柿谷浩一編、日本原発小説集、水声社、2011年10月、を読んだ、その続き(後半)。

収録されているのは、以下の作品(と初出)である。

清水義範「放射能がいっぱい」(『単位物語』講談社文庫、1994年)
豊田有恒「隣りの風車」(『小説現代』1985年8月号)
野坂昭如「乱離骨灰鬼胎草」(『乱離骨灰鬼胎草』福武書店、1984年)
平石貴樹「虹のカマクーラ」(『虹のカマクーラ』集英社、1984年)
井上光晴「西海原子力発電所」(『西海原子力発電所』文藝春秋、1986年

なお、「解説」が川村湊氏によって「原発文学論序説」として書かれている。

野坂氏以降の作品について。

*以下、作品の内容にふれているので、小説の内容を知りたくない方は、ご注意ください。

清水義範氏と豊田有恒氏の作品が、「主題」として「原発」を扱っているかどうかではなく、そもそもの「放射能」の持つ不可視性と拡散性をテーマとしたものであると考えるかぎりにおいて、まさしく「原発小説」と呼べるのではないか、ということを昨日書いたが、野坂昭如氏の作品は、私はこれこそが、本格的な「原発小説」だと思った。

まずは、「原発小説」かどうか以前に、「小説」としてのレベルがとても高いということである。これぞ、小説と言える。小説らしい飛びぬけた想像力と独特の文体。紡がれた、強靭な物語。いつも酔っ払って、「そ、そ、ソクラテスかプラトンか~」と歌っているだけの人ではないのである。お見それ、してほしい。

タイトルの「乱離骨灰鬼胎草」、ランリ・コンパイ・オニバラミと読むのだそうだが、内容もこのままで、おそろしいかぎりである。言葉と物語によって、ここまでできる、ということである。

舞台は、日本海側にある、卵塔(らんとう)村。もちろん、架空の場所である。内陸部とは崖によって孤絶した小さな半島で、ほぼ浜だけの村のようなところ。かつて村民は「夜見(よみ)の者」と言われた。夜見=黄泉である。千人くらいで貧しい暮らしを営み、漁業以外には特に何もなかった。しかし江戸時代には花崗岩がとれることから、墓石の切り出しで栄えたため、卵塔村という名前になった。

知ってのとおり、花崗岩には多くの放射性同位元素を含んでいる。このことが後に重要な意味をもってくる。

あるとき、大きな地震に襲われ、大半の村民が死亡、残されたのは女子供と老人だけ、食べ物もないなか、彼らは生き延びるために、すさまじい行動に出る。どうしたのか…、その詳細は、是非読んでほしいので省略する。

こうしたこの村の前史を描きつつ、その因果を経た後に、昭和38年、原子力発電の候補地として浮上し、手厚い補償を受け、プルトニウムを使用する原子炉が稼働することになる。

「私どもは決して企業エゴいいますか、そんなんの無理強いはいたしません。(中略) 電力こそ、国家です、そして電力の明日のエースは原子力発電、あ、原子力いうても、ピカドンとちゃいます、まるでちゃいますねん」(67ページ)

と、電力会社の社員はこの村の議員に説明する。いよいよ稼働するにあたっての祝賀会の模様、こういった文章に、味わいがある。

「尊重、村いちばんの年寄り、電力、建設関係者がテープを切り、くぐり初めの車に知事と代議士が同乗。選挙の際も、卵塔村は無視され、村民が実物眼にするのは初めて、さびれたといても古くからの港町、そこの芸者もくりこんで、小学校雨天体操場の祝賀宴会、原発音頭と踊りが発表された、(唄)電気はみんな原子力、幸せ招く発電所、無病息災お家繁昌、ほんに世の中明るいな。(唄) 栄える村のめでたさよ、轟くタービン原子力、千古変わらぬ夜見の浜、鶴と亀が群れ遊ぶ。」(70ページ)

知ってのとおり、原発には多くの人が内部作業をする必要があるため、村内の雇用もかなり満たされた。しかしトラブル続きのこの原発に次第に外部からの作業員が来なくなり、再び悲劇が起こるのだった(このあともまた、おそろしい話がある)。

これは「原発小説」という「ジャンル」を形成しようと、しまいと、秀作である。しかも、寒村地帯、地震、自然放射能、異形、原発誘致、体内被曝、原発作業員など、語られる内容に、大きな幅というか、豊かなふくらみがある。素晴らしい。


