学的な成果なのだろうか????

中沢新一の「ユダヤ教=原子炉」みたいな「お伽噺」ではないのか?

こんなチープな結論で、事故が防げるのなら、やってみろ、と言いたくなってしまう。

これは、いただけない。

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次に「何が「デモのある社会」をつくるのか」(平林祐子)であるが、これは社会学的分析として、とてもおもしろかった。

私たちがよく分からない「デモ」のありさまを、手際よくまとめている。

これは確かに社会学的分析として、一定程度以上のものを示していると言える。

いろいろな団体が「主催」しているが、いずれも大半は既存の政治団体とはちょっとと違った感じで、いわゆる「市民活動」の延長線にある。

ネットで呼びかけ、その場で粛々とデモを行い、それ以上の強要が参加者にないところが、これまでのデモとの大きな違いである。

しかし正直言って、「デモ」論は、今後の社会活動論としては、きわめて重要な意味があると私も思うが、いったい「原発事故」を考えるうえで、本当に重要なのだろうか疑問に思う。

各論としては分かるが・・・

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そして最後に「フクシマは世界を救えるか」(長谷川公一)が登場する。

論旨は、ドイツのような脱原発社会への転換はいかに可能か、ということである。

これもまた、「原発事故」そのものへのアプローチではなく、それ以降の社会のあり方への議論である。

昨日のブログに書いたように、私はスウェーデンの事例をみて、そう簡単に、原発ゼロを実現できる、とは思えないのである。

とりわけ日本社会の「特質」を考えるのなら、まず、1)敗戦国、2)日米安保、3)エネルギー資源の少ない国、4)地震や津波の多い地形、といったような特性をふまえて議論すべきであろう。

そうであるならば、「フクシマは世界を救えるか」などといった仰々しい論題を示せすのではなく、「フクシマは日本社会を救えるか」の一点において議論すべきである。

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本書で多くとりあげられている論者は、ウールリヒ・ベックだった。

であるなら、いっそのこと、「リスク社会」論に絞込んでしまえばよかったようにも思える。

その他、社会学者(社会理論家)では、以下の人物が登場する(文献のみの登場も含む)。

クリフォード・ギアツ
アンソニー・ギデンス
ミシェル・フーコー
ニコラス・ルーマン
ジェームズ・ジャスパー
ナオミ・クライン
レベッカ・ソルニット

ここには、ハバーマスも登場しなければ、アガンベン、イリイチ、ゴルツ、デュピュイもいない。

古典としても、ウェーバー、マルクス、ジンメル、デュルケーム、モース、レヴィ=ストロースもいない。     

また、これは「日本社会学会」の責任ではないが、私たちが通常「社会学者」のことを思い出すとき、ここに書いている人物ではなく、たとえば、宮台真司や大沢真幸、上野千鶴子、小熊英二、開沼博あたりの名が挙がることと思う。

いや、なにも「名」のある人が登場しないのがおかしいと言っているのではない。

「日本社会学会」というものが、いかほどのものなのか、外部の人間にはよくわからず、少なくとも「社会学者」を名乗っている人で知っている名前がある以上、その関係を少しは問いたくなるというだけのことである。


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