*MEMO
昨日もずいぶんと当ブログを閲覧して下さった方が多かった。上位記事は以下。

1位 増補・核をめぐる言説 1995-1999
2位 ウィトゲンシュタインの原爆に関する「断章」
3位 原発を見に行こう 上坂冬子 を読む
    *ちなみに上坂冬子の本へのレビューは、以下もあり。
     ほんとうはどうなの?原子力問題のウソ・マコト 上坂冬子

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読んだ本

現在と未来――ユングの文明論
C・G・ユング
松代洋一編訳
平凡社ライブラリー
1996年11月

ひとこと感想
ユングにおける「水爆」に関する記述をピックアップしてみた。どうしてもユングというとオカルト系のイメージがつきまとうが、「影」理論は重要な指摘であり、「影」として「水爆」を考えることは、「原発」にも適用されるべきだと思う。

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バタイユの「ヒロシマ」観とウィトゲンシュタインの「原爆」観を、今週はまとめてみたが、続いて、ユングの「水爆」観を今日はみておきたい。先日「結合の神秘」を読み、どこかで言及されているのではないかと思い、探してみたら、やはり見つかった次第である。

本書は、松代洋一による編纂であり、以下の論考が収録されている。

 現代史に寄せて 1946年
  はじめに
  ヴォータン (1936年)
  破局のあとで (1945年6月)
  おわりに
 影との戦い 1946年11月
 インドの夢見る世界 1938年
 インドに教わること 1938年
 ヨーガと西洋 1936年
 現在と未来 1956年

このうちの「現在と未来」において、数ページではあるが、「原爆」に関する考察が展開されている。

まず、この論考にかぎらず、ユングの基本的な考え方を整理しておく。

ユングはフロイトと異なり、「心的病い」や「悪」を個人の内面に還元しない。

「人類」とか「文明」の無意識が個人に反映されていると考える。

したがって、ややオカルト風な説明が多く現れることもある。

また、神話や伝承、古代文明の図像などがよく引用される。

しかし、フロイトのような「性」に還元するような分析手法があまり適用されにくい子どもや分裂症の患者などにおいては、ユングの分析手法は効果的な場合がある。

さらに重要なのは、「主体」に基づいた分析ではないので、「悪」や「病」の「起源」を「主体」の外側に置いており、これは「影」と呼ばれており、本源的に「主体」を治療し「正常」な状態に戻す、ということではなく、誰もが「悪」や「病」となって現れる「影」をもっており、この「影」をもっていることは、避けがたいことだという点である。むしろこの「影」をどのように自覚し統御できるかが治療の一歩となる。

さて、こうした前提をふまえたうえで、以下の文章を読んでみよう。

「まさか近代の物理学が、人類の技術の奇怪な精華たる水爆を作るのに手を貸したからといって、その代表的な学者たちを、すべて犯罪者だと言い張る人はいないだろう。」(276ページ)

前述したように「水爆」を作った人間が「悪」である、という前提をユングはとらない。または「水爆」が「悪」であったとしても、それをつくった人間が必ずしも「悪」であると決めつけることはできない。

「核物理学の樹立にあたって動員された、おびただしい量の精神と精神労働は、この課題になみなみならぬ努力と犠牲を払って献身した人たちによって支えられている。」


ちょっと訳文がうまくないが、言いたいことは、核物理学は多くの人の努力と犠牲があって確立した、ということであろう。

「その人たちはしたがって、その道徳的な達成という点からいっても、人類に有益で役に立つ発明の創始者として、同様に貢献しているのである。」


「核物理学者である」ということだけで、「悪」ということはできず、「善」すなわち「人類に有益で役に立つ発明の創始者」という面ももつということをユングは強調する。

「たとえある重要な発明に際してのいわば第一歩が、意識的な意思決定にあるとしても、ここではまた他の例にもれず自然発生的な着想が、つまり直観が、重要な役割を果たしている。」

この場合「意識的な意思決定」に対して「直観」が対置されており、「意識」に先立つものが発明においても大きな意味をもつとユングは説明する。

「換言すれば無意識が、ともに働いていて、ときに決定的な寄与をなしているのである。」

ユングは「意識」よりも「無意識」の重要性を強調する。

「したがってその結果に責任があるのは、意識の努力ばかりではない。」

主体が何かを考えたり、行ったりすることにおいては、本人の「意識」だけに還元できない。それは「責任」を問う場合にいても、同様である。

「どこかある一点で、無意識もまた、その見究めがたい目的と意図をもって介入している。」

この訳文も若干わかりにくいが、端的に、意識のみならず無意識が関与している、という内容であろう。

「真理の認識は科学の第一の目標である。しかし光へ向かう衝迫を追っていくうちに、巨大な危険が口を開けると、人はそれが予期どおりのこととは思わず、不快な宿命のような印象を持つ。」

