読もうとしている本
災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか
レベッカ・ソルイット
高月園子訳
亜紀書房
2010年12月
原題は、A Paradise Built in Hell: The Extraordinary Communities That Arise in Disaster, by Rebecca Solnit, 2009
今日は本書を読む前に、『現代思想』(2011年7月臨時増刊号)で本書が言及されている箇所をダイジェストしておきたい。
大澤真幸
「たいへん参考になった」(28ページ)として4冊のうちの1冊としてとりあげた。
美馬達哉
1)「災害時のコミュニティのすばらしさをある種の寓話として強調」(51ページ)するのは「戦略的」であり、マイノリティや被差別民への社会制度によるレスキューを可能にするというプラスの点があると指摘する。
2)「エリートパニック」という概念が提示されている。災害時にパニックを起こすのは民衆ではなくエリートであり、それによって混乱が起こるとしたもの。
市野川容孝
「災害時におきて人びとは、エリートが想定するようなパニックには陥らず、互いに互いを積極的に気づかうということを、いくつかの事例に即して描いているが、それは、言いかえるなら、安全性の装置が封じ込めてきた人びとのケアの力が、安全性の装置の破綻によって、逆に解き放たれ、可視化されるということだろう。」(144ページ)
中倉智徳
「(未読なので思い込みかもしれない)、相互扶助敵の共同体が自生的な出現と、それによる物資の配分や共働の実現は、今回の震災においてもたしかに無数にみることが出来たように思われるのである。」(189ページ)
* * * *
「災害ユートピア」は、次のような構成になっている。
プロローグ――地獄へようこそ
第1章 ミレニアムの友情:サンフランシスコ地震
第2章 ハリファックスからハリウッドへ――大論争
第3章 カーニバルと革命――メキシコシティ大地震
第4章 変貌した都市:悲嘆と栄光のニューヨーク
第5章 ニューオリンズ――コモングラウンドと殺人者
エピローグ――廃墟の中の通り道
つまり本書で探られているのは、以下5つの災害である。
1906年 サンフランシスコ地震
1917年 ハリファックス(カナダ)の大爆発事故
1985年 メキシコシティ大地震
2001年 アメリカ同時多発テロ事件
2005年 ニューオリンズのハリケーンと大洪水
しかし、むしろ本書がとりあげていない「アジア」の近年の自然災害の方が、もっと気になる。ちょっと年表で確認しよう。
2004年 インド洋の大津波
2004年 日本(中越)の地震
2004年 スマトラの地震
2005年 パキスタンの地震
2006年 インドネシアの地震
2007年 日本(中越)の地震
2008年 中国の地震
2008年 ミャンマーの台風による大水害
2010年 チリの地震
2010年 ハイチの地震
2011年 ニュージーランドの地震
2011年 日本(東北)の地震
こうやってみてみると、ほぼ毎年のように巨大な災害が起こっている。そして、これからも続くのであろうか。。。
* * * *
著者は、災害に発生する奇跡的な相互扶助の世界を妨げるものとして、
1)エリート
2)マスコミ
を挙げている。
そしてむしろ、何も持たない、金銭を媒介しない、普通の市民が、この「災害ユートピア」を生みだすと考えている。
しかも著者は、こうした災害に発生するパラダイスに、20世紀に失敗した社会構想の夢を託す。
確かに、これまで20世紀の社会主義革命など「革命」という形をとって、社会を変えようとするのが常だったが、それでは、「政府を完全に作り変えることはできても、人間の本質を一撃で変えることはできない」(37ページ)ので、失敗を繰り返してきた。
そこで著者が注目したのが、「見過ごされてはいるものの、強制されたのでも反体制文化でもない、あちらこちらに出現する束の間のユートピア」(39ページ)であった。
この「災害ユートピア」については、具体的な記述と評論的な考察が交互に行われ、興味深いが、それらについてここで言及することは避けたいと思う。
一つだけ、この本から読み解きたいことがある。
それは、原発事故においても、災害ユートピアは立ち上がっただろうか?、ということである。
本書では、スリーマイルとチェルノブイリの例が提示されている。
