読んだ本
たたかう映画――ドキュメンタリストの昭和史
亀井文夫
岩波新書
1989年8月

ひとことコメント

本書は、20世紀に日本を代表するドキュメンタリー映画監督である亀井文夫があちこちに書いた文章を、谷川義雄が編集、構成したものである。
原爆被害者の現状を伝えようとする「生きていてよかった」を代表作とする亀井の仕事の軌跡をたどることができる一冊。


亀井文夫は、1908年福島の当時は相馬郡原ノ町で生まれた。彼の父はこの地の町長で1911年から1917年までの任期であったという。

現在この場所は、南相馬市原町区となっている。

2011年3月11日
南相馬市原町区では、震度5弱の地震が起こり、海に近いところはその後にやってきた津波で大きな被害を受けた。もちろん放射能汚染度も高く、今でも年間10ミリシーベルトに至るところもある。

ただし亀井自身は1915年には仙台に引っ越しているので、どこまでこの地に思い入れがあったかは分からない。だが、もし彼が当時現役で生存していたならば、カメラマンと一緒にまっさきに駆けつけ、映像を撮り続けたのではないかと想像される。

亀井一家は、みな、カトリックであった。

その後東京に移住。亀井は絵を勉強するために文化学院に入るが、翌年には、モスクワに向かう道すがらウラジオストクで見た映画に感銘を受け、レニングラードで映画秘術専門学校の聴講生となる。

ここで彼は、社会への批判精神を具えた「記録映画」をつくろうと決意する。

しかし留学3年目にして肺結核を患い帰国。2年ほど療養した後、縁あって映画の製作に携わりはじめる。

彼の第一回監督作品は、1935年、「姿なき姿」というタイトルで、東京電燈という会社のPR映画だった。

「電気というものがどのように伝わるか、それを守るための労働者の苦労といったことがテーマだった。」(21ページ)

「PR」映画と言えば、まったくの提灯持ちだと思われるかもしれないが、亀井はたえず衝突しながら作品をつくりあげいていた。

戦後になって「ゴジラ」や「生きものたちの記録」といった映画を世に放った東宝が1937年に設立され、亀井は東宝文化映画部演出課に所属した。

ここで海軍PR映画「怒涛を蹴って」(1937年)の監督をする。そして「上海」「北京」(1938年)と作品をつくるが、たとえばドイツではリーフェンシュタールがナチ映画「意志の勝利」(1935年)を華々しく作りあげ、戦意高揚に映画が用いられるのは当然の時代であるにもかかわらず、全く正反対に、ソヴィエト仕込みなのだろうか、冷静なまなざしで、ドキュメンタリー映画をつくっていたのだった。

ところで先週、私は「崇高」について当ブログで書いたが、こんな文章がある。上映禁止となった「戦う兵隊」の説明のところである。

「これは考えてみれば大変むごいことだが、これもすべて自分のためではない、すべて大君のためにやっているのだ、崇高なことを自分はやっているのだ、という自己暗示をかけながら兵隊はやっている。しかしその自己暗示が現地で個人として生活していると、しょっちゅう崩れて人間がでてくる。」(51ページ)

「崇高」を考えるときに必ずついてまわるのは、こういった葛藤であろう。

亀井は、1941年、治安維持法違反の疑いで検挙される。ソ連で映画を学んできたことが、ソヴィエト共産党の命を受けて日本で活動している人間という疑いだった。

そんな彼に、逆説的だが、戦後GHQ占領下では、GHQから「日本の悲劇」という映画の制作を依頼される。戦時中のニュースを編集したもので、検閲も通って1946年に地方から公開されたが、のちに再検閲を受け許可が取り消され、フィルムはすべて没収された。

そのあと労働争議に参加。亀井は共産党員であったようで、勧誘にも勤しんでいたと記されている。

そして第一回原水爆禁止世界大会において、被曝者の救護運動の一環として映画制作「生きていてよかった」(3部構成)が企画され、亀井が監督し、翌年1956年に公開される。

