支那事変の経緯 | memo / 今は越後湯沢でじょんのび

支那事変の経緯

なるほど と思ったので私も丸ごと転載させてもらいました

覚えておくために



http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-710.html  より



最近のメディアでは、よく「日中戦争」という名称が使われるようです。
しかしこれは大きな誤りであり、左翼・反日主義者のプロパガンタです。

正しくは「支那事変」または「日華事変」といいます。
「戦争」ではなく、あくまでも「事変」です。

では、「事変」とは一体何なのかと言うと、
“警察力では鎮定し得ない程度の擾乱(じょうらん:「乱れ騒ぐ事」の意)。国際間の宣戦布告ないし明確な戦争方針なき戦争”をいいます。

ちなみに明治以降日本が行った戦争は、すべてきちんとした宣戦布告と終戦の詔勅を行っています。
こんなことをしたのは、実は日本だけです。

日本が明治以降行った戦争は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、大東亜戦争の4つだけです。
そしてそれぞれについて、日本はきちんと宣戦布告、終戦詔勅を行っている。

このことはスポーツでみるとよくわかります。
日本の武道は、すべて礼に始まり礼に終わる。リングの上でカネが鳴ったら試合開始・・・ではありません。必ず両者が出てきて礼をし、そのうえで全力を出してぶつかり合う。これが武道の精神であり武士道であり、日本精神の基本です。

では支那事変はどうだったのかというと、これはとうてい「戦争」と呼べるシロモノではない。

そもそも当時の支那は、大きくは、蒋介石の国民党と、毛沢東の共産党八路軍が支配権を争って支那全土で内乱を繰り広げていた。
しかも各地に軍閥やら地方政権が乱立し、ときに応じて国民党についたり八路軍についたり、独立を主張したりの離合集散が繰り返されていた。つまり、国家の統治機構がまったく形成されていないという情況だったのです。
いいかえれば、宣戦布告をしようにも、する対象が明確でない。

支那事変は、昭和12(1937)年7月7日の「廬溝橋事件」から、昭和20年8月15日の終戦まで、8年間もの長期にわたって続いた騒乱でした。

いまの支那、つまり中国共産党は、これを日本軍国主義による「中国侵略」だと主張して、歴代の日本の政権に対して、繰り返し「過去の戦争責任」の追求と「正しい歴史認識」の強要をしてきました。おかげであらたに誕生した民主党政権では、ハナから「正しい」歴史認識をまるごと認めて友愛するなどと言い出しているようです。

しかし、支那の主張する「正しい」歴史認識というものは、実はいいがかりもはなはだしいものです。

今日はこのことを書こうと思います。

支那事変は、 廬溝橋事件にはじまる事変です。

そして盧溝橋事件で、日本に戦闘をしかけてきたのは、現在「中華人民共和国」として支那の政権を握っている支那共産党です。日本にはハナから「中国侵略」なとどいう野望も野心も意図も計画もありはしなかった。

その証拠に、「廬溝橋事件」発生後間もなく、日本軍は、事件不拡大方針を表明しています。
日本としては、これ以上、国民党軍と事を構えたくなかった。
支那との全面戦争など、誰もする気もしたくもなかった。日本にとってなんの得にもならないのです。当然のことです。

ところがこう書くと、左翼反日に凝り固まった人たちは、「いやいやそんなことはない。当時日本軍は支那に駐留していたではないか。侵略する気がないのなら、どうして駐留したのか?」などと論点のすり替えを言ってきます。これも大きな嘘です。

日本軍の支那駐留と「支那事変」とには、何ら因果関係はありません。

確かに当時、日本は支那に駐留していました。これは事実です。
日本が支那に最初に進駐したのは、「義和団事件」発生の時のことです。

明治28(1895)年、日清戦争に敗北した清国内に、義和団と称する拳法結社が現れます。
この義和団は、呪文を念じて拳法を行うと刀で斬られても肉体が傷つくことはないという、わけのわからないカルト教団で、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンにして、各地の外国人や支那人キリスト教徒などを片っぱしから襲って甚大な被害を及ぼしていた。

明治33(1900)年1月22日、北京にあった列国公使団は、清国政府に対して、「義和団」の鎮圧を要求します。
いまでいったらカルト教団が外国大使館やキリスト教寺院を襲って殺人、暴行、強姦、窃盗を繰り返すので、各国の大使館か共同で政府に対してその取り締まりの要求をした、ということに等しい。

ところが清国の実質的な支配者であった西太后は、逆に義和団を支持し、4月22日、清の首都である北京市内に、義和団を招き入れようとします。
そして義和団の軍団が北京にあと8キロの地点まで迫ってきた。そして張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。

このとき北京に迫ってきた義和団は、なんと20万人以上です。
殺されても死なず、傷つかず、外国人や同じ支那人のキリスト教徒に対しては、なんでもやりたい放題することが許されると信じている20万人の暴徒集団です。

いってみれば最近の映画「バイオハザード4」で、少数の人間が立て篭もるところに、ゾンビの大軍が迫ったきたようなイメージです。

そんなものが人口が密集し、外国公使館の林立する北京市内に大挙してはいってきたら、当然市内の治安は悪化し、社会は大混乱します。

北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出します。
それと同時に、天津に停泊している各国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せた。いまでいえば多国籍軍を編成したのです。

これは当然です。当時北京には、英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインの10カ国と日本の公使館があった。
合計11カ国。総勢約4000名の外交団職員がいた。
放置すれば何をされるかわからない。たのみの清国政府は、むしろ義和団側の肩を持っている。
守備のために一定の兵力を割くのは、どこの国だってあたりまえの行為です。放置したら、それこそ社会問題になる。

