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フーコーがフランス革命以降に私たちが好んで選んだ社会のあり方のイメージとして、パノプティコンとか、ディシプリーヌ社会とか、そういう言い方をしたのは、よく知られている。

それをもとに、近代の社会制度を、管理社会、監視社会、と定義づけ、批判している人たちも、数多くいる。

しかし、今のところ、そのモデルを、今回の福島原発事故とつなぎあわせて論じている人は、まだいないようだ。

フーコーが『監獄の誕生』いやもとはといえば、『狂気の歴史』または応用編としての『言葉と物』で描いた社会のあり方は、そのまま原発をかかえる社会にもあてはまる。

一つの社会共同体は、必ず、その同一性を保つことによって、その内部における生産性を高める。

極端に言えば、それは、軍国主義やファシズム、そしてナショナリズムという形態をとることもある。

また、学校や医療、工場その他の社会制度の硬直化というかイリイチのいう「逆生産性」について、フーコーを敷衍して語る人も数多くいた。

しかし、残念ながら、それを原発にかかわる社会制度としての分析が、等閑にされてきた。

フーコーの主要な問題意識のなかでも、とりわけ、鮮明なのは、その社会的共同体が同一性を強化するための方法論である。

同一性を獲得するには、「他者」をまず生み出さねばならない。

他者とは、つまり。差別され、非難され、無視され、奇異に思われるような存在のことである。

この他者は、社会から、排除される。

排除され、閉じ込められ、監視され、調教される。

このシステムがうまく運用されていると理解されるのが、近代社会の特質である。

もちろん同時に、並行して別のシステムも稼働しているのだが、それはここでは説明しない。

ともかく、人は、他者を排除しある一定の場所や一定の概念、一定の制度に、監禁し、監視し、調教しようとする。

ああ。

私たちは、失敗した。

原子力発電所というもっとも私たちにとって遠い存在を他者として、都市圏から排除し、たとえば福島に建立して監禁したうえで、たえず監視し、なんとかてなづけようとしてきた。

しかし、失敗した。

これは、管理社会という社会制度もまた、最終的には、破たんするということを言っているのではないのか。

近代の生み出したパノプティコンは、原発において、もっとも最高レベルの技術、金、人、政治、軍事、など、あらゆるものをつぎこんでその完成形として、社会に君臨しているはずだったのではないか。

それが無残にも、壊れた。

隔離していたものは、世界に拡散した。

放射性物質は、じわじわと、世界に飛来した。

つまり、ここにおいてドゥルーズのいう、リゾームが見いだされる。

放射性物質は、閉じ込められることなく、社会全体に撒き散らされ、その姿形がわからず、ただ、計器によって数値でしか把握できない。

それが、社会にばらばらと散っている。

これが意味しているのは、もう、パノプティコンを基盤とした社会のあり方は、存続ができない、ということである。

私たちは、今放射性物質が、空気中や地中、植物、動物、すべてのものにおいて浸食し、
しかも長期間にわたって、それを怯えながら生きることを、自明視しはじめている。

これは、社会イメージにとっては、新たな第一歩がはじまった、とみなすことができる。

原発事故のポジティビティは、ここにある。

これは、吉本隆明が切り開けなかった領域にちがいない。

実は、このイメージは、インターネットやパソコン、アンドロイド携帯におけるマルウェアの拡散おいても、顕著に類似性が見いだされる。

日常が「終わりなき非日常」となって現前にある私たちが生きる社会は、まさしく今、これからの社会モデルを提示されているのである。

そうするとこの社会モデルの目指すものは、はっきりしている。

ホスピタリティである。

私たちは、放射性物質を、世界に、拡散しなければならない。

できるかぎり濃度を低くするために、「世界」全体にに行き渡らせるほかない。

福島県が、とか、日本国が、とか、そういう間仕切りはもう、無意味である。

確率論的にいえば、要するに、濃度を下げることが、私たちに行いうることのすべてであり、同時に、そこにこそ希望があるのではないだろうか。

自分のもっとも大切なものさえ、その「異人」に差し出すことを絶対的義務と考えるホスピタリティ即ち「歓待」の倫理においては、「閉じ込め」ではなく「開放」しか、ないのである。


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