9月11日。

ちょうど、この1年半前の3.11、そして、もっと遡って、11年前の2001年の9.11、このふたつの「11」のことを思い出さざるをえない。

そして同時に、私は、1945年に広島、長崎で起こった出来事、さらには、それより少し前にヨーロッパで起こった出来事、この四つの出来事を、思い出しつつ、書かざるをえない。

出発点は、ホロコースト、ショアー、ジェノサイド、さまざまな言い換えによって呼ばれている、あの出来事、である。

アウシュヴィッツとは、ヒロシマ(ナガサキ)とは、一体、何だったのか。この問いを手がかりにしつつ、そこにフクシマを重ねるときに、何が見えてくるか、とりわけ、米国で起こった同時多発テロとは何だったのか、これらを多層的に考えてみたい。

アウシュヴィッツは、いかにして、可能となったのか。そして、ヒロシマは、いかにして、可能となったのか。

第一に、これは、確実に科学技術力において、可能となった、ということができる。


ヒトラーによるユダヤ人に対する蛮行には、
ヨーロッパに張りめぐらされた鉄道網とツウィクロンBが、米軍による日本の2カ所の地方都市への攻撃には、B-29と原子爆弾が、不可欠だった。

しかし、それだけではない。


ここに、科学的なテクノロジーだけではなく、政治経済的なテクノロジー(もしくは権力テクノロジー)も加わらねばならない。


正常なものと異常なものを区分し、異常なものを1カ所にまとめ監視し矯正をはかる近代の監獄や学校、病院、兵舎といった空間を構成する手法、


生物種として「人間」を規定し、同じ種の「人間」を各地より集め、効率よく殺戮したナチスの手法、


戦争を終わらせるためという理由で、核分裂反応を利用した爆弾を投下し、戦闘員か非戦闘員かの区別なく、「無差別に=均等に」その一帯を破壊する手法、


これらは、まったくもって、同じテクノロジーなのである。


フクシマも同様である。


高度な力でお湯を沸かす施設と、それを間接的に監視・管理する装置が不可欠で、あった。


そして、安全でクリーンなエネルギーを生み出し、しかも地元の活性化に役立つということで設置されたものの、シビアアクシデントの事態を想定しておらず、事故が発生すると、避難区域や危険区域を生み出し何十年ものあいだそこで生活できなくなるような施設を運営する手法であった。


こうした事態を、
フーコーは、「セクシュアリテの歴史」の第1巻第5章で、「ビオ・プヴォワール」と呼び、「生きさせておくか死の中へと排除する権力」とみなしている。


・生きさせておく
・死の中へと排除する


この「生きさせておく」か「死の中へと排除する」の、いずれか一方だけではないところが、この権力の重要なところである。


そして、この権力は、アウシュヴィッツ、ヒロシマ、フクシマというある出来事、ある記憶、ある場所に極限されて行使されたのではなく、くまなく私たちの「生」に対して行使されており、私たちは、終始、この選択肢の前に立たされているのである。フーコーは言う。


「核兵器下の状況は、今日、このプロセスの到達点に位する。一つの国民全員を死にさらすという権力は、もう一つの国民に生存し続けることを保証する権力の裏側に他ならない。」(「性の歴史」第1巻、174ページ)


要するに、自分たちが「ビオ・プヴォワール」を基盤においた世界で生き続けようとするならば、第一に、「敵対国」(もしくは敵対化させた人種や民族)をジェノサイド可能であるという力をもたねばならない、ということである。


もしくは、自分たちをジェノサイドの対象とされたくなければ、
「ビオ・プヴォワール」の統治下において生かし続けられる道を選べ、ということである。


人々は、知らぬ間にこの選択肢の前に立たされ、否応なく「生かされる」ことになる。


「核抑止力」は、同時に、こうした私たちの生存の仕方にも影響し、一般的には「自由」と呼ばれるものにたいする、大きな抑止力となっている。


この選択肢が、もっとも鮮明に、そしてむしろその境界線がもっともあいまいになったのが、原発事故である。


今までも、これからも、放射能の影響が不可視であることは変わらないが、事故のあと、この「ビオ・プヴォワール」というものが、私たちの生や社会に張りめぐらされていたことを、私たちははっきりと可知化したのだ。



ところで、話は少し、遡る。
19世紀初頭を生きたドイツの哲学者ヘーゲルは、ここで言うビオ・プヴォワールとは少々、別のものを描いている。


有名な「主と奴の弁証法」である。


ヘーゲルの場合、「主」は、「奴」を殺そうと思えばいつでも殺せる。「奴」を完全に支配している。しかし「奴」を殺すことは「延期」したうえで、生かしたままにしておく。生きさせたままにしておくことにより、自分を「主」と承認する「対象」を獲得できる。


つまり、自分が「主」であり続けるためには、「主」は、「奴」を生かすことが必要なのである。


ここには、奇妙な転倒が発生している。


「主」はすでに「主」として自立しているのではなく、「奴」があってはじめて「主」でいられることになってしまう。


「奴」なくしては、「奴」の承認なくしては、「主」たりえない。


このとき、「奴」の側では、自らを縛りつける「主」よりも上位に立とうとさまざまな努力を行い、立場の逆転を狙っている。


つまり、主と奴は、相互転換が可能なのである。


むしろこの相互転換の可能性が、人類の歴史をつくってきたとヘーゲルはみなす。


そして、これはマルクスに継承され「階級闘争」という考えを生むに至る。

フーコーはこれを「君主はそこでは生に対するその権利を、ただ殺す権利を機能させることによって行使するか、あるいはそれを控えるかである」(172ページ)として、自殺こそが、こうした君主の権利を奪うものだと位置づけている。