これは婉曲的な説明で、ユングの勿体ぶった説明であるが、科学というものの両義性を語っている。科学は良い部分もあれば悪い部分もあるのである。

「だが、今日の人間が、たとえば古代人や未開人よりも、はなはだしい悪意を持ちうるというわけではない。」

逆に言えば、現代人だからといって善意に充ちているわけでもない。現代人であれ古代人であれ、基本的に人間はそう変わらないのである。

「現代人はただ、その悪を実現するうえで、比べるもののないくらい強力な手段を持っているだけである。」

古代人と現代人の違いは、その性質や道徳的な特性にあるのではなく、ただ、科学技術による大きな力を放つ「手段」を持っている点にある、とユングは考える。

「現代人の意識が、かくも拡大し分化している一方、その道徳性はそれだけ後に取り残されている。これがわれわれに迫っている大きな問題にほかならない。理性だけでは不十分なのである。」(276-277ページ)

「意識」は現代人においては「拡大」「分化」しているが、「道徳性」はそれと平行ではなく、置き去りにされているという。「意識」と「道徳性」の違いがよく分からないが、端的に、「意識」のうえではさまざまな理解や了解があるとしても、必ずしもそれだけで人間が進化するわけではない、ということであろう。

ここで、改行されて、次の文章が登場する。

「核分裂実験のような、恐ろしい影響を及ぼす実験を、危険を理由にやめるのは、理性の支配範囲であるだろう。」(277ページ)

ここの「であるだろう」は、決して「意志」ではなく、反語的なニュアンスではなかろうか。「理性」もしくは「意識」のうえで、科学の「負」の効果について抑制しようとすることは可能であろうか(いや、ないかもしれない)。

「だが、人が自分の胸のうちに見ず、他人に何層倍にもして押しつけている悪を前にすると、不安のあまり向うでもこちらでも理性を働かせまいとする。」

結局私たちはこうした科学の負の効果について、それを「理性」や「意識」において検討するのではなく、「理性」を失って、その「悪」にたじろぐばかりになってしまうということだろうか。

「この兵器の使用が、現在の人間世界の終焉を意味するかもしれないと、知っているにもかかわらず。」

バタイユやウィトゲンシュタインは、決して核兵器が「世界の終焉」をもたらすと考えてはならない、としたのに対してユングは、逆に、人間がこの問題を「理性」だけで判断するのであれば、確実に、解決できると想定していることになる。

「全面的な破壊への恐れが、最悪の事態を招くことだけは避けているものの、その可能性はわれわれの頭上に、黒い雲となってかかっている。それは、魂の分裂と世界政治の分裂とをふさぐような橋が架けられるまで晴れることはあるまい。」


「魂の分裂と世界政治の分裂」とは、言わずもがな、当時においては、米国を代表とする資本主義陣営とソ連を代表とする社会主義陣営との「分裂」ということなのであろう。しかし今私たちは、この「分裂」なき世界を生きているが、決して事態は変わっているわけではない。これは、また異なる「分裂」がまだまだこの世にあるからなのであろうか。

「その橋は水爆同様に、確実なものでなくてはならない。あらゆる対立や分裂にあって、分け隔てるものは人の心にあるという、一般の自覚が成立するならば、実際にどこから手をつけたらいいかが、わかるだろう。」


分からない! ユングのこの楽観的な記述は一体どこからやってくるのだろう。おそらくこの「橋」という比喩は、俗に言う「世界政府」のようなものを想定しているのかもしれないが、やや現実味のない内容である。

「だが、個人の魂の、それ自体は取るにたりぬ、卑小な個人的な動きが、これまでどおり意識されず、知られずにいたならば、それはおのずから積み重なって量り知れない大きさになり、権力集団や群衆運動をかもし出すだろう。それらは理性の制御を免れており、誰が操作しても良い結果にもっていくことはできない。そうしようと努力したところで、鏡に向かって剣を振るうにひとしい。剣士自身が誰よりも錯覚にとり憑かれているのである。」(277-278ページ)

・・・と後半は次第に意味不明になってくる。だが、このあたりの見解はもしかするとウィトゲンシュタインの悲観的認識と近いのかもしれない。つまり、乗り越えるべき、解決するべき対象を誤ったまま、やみくもに行動することは自滅することに近い、ということのように思われる。

やや息切れのような文章になってしまったが、総じてこれを「影」理論として読むことが重要である。

原水爆や原発も「影」であり、自己の無意識であり、文明の無意識である。

これを無造作に「除去」「排除」「廃棄」することは、むしろ自分たちを傷つけることにもなる。

このあとのユングの文章にあるように「自己認識」として「影」を受け入れるところから、議論を開始すべきであると私は考える。


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