読んだ本
時代の証言 原子力科学者の昭和史
伏見康治
同文書院
1989年12月

前半は、純粋な研究遍歴のような感じ、また関係者の思い出話。中盤は、戦時中の体験、そして後半は、原子力をめぐる政治的な話。

伏見は、絵心もあり、文章も書き、物理学のみならず、数学(確率論)、生物学(解剖学)などにも若いうちから興味を持っていた、オールマイティな人物だった。しかも、日本学術会議において原子力研究の推進を提言したり、後には参議院議員になったりと、政治の分野においても精力的に活動を行った。

歴史上の立場としては、彼は、「原子力」を政治的に推進する橋渡し役であったとされ、特に、武谷三男や坂田昌一との対立構図が描かれるが、まさしくこうしたとらえ方は紋切り型であって、現実はもっと複雑である。以下、気になる箇所をまとめておき、伏見の「複雑」な動向を理解する手助けとしたい。


子どもの頃は病弱であったようだが、好奇心、探究心にすぐれ、東大物理学教室に入った。同期の渡辺慧との友情はその後長らく続くことになる。1932年において東大物理学教室には、木下季吉による「放射能作学」という講座があり、「現代風にいえば原子核物理学の一局面、ラジウムとその崩壊産物の系列が出す放射線を調べる」(10ページ)内容であったようだが、伏見はこれにはほとんど関心が持てなかった。

なぜならば、この実験は「完全にルーチン化され、様式化された実験で、自分の考えを入れてどうこうするという要素が欠けていた」(11ページ)からであった。とはいえこれにより「放射能をいじることに何の抵抗も感じなくなった」(11ページ)という。

また当時の先生たちに対する印象として、「大正時代の日本の先生方は、留学先では一仕事をされてくるのに、帰国後はろくなことをしていないといわれたことの一例だろうか」(12ページ)と述べたり、「1930年代の新しい原子核研究の新展開には、東大物理学教室はまったく不感症であった」(13ページ)と嘆いていたりする。

核物理学と真剣にかかわりはじめたのは、東大助手の後、1934年に新設の大阪帝国大学理学部に赴任した際に、菊池正士の指揮下に入ったことからはじまっている、と伏見は述べている。そこでは、コックロフト型高電圧発生装置というものを用いた中性子の実験に参加した。これはある種の「核実験」であるが、要するに「放射線の計測」であった。なお、菊池正士が翻訳した『量子力学』(岩波)は、ヒルベルト学派の直訳みたいなものでひどかった、と伏見は書いている。

1900年代前半は、原子核研究が一気に展開した時期である。

「フェルミは、チャドウィックの中性子の発見とジョリオ・キュリーの人工放射性物質の創成とに刺激されて、中性子こそは、他の核に対し、静電斥力に煩わされずに、突入することができ、簡単に人工放射性物質を作り出すに違いないとして、極めて精力的に実験を始めたのであったが、それは1934年の春頃からであった。」(68ページ)

そして、日本人研究者もまたそうした第一線で活躍する科学者たちと肩を並べて議論をしはじめている。その背景には、もちろん、軍事的に当時の先進国の仲間入りを果たした日本の国力に支えられていたこともあるであろう。

しかし、当時の東大にはそうした「世界」を舞台にした研究が行われず停滞していた。伏見は、理化学研究所にも出入りをしたことにより、このような動向を知ったようである。

「理研に出入りしているうち、一大印象として私に伝わってきたのは、物理学が今や原子核物理学に突入しつつあるということであった。」(27ページ)

理研で理論的な研究への関心が高まった。そして、そばには阪大の同僚として湯川秀樹(当時助教授)が坂田昌一や小林稔とともに中間子説を生み出していたのにも刺激を受けたのであろう。

なお、後に「対立」することになる武谷三男については「すこぶる口の悪い人で、誰でも遠慮なしに皮肉を言った」(113ページ)とある。「武谷さんは、湯川・坂田の中間子理論の発展に手を貸していたが、病気をしたりして、必ずしも元気が続かなかった」(115ページ)と淡々と当時をふりかえっている。あまり「敵対」していたという感じではない。

原子爆弾の研究についても言及がある。理研では六フッ化物の実験を行おうとするが、なかなか進まず、結局実験ができるようになったのはすでに終戦まじかだったという。

また、1938年から1939年春にかけて、ハーンをはじめとしてネイチャア誌に続けて核分裂に関する論文が登場し、1939年の夏前には原爆、原子炉の可能性は科学者の間では公然と論じられたという。