スリーマイル島については、15万人の避難においては自主的であったにもかかわらず、整然としていたという。パニックになっていたのはエリートの方で、声明としては知事が女性と子どもの避難を指示したが、住民がパニックにならないようにと考えて原子炉のメルトダウンは伏せられた。つまり、スリーマイル事故において、市民たちはパニックにならずに、助け合い、良い形で避難を行ったようである。しかし残念ながらここでは、それ以上掘り下げた考察はない。
また、チェルノブイリについては、「同事故が大惨事となった原因の一部が、当時のソ連の体制に慣習的だった秘密主義や、無責任で無力で冷淡な統治にあり、それが何百万人もの人々の命を危険にさらすことになったのだ。」(217ページ)と述べ、「エリート・パニック」によって「災害ユートピア」が立ち上がらなかったような書き方をしている。
チェルノブイリでは、災害ユートピアは、生まれなかったのだろうか。
本書ではこのあと、災害が革命と深い関係にあるという説明に入ってしまい、そのことについては追及されずに終わっている。
私たちの体験からみて、どうであろうか。
厳密には、震災、洪水と重なり合っているので、正確には言えないかもしれないが、おそらく、こうであろう。
(狭義における)原発事故においては、災害ユートピアは、立ち上がらない。
なぜならば、私たちができること、しようとすること、そのすべてを放射能汚染は奪ってしまうからだ。
数値が分からないと何もできない。住むことも、食べることも、飲むことも、耕すことも。
こんな状態では、どうすることもできない。
著者の言う「災害ユートピア」は、おそらく、個人の所有に基づいた社会が崩壊すると、所有物は自然に分有されるようになる、ということであって、カタストロフィーがあれば必ず同じような状態になる、ということではないのではないだろうか。
ちょっと今日は時間切れなので、本書の考察は、もう一度行いたい。その際には、本書でとりあげられている、ウィリアム・ジェイムズ、ならびに、クロポトキンの思想、そして、もうひとつ、パニック映画についての論評などについてもふれてみtたい。
災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか
レベッカ・ソルイット
高月園子訳
亜紀書房
2010年12月
原題は、A Paradise Built in Hell: The Extraordinary Communities That Arise in Disaster, by Rebecca Solnit, 2009
今日は本書を読む前に、『現代思想』(2011年7月臨時増刊号)で本書が言及されている箇所をダイジェストしておきたい。
大澤真幸
「たいへん参考になった」(28ページ)として4冊のうちの1冊としてとりあげた。
美馬達哉
1)「災害時のコミュニティのすばらしさをある種の寓話として強調」(51ページ)するのは「戦略的」であり、マイノリティや被差別民への社会制度によるレスキューを可能にするというプラスの点があると指摘する。
2)「エリートパニック」という概念が提示されている。災害時にパニックを起こすのは民衆ではなくエリートであり、それによって混乱が起こるとしたもの。
市野川容孝
「災害時におきて人びとは、エリートが想定するようなパニックには陥らず、互いに互いを積極的に気づかうということを、いくつかの事例に即して描いているが、それは、言いかえるなら、安全性の装置が封じ込めてきた人びとのケアの力が、安全性の装置の破綻によって、逆に解き放たれ、可視化されるということだろう。」(144ページ)
中倉智徳
「(未読なので思い込みかもしれない)、相互扶助敵の共同体が自生的な出現と、それによる物資の配分や共働の実現は、今回の震災においてもたしかに無数にみることが出来たように思われるのである。」(189ページ)
* * * *
「災害ユートピア」は、次のような構成になっている。
プロローグ――地獄へようこそ
第1章 ミレニアムの友情:サンフランシスコ地震
第2章 ハリファックスからハリウッドへ――大論争
第3章 カーニバルと革命――メキシコシティ大地震
第4章 変貌した都市:悲嘆と栄光のニューヨーク
第5章 ニューオリンズ――コモングラウンドと殺人者
エピローグ――廃墟の中の通り道
つまり本書で探られているのは、以下5つの災害である。
1906年 サンフランシスコ地震
1917年 ハリファックス(カナダ)の大爆発事故