「生きていてよかった」は、三木茂らが撮った「原子爆弾の効果――広島・長崎」(1946年)はGHQに没収される際に一部を秘匿していた。それを挿入しつつ、被爆者の生活実態を生々しく伝える作品。

亀井の原爆に対する考えは、こうである。

「しかし、原爆というものは、それまでの生活体験や概念にはないものだから、こういった方法で訴えるには限界があるのではないか。リアリズムではとらえきれらない、記録映画作家が具体的に提示できる限界を超えたものではなかったのか。」(153ページ)

「人間がこれまで知っているエネルギーの概念ではわからない、もう一つ高い熱エネルギーが働いている。そういうものを表現するには、これまでの芸術の手法やテクニックでは追いつかないような気がした。ともかく、ぼくが広島や長崎を見て考えたことは、原爆や水爆を使ってまで守らなければならないようなものが、いったいこの世にあるのだろうかということであった。」(153-154ページ)

続いて、「世界は恐怖する」(1957年)を発表。ちょうど東海村では、国内で最初の原子炉が臨海に達した年である。世間では明らかに「文明の進歩」を象徴する出来事として歓迎ムードに包まれていた。

このことからも、国内での原爆の被害がむしろ、原子力や放射能に対する冷静なとりくみを阻害し、「原爆」と「原発」はまったく別物として、扱われてしまったのではないかという疑いがもたれる。つまり、都合のよいところだけを活用し、悪いところは外部の責任として押し付けるような、問題そのものを内在的に思考しえない、戦後のよじれた国民体質が見え隠れする。

こちらは、「生きていてよかった」とは毛色がかなり異なる。タイトルや宣伝がかなり煽情的であり、内容も映像でなんとか原爆の恐怖を伝えようとするものであるが、内容については、できうるかぎり科学的な描写や根拠を示そうとする努力をしていもいる(この作品についてはまたあらたえて論じる)。

「政治家は自分の国の幸福だけを考える。国境の中だけにたてこもって、すべてを解決しようとする。だが死の灰は、国境をこえてあらゆる土地に降りそそぎ、人類すべてをゆり動かす恐怖である。こういう世界的な問題と取り組むためには、国境をこえた人道主義、ヒューマニズムをもつことが第一だ。…現在直接自分の生活に被害はない、未来の恐怖である。すぐに政治の利害と結びつかない100年先の破局である。そこで、口には原水爆反対を言いながら、ついついゴルフに熱中してしまう、というのが現実だ。」(174ページ)

この文章が書かれた月日は不明であるが、すくなくとも「原発」の存在は知らなかったはずはないと思うが、問題はやはり「原水爆」にのみ集中しており、「原発」には向かっていない。

これほどまでに「放射能」の恐怖を訴える作品を制作しているにもかかわらず、亀井は、その恐怖を実際に引き起こすものとして、原発は想定していなかった。

武谷三男をはじめ多くの科学者がこの映画の制作に協力しているが、それがかえって原子力の「平和的利用」は厳重に管理しているので安全、という考えを亀井もとったのではないかと想像される。

それとも彼がもう少し長く生きて映画監督を続けていたら、原発の問題にも取り組んだのだろうか。


原爆関連の映画作品史(亀井文夫まで)
1946年 原子爆弾の効果――広島・長崎 三木茂:制作
1952年 朝日ニュース363号「原爆特集」
1952年 原爆の長崎 短編記録映画
1952年 原爆の子 新藤兼人:監督 
1953年 ひろしま 関川秀雄:監督
1955年 生きものの記録 黒澤明:監督
1956年 生きていてよかった 亀井文夫:監督
1957年 世界は恐怖する
 亀井文夫:監督


参照文献
フィオードロワ・アナスタシア「リアリズムとアヴァンギャルドの狭間で――亀井文夫監督の被爆者ドキュメンタリー『生きていてよかった』


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