桜、開花宣言桜 となりました。


春の彼岸の三連休も源氏ごもり・・・でしたが、少しは外の空気も吸わなくてはと、ちょっと息抜き。



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・・・・・


さて、今日こそは長崎の旅の続きを。


現在の城山小学校には「平和祈念館」があります。


原爆の被害を受けた城山国民学校の写真。

矢印でさしてあるところに「遺構として保存されている部分」とあります。



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丸い窓枠に特徴があるこの部分が今も残されて(保存が難しく現在は半円となっていますが)、「平和祈念館」になっています。




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祈念館には、案内をしてくださる方が常時いると聞いていたので、いろいろお話を伺えたら・・・と思いながら、足を踏み入れました。



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さっそく教えていただきました。

入口にあるこの看板は、林嘉代子さんをしのんで校庭に植えられた嘉代子桜が台風で折れてしまったものを再利用して作られたのだそうです。

被爆校舎を平和祈念館にと発案したのは城山小学校の児童でした。

ここは当時、階段棟で、原爆の熱線のすさまじさがわかる木煉瓦のあとが残っています。

と、これもすべて案内してくださったUさんの受け売りです(笑)。

他にも、さまざまな展示物はもとより、ここへ来た修学旅行生たちの反応など、事細かに説明していただきました。

そうそう、驚いたのは、この城山小学校は毎月9日に平和祈念式を行っていて、平成28年3月現在で、776回を数えることになります。

毎年、ではなく、毎月。

生徒たちが学校正面の平和少年像に必ず一礼してとおっていたのもうなずけます。

それから、「城山国民学校の物語」で吉野レイ子先生が語っていた先生方のお名前と実際の写真も見ることができました。ほとんどの方が原爆で亡くなられています。

Uさんが言います。「この先生方の特徴はなんだかわかりますか?」

「・・・?」

「ほとんどが若い女性です。」

たしかに、吉野先生だって当時19歳、二十代のうら若き女性の写真が並んでいます。わずかにいる男性教師はなんらかの理由で兵役に行かなかった人なのでしょう、あとは教頭先生(←奇跡的に助かり城山小学校の復興にたいへん尽力されました)、校長先生、そして戦争一色で工場と化していた学校内にいた三菱兵器製作所所員、動員学徒のお名前が掲げられていました。

殉難児童名簿も当然あります。児童のほとんどは8月9日に学校にはいませんでした。夏休みだからではなく、戦争のため授業は行われておらず、作業にかりだされていたり、自宅にいたりしていたようです。たしか1,400名ほど亡くなってしまったと・・・。

しかし、Uさんが児童名簿を指して言います。

「ここに名前があるのは694名です。」

「え? だって1400って・・」

「それしか、わかっていません。」


70年もたっているというのに、名前がわかっているのは半数にも満たない。

爆心地から500メートルの小学校に通っていた児童たちの行方は、いまも、わからない。


Uさんにひととおり案内していただいたあとも、しばらく展示やパネルを見入っていました。


館内の写真は控えて撮らなかったので、ここにアップできませんが、やはり被爆校舎が残っていて、その場所で城山国民学校の原爆被害に関する資料が展示されていると、その事実がじんと身体に伝わってくるように思います。

こんな悲惨なことが二度と起こらないために、忘れてはならないために、被爆校舎は、案内人の方たちとともに語り続けていました。


ふと、ガラスケースのなかに、「紙芝居あります」との文字を目にしました。
ご覧になりたい方は係に言ってくださいというようなことが書いてあったので、喜んでUさんのいる受付に戻ってみると・・・

午前中担当のUさんから午後の担当の方に変わる時間だったのでしょう、そこで運命の出会いがありました(笑)

そのお二人に「紙芝居を見せてほしい」と頼んで話していくと、実はUさんは紙芝居を作成している方でもあって、それから午後の担当でいらした山口政則さんは、その紙芝居の会の代表の方(かつ長崎平和案内人の第一人者)だったのですビックリマーク

Uさんは、「山口さんにいろいろ聞くといいよ、よかったねえ」と笑顔で帰っていかれました。


それから。

5冊の紙芝居をすべてみせていただき、さらに絵本も。

自分がここへ来た目的も思い切って話すと、山口さんはそうでしたかとうなずいてくださり、それから私の質問にそれはそれはなんでも、さらっと答えてくださるのでした。

それで、私は、吉野レイ子先生がちりぢりになった城山国民学校の子どもたちを集めたという「八幡神社」を訪ねることもできたのでした(予想どおり、城山小学校からすぐ近くのところだったのです)。

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さらに!

八幡神社から平和祈念館に戻ると、ちょうど閉館時間になったので、山口さんはそのあと長崎平和資料館の継承課に連れていってくださるばかりか、「城山国民学校の物語」の紙芝居を手掛けた漫画家のマルモトイズミさんが所属している朗読グループ「永遠(とわ)の会」の関係者の方のところにも連れていってくださったのです。


さらにさらに!!


平和案内などで毎日ご多忙な山口さんですが、珍しく翌日はお休みで時間があるとのこと、よければ長崎の原爆関係の主だった場所を案内しましょうかと言ってくださったのです!!!


こんなことってあるんでしょうか。


「ぜひっ」とお願いしたのはいうまでもありません(笑)



こうして翌日の待ち合わせを決め、また大切な絵本や資料を一晩だけ借りて、ホテルに戻り、一人晩酌もそこそこに、その資料を読み終えたのでした。


絶版になっていたこの絵本はコピーをとらせていただきました。


ここにも城山国民学校の吉野レイ子先生のことが書かれていました。




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まさかこんな展開になろうとは思ってもみなかった長崎旅行。


次回は、山口政則さんの名ガイドについて行き、長崎を駆け巡った完結編を綴ります。