1985年 メキシコシティ大地震
2001年 アメリカ同時多発テロ事件
2005年 ニューオリンズのハリケーンと大洪水
しかし、むしろ本書がとりあげていない「アジア」の近年の自然災害の方が、もっと気になる。ちょっと年表で確認しよう。
2004年 インド洋の大津波
2004年 日本(中越)の地震
2004年 スマトラの地震
2005年 パキスタンの地震
2006年 インドネシアの地震
2007年 日本(中越)の地震
2008年 中国の地震
2008年 ミャンマーの台風による大水害
2010年 チリの地震
2010年 ハイチの地震
2011年 ニュージーランドの地震
2011年 日本(東北)の地震
こうやってみてみると、ほぼ毎年のように巨大な災害が起こっている。そして、これからも続くのであろうか。。。
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著者は、災害に発生する奇跡的な相互扶助の世界を妨げるものとして、
1)エリート
2)マスコミ
を挙げている。
そしてむしろ、何も持たない、金銭を媒介しない、普通の市民が、この「災害ユートピア」を生みだすと考えている。
しかも著者は、こうした災害に発生するパラダイスに、20世紀に失敗した社会構想の夢を託す。
確かに、これまで20世紀の社会主義革命など「革命」という形をとって、社会を変えようとするのが常だったが、それでは、「政府を完全に作り変えることはできても、人間の本質を一撃で変えることはできない」(37ページ)ので、失敗を繰り返してきた。
そこで著者が注目したのが、「見過ごされてはいるものの、強制されたのでも反体制文化でもない、あちらこちらに出現する束の間のユートピア」(39ページ)であった。
この「災害ユートピア」については、具体的な記述と評論的な考察が交互に行われ、興味深いが、それらについてここで言及することは避けたいと思う。
一つだけ、この本から読み解きたいことがある。
それは、原発事故においても、災害ユートピアは立ち上がっただろうか?、ということである。
本書では、スリーマイルとチェルノブイリの例が提示されている。
スリーマイル島については、15万人の避難においては自主的であったにもかかわらず、整然としていたという。パニックになっていたのはエリートの方で、声明としては知事が女性と子どもの避難を指示したが、住民がパニックにならないようにと考えて原子炉のメルトダウンは伏せられた。つまり、スリーマイル事故において、市民たちはパニックにならずに、助け合い、良い形で避難を行ったようである。しかし残念ながらここでは、それ以上掘り下げた考察はない。
また、チェルノブイリについては、「同事故が大惨事となった原因の一部が、当時のソ連の体制に慣習的だった秘密主義や、無責任で無力で冷淡な統治にあり、それが何百万人もの人々の命を危険にさらすことになったのだ。」(217ページ)と述べ、「エリート・パニック」によって「災害ユートピア」が立ち上がらなかったような書き方をしている。
チェルノブイリでは、災害ユートピアは、生まれなかったのだろうか。
本書ではこのあと、災害が革命と深い関係にあるという説明に入ってしまい、そのことについては追及されずに終わっている。
私たちの体験からみて、どうであろうか。
厳密には、震災、洪水と重なり合っているので、正確には言えないかもしれないが、おそらく、こうであろう。
(狭義における)原発事故においては、災害ユートピアは、立ち上がらない。
なぜならば、私たちができること、しようとすること、そのすべてを放射能汚染は奪ってしまうからだ。
数値が分からないと何もできない。住むことも、食べることも、飲むことも、耕すことも。
こんな状態では、どうすることもできない。
著者の言う「災害ユートピア」は、おそらく、個人の所有に基づいた社会が崩壊すると、所有物は自然に分有されるようになる、ということであって、カタストロフィーがあれば必ず同じような状態になる、ということではないのではないだろうか。
ちょっと今日は時間切れなので、本書の考察は、もう一度行いたい。その際には、本書でとりあげられている、ウィリアム・ジェイムズ、ならびに、クロポトキンの思想、そして、もうひとつ、パニック映画についての論評などについてもふれてみtたい。
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