続いて、平石貴樹氏の作品。これもまた、これを「原発小説」と呼んでよいのか悩みつつも、不思議かつ恐ろしい物語であった。

野坂氏の作品が歴史的な厚みのなかに「原発」を含みこませているとすれば、平石氏のそれは、空間的な広がりのなかに「原発」を巧みにかかわらせている、と言える。

この作品においては、原発は、あくまでも一つの職場としてのみ登場する。高収入が約束されているが、危険が伴うので、なかなか働きたがらない職場、である。この職場に、はるばるシカゴから出稼ぎにきた黒人、ボブが、ファストフード店でたまたま、少女ソムシーに声をかける。その少女もまた、日本に「出稼ぎ」に来ている。しかし彼女の場合は、自らの意志によってではなく、無理やりに、タイから連れてこられ、性産業のなかに組み込まれる。

ボブとソムシーは、英語でコミュニケーションをとる。小説は、( )に入れることによって、それが、英語でやりとりされていることを、読者は知る。たとえば、こんな風に、である。

「(一週間だけ?」
「(うん。アトミックプラントで働いてたんだよ)」
「(なに?)」
(85ページ)

「(連中はニホン人を突然理由なしに死なせるわけにはいかないからね)」
「(わかるは。だからあなたを雇うのね、外国人を)」
「(そう。たいてい黒人をね。おれたちが一ばん危険な仕事をやるんだ)」
(87ページ)

こういった表現手法自体、私には新鮮だった。

このような、比較的、おだやかで、ほのぼのとした会話が続けられる。しかも彼らは、鎌倉の大仏をふと、見に行くことになる。ちょっとした観光旅行の風情なのである。

二人の、会話は、いつくしみ、というのだろうか、相手を思いやり、尊重し、ていねいに交わされる。読んでいる私たち(=ニホン人)は、ついつい、その幸福な空間に自らもともに居り、その幸福感を共有しうるかのように読んでいる。

だが、彼らはずっと、自分たちが「ニホン人」たちに、じろじろと見られていることに気づいている。作者はこのあたりに、さりげないが、心の奥底に生まれてゆく不快感、その感情の揺れを見ている。

「電車の中をソムシーは見わたしてみた。ニホン人たちは話していたり、眠っていたり、本を読んでいたり、ソムシーたちのほうを見ていて急いで目をそらせたりしていた。こちらが見ようとすると逃げ、見ないでいるとまつわりついてくる蝿や羽虫のようなニホン人の視線。」(87ページ)

作者は、明らかに、ニホン人の外側にいる。そして、読者であるニホン人たちに、この嫌悪感、この憎悪感、この劣等感を、投げつける。

このあと、物語はある瞬間に大きく反転し、悲劇的な結末を迎える(それも書かないことにしよう)。それまでの甘く、緩い、たおやかな空気が、急激に凍てつく。背筋が寒くなる。このあたりの表現も秀逸である。そのきっかけは、こうである。

「(ソムシー。おれたちだって権利があるさ。おれたちだって楽しくやる権利があるさ、そうじゃないかい?)」(123ページ)

作者は、原発そのものではなく、原発のある空間において、原発に象徴されるニホン人に対して、鋭い刃をつきつけているのではないだろうか。この点において、これまでの原発小説のいずれとも異なっている。つまり、放射能によって何かをもたらされる被害者でも、その利権に群がる加害者でもなく、その両者から排除され、虐げられ、蔑まれ、それでいながらその両者が生きる生活を支えている「下部構造」としての「おれたち」を描こうとしている。

アンタッチャブル。

原発、放射能、ガイジン、黒人、売春婦、そして、ヒバクシャ、原発労働者。

原発は、最先端の科学技術として誇らしげに語られるが、その足元にいる労働者のことは、知っていても見ようとはしない。

もちろん一部では、原発労働の過酷な現場について、ルポがあったりもするが、基本的に私たちは、見ないようにしているのでは、ないか。

それは、この作品に登場する「おれたち」のことに、気づいていながらも、基本的には無視しているのと、同じ構造なのでは、ないか。

本作品は、こうした問題提起に連なって原発を考えさせられるものだと、私は考えた。もちろんこれも「原発小説」という括りが必要なのかどうか、考えさせられるが、私がこの作品にふれることができたきっかけは、やはり「原発小説」という本書の企画なのであるから、そういう意味では、この企画は成功しているように思われる。

最後の作品は、ご存知、井上光晴氏が登場する。「虚構のクレーン」など、原爆関連が多い彼は、外せない。しかし今日も、ちょっと書ききれなくなってしまったので、明日に続きを書くことにしたい。

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