しかし、1939年は膨大な核分裂に関する論文が発表されたが、1940年にはぴたりと止まる。戦争のなかで、自己検閲によるものだったのではないか。と伏見は推測する。

伏見にとってもここで転機が訪れる。1940年には博士号を取得し教授となったことにより、実験系から遠ざかり、統計力学など、理論を中心とした研究を進めることになる。そこでは、「天才」彦坂忠義との出会いが大きいようだ。

彦坂は、今でこそ五島勉の「トンデモ」系の本「日本・原爆開発の真実」で少し知られる人物であるが、戦後ソ連で拘留を受け不遇となり、戦後はひそやかに生きた。この彦坂とともに伏見は核分裂の連鎖の可能性を考えたことがあるという。つまり原子炉の可能性についてである。特に、彦坂は、「非均質炉」の可能性を1940年頃に出していたという。さらに彦坂は、分裂後発生した速い中性子を媒介とする、たとえば原爆の可能性も探究していた。これに対して伏見は、核分裂と原爆に可能性を最初は結び付けていなかったという。理研で行われていたのは、ウランをどうやって分離するのか、同位体分離の技術に関してで、どう考えても国内で原爆が実用化される可能性はなかったと言ってよい。

戦時中は、科学報国運動が起こるなか、菊池正士が海軍技師となり、伏見は、大学にはいるものの、研究は進まず。しかし「私はもっぱら中性子の減速拡散の計算をしていたが、まったく核分裂の実験に手を出さなかったわけではない。」(182ページ)と、引き続き核物理学への関心の維持を強調する。


ここから戦後の話に移る。以下、ごく簡単に。

大阪大のサイクロトロンも、GHQが壊しにきた。「原子力に関する研究は禁止され、ウランのような核原料物質は届けねばならなかった。基礎科学としての原子核物理学も制限されたし、半期毎にGHQへなにをしているか報告の義務があった。」(199-200ページ)

こうした状況において伏見は、統計力学の基礎を学生に伝えることに軸足を少し変える。

しかし1949年には、日本学術会議(第一期)の会員となり、1957年まで三期務めることになるが、ここで特に、1952年に原子力研究の推進を、茅誠司とともに主張したことにより、慎重派である武谷三男や坂田昌一らと対立したことが知られている。また、1957年から5年ほど、今度は、関西研究用原子炉の敷地をめぐって、再び武谷らと対立する。これらについては別のところで論じたのでここでは繰り返さない。

その後の彼の動向は、物理学の「研究」よりも原子力の「開発」のための条件づくり、すなわち「政治」において、その力を発揮する。1959年には大阪大学理学部長、1961年には名古屋大学のプラズマ研究所が設立されたのを機に、その所長となる。1972年より日本学術会議(第9-10期)副会長、1973年定年退職、同年末紫綬褒章、1977-82年日本学術会議会長、そして1983-89年には参議院議員。


こうして個人史を追ってみると、なんというのか、全体的にポジティブで、前向きで、ひたむきなのであるが、「批判精神」のようなものが欠如しているような印象を受ける。もしくは、「批判」や「葛藤」することにあまりメリットを感じておらず、実際に何ができるか、何をすべきなのか、において物事を考え実行していたのではないだろうか。ここには、湯川秀樹の苦悩、朝永振一郎の熟考、仁科芳雄の落胆のような「思考」が不思議なくらい見当たらないのである。

もちろん私は伏見を断罪したいわけでも非難したいわけでもない。ただ、驚いているのだ。

あれほどの威力をもって、多くの犠牲者を出した原爆に対してもそうであったが、1年以上を経た今もなお収束しない事故を招く原発に対しても、彼(ら)はそれほどの「困惑」を抱かないのであろう。

純粋な学問研究とその実用化そしてその道筋をつくるための政治活動が、あまりにも「純粋」に展開されているのだ。

こうした姿をみていると、この1年間にメディアに登場した自然科学者が、どこかピント外れなところがあった理由が分かってくる。

飯田哲也や小出裕章らは、そのなかでは異色なのである。大半の自然科学者、核物理学者原子力工学研究者は、こうした「技術」や「科学」に対する「倫理」の問題、それらが引き起こす社会的影響に対する洞察に、そもそも関心がない、と思ってよい。

そうしたことを理解したうえで、彼らの発言を聞かねばなるまい。


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