1990年6月8日 日本武道館 鶴田VS三沢とオレ ※過去ログサルベージ | C.I.L.

1990年6月8日 日本武道館 鶴田VS三沢とオレ ※過去ログサルベージ

2004年07月01日
『1990年6月8日 日本武道館 鶴田VS三沢とオレ』



今日取り上げるのは、1990年の6月8日に行われた、ジャンボ鶴田と三沢光晴の一騎打ちである。この1試合のみを取り上げる。

このシングルマッチが組まれた背景は、ズバリ全日本プロレスの経営危機にある。


メガネスーパーという一流企業がバックについた新興団体『sws』の、資金力に物を言わせた引き抜き作戦によって、有力選手のほとんどを引き抜かれてしまった全日本プロレス。


当初は全日を(一応は)円満退社した天龍が一人参加するだけという話だったのだが、日を追うごとに追随者が増えていき、谷津、冬木、カブキ、高野(弟)、北原、石川、寺西、折原などが続々と退団。


そのほとんどが契約的にグレーな退団であったため、さすがに良識派、穏健派で知られたジャイアント馬場も激怒。プロレス誌で恥も外聞もなく「ヤツらは引き抜き工作を仕掛けている!」と怒りのタケをぶちまけるという緊急事態に陥った。


丁度この頃、長年続いた全日本プロレスと新日本プロレスの企業戦争(主に引き抜き合戦)が、猪木が一線を退き坂口が社長に就任したことで終結し、プロレス界は平和な雪解けムードに酔いしれ、今後の夢のカード実現に思いを馳せていた時期だった。


そんな平穏なプロレス界に突如メガネスーパーが参入。露骨な引き抜きを仕掛けたことで、一転して殺伐とした企業戦争モードに逆行してしまったのだ。


選手の入れ替わりや、内部抗争、スキャンダリズムに慣れていた新日ならば、まだプロレスストーリーとして取り込むことも可能だったのだが、swsのマズイところは『聖地全日』を侵略してしまったことにある。言い換えれば、『G馬場』を敵に回してしまったのは失策であった。


猪木ですら、あくまでプロレスストーリーとしてライバル関係をアピールするに止まっていたものを、swsは本気で『プロレス界の絶対不可侵的存在』の馬場に企業戦争を仕掛けてしまったのである。


選手の大量離脱を招いた全日本プロレスは、当初こそ選手不足によるカード編成の難などで危機に陥った。一時期は倒産説も流れたほどだ。


だが、プロレスファンの多くは危機に陥った『全日+馬場』を『完全なる善玉』とみなし、swsを『邪悪な悪玉』とみなした。自然と、全日の会場には『濃いファン』が多数押しかけるようになっていった。


そうしたファンの後押しと、残留した日本人選手の頑張り、外国人選手や海外プロモーター(外国人選手の"輸入代行役")との長年の信頼関係を武器に、全日はなんとか息を吹き返し、この『鶴田vs三沢戦』を迎えるのである。


背景説明が長くなってしまったが、この一線を語るにはこれだけの導入が必要なのだ。これより後は、プロレスファンには耳の痛い内容が多く含まれている。純粋なプロレスファンの方は読まない方がいいかもしれない。




さて、当時の全日本プロレス所属の有名選手といえば、G馬場とジャンボ鶴田の二人だけであった。だが馬場はメインを張るには衰えが激しく、鶴田と並ぶ日本人エースの存在が渇望されていた。本来はそのポジションに天龍がいるべきだったのだが、話したとおり天龍はすでに敵対関係にあるswsに所属してしまっており、残されたレスラーは皆若手か年寄りという有様だった。


その若手レスラーの中に、頭一つ抜けた存在がいた。G馬場をして、「どんな手を使ってもアイツだけは引き抜かれるな!」と言わせた逸材。そう、それが三沢光晴である。


馬場はこの経営危機の状況で、三沢を鶴田と同格に引き上げるという大英断を下した。自分が前線に舞い戻るのではなく、まだまだ荷が勝ちすぎる感が否めなかった三沢を引き上げたことが、その後の全日の奇跡の隆盛を決定付けた。


6月8日日本武道館。満員の会場は、メインイベントである『鶴田vs三沢戦』の終了後、驚きと歓喜で満ち溢れていた。明らかに格下と思われた三沢が、『日本人最強レスラー』と謳われた鶴田を下したのである。


三沢のブレンバスターを切り返し、体を浴びせてフォールにいった鶴田を、さらに切り返しての一瞬の体固め。それが決まり手だった。


加えてフィニッシュの直前、ドロップキックを狙った鶴田は三沢にかわされ、ロープに股間をしこたま打ち付けるという失態を演じている。実はこれも含めて鶴田流の『プロレス演出』だったである。