とりわけ、マルクスの時代には、すでにベンサムのパノプティコン(一望監視装置)は草案されていたわけであるが、マルクスの目は、むしろ、旧来のもののように見えたこの「主と奴の弁証法」が、新たに社会的に生み出されつつあった、資本家と労働者の対立という現実のほうに向いた。


これが初期資本主義社会における本質的社会問題であると考えたから、マルクスは、階級闘争を、自らの理論と実践の主題としたのであろう。


しかしその後、着実に、パノプティコンは社会を覆いはじめ、世界各地に行き渡ってゆく。これは単に「施設」の問題ではなく、科学技術の活用と統治手法の活用があってはじめて実現したことであった。


そのなかで、階級闘争としての「主と奴の弁証法」もしくは「階級闘争」は消滅したわけではないが、多層的に、ビオ・プヴォワールが浸透していったと言える。


現在も、「格差社会」と言われているように、「階級社会」ではない。


この「格差社会」という言葉には、おそらく、二つの意味が隠されている、と考えられる。


第一に、「階級」というほどの格差ではないと思っていること、第二に、たとえ「富裕層」であれ、「貧困層」であれ、今や、本質的には「対立」しているのではなく、つまり、「主と奴の弁証法」的関係ではなく、いずれも、「核兵器」や「原発事故」のような「統治性」のなかで、「生きたままにさせられている」にすぎない、と考えられているからである。


話を戻そう。


遠回りになったが、アウシュヴィッツ、ヒロシマ、フクシマは、ビオ・プヴォワールというフーコーの概念によって、ある共通点をもつ事象としてとらえることができるようになった。


そして、それだけでなく、なぜ、かくもこれらの出来事が、私たちの心を揺さぶるのかといえば、私たち一人ひとりの「生」というもの、そして、その全体性としての「社会」(=人口)というものが、これらの出来事と同じ原理で機能しているからであることが、明らかにされた。



では、ニューヨーク多発テロ事件は、一体何であったのだろうか。


確かに、そこには、科学技術の結果としての、大型旅客機や高層ビル、そして瞬時に世界中に映像を配信できる通信衛星やテレビ受像機などが、かかわっている。


しかし、政治経済的なテクノロジーとしては、どうだろうか。


逆説的であるが、ビオ・プヴォワールの特性は、不可視性にあるが、同時に、可視的でもある。


アウシュヴィッツは、多くの証拠が隠滅されたが、どうしても消しがたいものが数多く残された。それらは主に写真でも見られるが、その全体像はとても可視化しうるものではない。何よりもヒトラーという一人の人物だけにこの全容の責任を負わせることができない。SSだけでも、軍隊だけでも、ドイツ人だけでもない。協力したポーランド人もいる。それゆえ、クロード・ランズマンの「ショアー」のような映画作品が、もっともその出来事に肉薄することになる。


ヒロシマの場合、キノコ雲、損壊した建物、変わり果てた姿の被害者といった可視的なものは多々あるが、その被害の全体像は、可視化が困難である。言い方を代えれば、想像するのが困難である。B29や原爆そのものは、あくまでもこの出来事の象徴であるし、原爆を生みだした科学者や技術者、投下したパイロット、命令を下した米大統領でさえも、ある一部を構成するにすぎない。


フクシマにおいてはさらに、この不可視性が拡張される。可視的な地震や津波の被害と対照的に、建屋の水素爆発をのぞけば、大部分は、測定された数値において、私たちはその「危険性」を察知し、避難したり、食品を選択したり、日常に怯えることになる。そこには、ほとんど可視性がない。放射能に対する症状さえ、あいまいである。


ニューヨークを襲った同時多発テロはどうであろうか。


可視的にみえる、それもそのはずである。まるで、ハリウッド映画の一シーンのように、旅客機がビルに衝突し、そのビルが崩れ落ちていったのだから。


では、9.11だけ、この系列に含まれないのであろうか。


いや、そんなことはない。私は当時書いた。この「テロ」が見せたのは、目の前のショッキングな映像だけではなく、私たちの日常とは、こうした出来事に連結しうる他者とともにある、ということ、である。


ボードリヤールも指摘しているように、このテロは、戦場において起こるのではなく、私たちの「日常」において、突発的に起こるものなのであり、それゆえに彼は「透きとおった」悪、と呼んだ。


このことをもって、不可視性と言えるのではないだろうか。



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おまけ

かつて、数人の仲間と一緒に「最後のフーコー」という本を訳した。

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バーナウアーとはその後ボストンで一度だけお会いした。とても慎み深く、穏やかな人だった。


しかし、彼の研究テーマは、フーコー、アレント、ファシズム、ホロコーストである。
  


人間は、なぜ、ファシズムやホロコーストのようなことができてしまうのか。

なぜ、集団(国家)において、無差別に多くの人びとを殺戮することが可能なのか。
  


彼の問いは、彼の佇まいとは裏腹に、強烈なものであった。
  


しかし同時に、「最後のフーコー」に収められている彼の論考も、一見、それほど強烈なものではない。直情的に、何かを非難しているのではなく、問題を見極めようと、ていねいにテキストを読解することを心がける、それが、彼の流儀だ。
  


バーナウアーは、1989年にフーコーセンター主催、フランソワ・エヴァルトの呼びかけで行われた研究会議Michel Foucault philosopheに参加した際に、「生死の彼岸――フーコーによるポスト・アウシュヴィッツの倫理について」というテーマで発表を行った。
  


おそらく、バーナウアーが言いたいことは、今日書いたブログとそのタイトルにすべてこめられていると思う。