普通に三沢が鶴田に勝ってしまったら、いくらなんでもうそ臭い。どう考えても、当時の三沢には鶴田に勝つ要因がなかったのだ。断言する。あの当時の三沢では、絶対にまともな形で鶴田には勝てなかった、いや、勝ってはならなかったのだ。


だがここで三沢を勝たせなかったら全日は何も変われず、経営危機のトンネルも抜け出せない。なんとしてもこの一戦は、あくまで納得が行く形で三沢に勝たせる必要があったのだ。


そこで鶴田の自爆である。ドロップキックを空かされ、なんとも無様に股間を押さえてのた打ち回る鶴田。最強の怪物とまで言われた鶴田。気を取り直して三沢に攻めかかるも、ブレンバスターの体勢に捉えられる。なんとかそのブレンバスターを切り替えしフォールの体勢に持っていくも、さらに身体を入れ替えられてフォール負け。なんとも微妙なカウントであり、2.9で鶴田が返していたと言われても仕方の無い状況であった。


だが、判定は鶴田のフォール負け。これはある意味、鶴田の勝ちである。馬場の望みを理解し、自分の立場、三沢との力量差を考え、観客も関係者も皆が納得する形で負けて見せるという難しいミッションを、鶴田は持ち前の『プロレス頭』でクリアしてみせたのである。


この結末を目撃したファンは、一様に新しい流れを感じ取ったはずだ。選手の大量離脱で揺れる全日に、三沢という新たなエースが誕生したと。そして新世代のエースである三沢と、旧世代のエース鶴田の抗争という新たな展開を。


そう、この試合は全日の新たな方向性を示す、起死回生を狙った一戦だったのである。


この後、三沢は『棚ボタだった』『鶴田の自爆がなければ』『一瞬の返し技じゃ勝ったとは言えない』というファンの声を跳ね返すがごとく、高すぎる壁である鶴田に挑み続けた。そして鶴田は三沢を完膚なきまでに叩きのめし続けた。


普段は凶器を一切使わない鶴田だが、対三沢となると狂気を帯びた椅子攻撃などを繰り出したり、必殺技であるバックドロップを”失神している三沢を無理矢理引きずり起こして”連発してみたりと、殺気などという言葉では表現できないような叩き潰し方をしてのけた。


それでも三沢をはじめとする若手は必死で鶴田に喰らい付き、気づくと三沢・川田・小橋・田上は一流外国人レスラーにも引けを取らないほど立派に成長した。


この鶴田を越えるため挑み、毎日のようにボロ雑巾にされた4人は(田上は鶴田のパートナーとしてしごかれた)、後に『全日四天王』と呼ばれるようになる。彼らの身体を犠牲にするかのような激しいファイトは『四天王プロレス』と呼ばれて大人気を呼び、全日本プロレスは経営危機が嘘であったかのような隆盛を誇ることになるのである。


『プロレス初心者はまず全日に連れて行け』


一時期プロレスファンの間で流行ったこの言葉は、鶴田と、三沢をはじめとする四天王の激闘が生み出した産物である。選手全員が危機感を持ち、それぞれの持ち場で必死の頑張りを見せ、それが客に愛され、信用され、不動の全日人気に繋がっていったのである。


鶴田vs三沢戦は、企業のピンチをチャンスとし、新しい流れを産み、逆転勝利を決定付けたプロレス史に残る一戦だったのである。



ちなみに全日をピンチに陥れたswsは、資金力こそ超一流であった。だが、満たされすぎた待遇が逆効果だったのか、旗揚直後から選手のやる気のなさが目立った。選手全員が必死のファイトを見せて連日満員の全日人気とは対照的に、やる気のないファイトを見せる選手の多さに人気が低下。必然的に客の不入りが目立つようになり、遂にはメガネスーパーが赤字を理由にプロレス撤退を表明。すると今度は選手同士の愛憎劇が表面化し、ドロドロの分裂劇を繰り広げた挙句、いくつもの小規模団体に空中分解して果てた。なんとも対照的な結末である。


WWEのようなエンターテイメント重視のストーリープロレスが持てはやされる昨今だが、この『鶴田vs三沢戦』への経緯とその後の展開こそ、どんなストーリーラインにも負けない『プロレスドラマ』なのだと思う。


英断を下した馬場、自らの栄光を捨て、三沢ら若手の踏み台になることを了解して汚れ役を買って出た鶴田、その期待に十分すぎるほど応えた三沢ら若手陣。


この『レスラーが己の人生を賭けて見せるプロレスドラマ・ストーリー』こそ、プロレスが他のスポーツ・格闘技に絶対に負けない『エンターテイメント性』なのだ。