そして、呼び寄せられた400名の多国籍軍中に、日本の将兵もいました。
北京には日本の公使館もあったのです。

ただし、日本の軍艦愛宕からきた将兵は、全部合わせて、このときわずか25名です。

20万人の義和団の暴徒に対して、たったの25名の将兵。
これが、支那がいう「正しい歴史認識」による日本軍による「侵略」です。

6月4日、北京~天津間の鉄道が、義和団によって破壊されます。
これによって北京の外交団は、脱出ルートを完全に奪われてしまう。

天津からは、すぐにイギリス東洋艦隊のシーモア提督が、2千名の第2次混成部隊を出発させたのだけれど、鉄道の修復には時間がかかります。
援軍はいつ北京にたどり着けるか、分からない状態になった。
北京にいる外交団4千名と、多国籍守備隊4百名は、完全に北京市内に孤立してしまったのです。

6月19日、清は「24時間以内に外国人全員は北京から退去せよ」と最後通告を行います。
でも、外国人皆殺しを目論む20万の義和団の大群に包囲されている状況下です。
退去なんて無理なのは、あたまから明白です。
びっくりして交渉のために出向いたドイツ公使は清軍によって殺害され(6月20日)てしまう。
そして、6月21日についに清は、北京に駐留していた11カ国の外国人に対して宣戦を布告します。

北京市内では、日本の将兵25名を含む多国籍軍400名と、義和団20万名との戦闘が繰り広げらます。

このときの模様は、「北京の55日」という古いハリウッド映画になっています。
映画の中では、チャールトン・ヘストンが主演する米軍少佐のルイスが、獅子奮迅の活躍をして見事に北京を守り抜く姿が描かれています。実話です。
いまならDVDが500円で売っているので、興味のある方は是非どうぞ。

ただし、このとき、実際にルイス少佐となって活躍したのは、日本人の柴五郎中佐でした。
コロネル・シバとして当時世界的に有名になった。
このあたりの物語は、当ブログの
「義和団事件をふり返る」 に詳しく書いています。

北京市内で激しい籠城戦を戦う将兵、食事の補給も断たれてしまている公使館の人々を、各国はいちにちも早く助け出さなければなりません。

国際社会は、一致団結し、連合して北京の救出に向かいます。
このために編成された救援軍は、約2万。

距離的にもっとも近かったのが日本なので、約半数は日本軍が出動することになった。

そしてようやく7月14日、北京への入口である天津を攻略を開始、ここに兵力を集積した後、8月には北京へ向けての進撃を開始した。

8月14日、連合軍は北京攻撃を行って公使館地区の救援に成功します。
西太后をはじめとする清朝首脳部は北京を捨てて逃亡し、これで義和団事件は事実上終結します。

4月22日の張辛店駅爆破から、この日まで145日。

その間の日本の将兵25名の大活躍、救援にきた日本の将兵の軍規の厳しさ、秩序の正しさに、北京市民は、

「大日本順民」(日本にしたがう市民)

という紙や布をあちこちに貼り、また手旗にして振って、日本軍を大歓迎しています。

また事件後には、北京駐在武官だった柴五郎陸軍中佐(通称コロネル・シバ)は、清国政府の要請で軍事衙門長官(列強駐留軍総司令官・連合軍の最高司令官)に就任し、北京の治安維持に尽力した。

もし、これが侵略を意図した進駐だったなら、北京市民が日本軍を歓迎したでしょうか。
清国政府が列強駐留軍総司令官に日本軍人を推挙・就任させたでしょうか。

しかし、これでも左翼反日に脳みそが固まった人たちは、「そんな昔の事ではない。日中戦争勃発直前の日本軍駐留を問題にしているのだ」というかもしれません。

残念ながら、これも的外れです。

義和団事件から盧溝橋事件前夜まで、なるほど日本は支那各地に軍を駐留させていたけれど、その駐留は支那各地に設けられていた共同租界の中だけです。

共同租界というのは、支那の開港都市で、外国人がその居留地区の行政・警察権を管理する組織及びその地域です。いってみれば、江戸日本の長崎出島のようなものです。

支那では、日本が江戸時代でまだ鎖国していた弘化2(1845)年に、清国政府承認の下でイギリスが上海に租界地を設置したのが最初です。
共同租界は、支那国内に11ヵ国27ヵ所あった。

その数ある共同租界の中の日本管理地区・・・これを「日本租界」と呼びます・・・に居留する日本人や日本企業の警護や、在留邦人保護を目的として、支那政府承認の下で、日本は必要最低限の軍隊を駐留させていた。

支那承認のもとでです。
人員数も、必要最低限です。

到底、全面戦争や侵略戦争ができるような兵力はなかった。

それをいいことに、たとえば昭和12(1937)年の通州事件などでは、婦女子を含むわずか380名の日本人のもとに(兵員は110名)、なんと3000名の支那人たちが襲いかかり、日本人を虐殺した。

虐殺現場を目撃した萱島高氏の東京裁判での証言
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旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。

商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。
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他にも斎南事件、尼港事件等、支那人による暴虐事件は数知れず起こっている。

ちなみに世界の人類の一般的共通事項として、文化的に勝っていると思われる国の女性は、それだけでいい女とみなされる、という傾向があります。アジアで唯一列強の仲間入りを果たし、治安がよく勤勉な日本女性は、それだけで当時の支那人等に、垂涎の的だった。
日本人の女性がいるというだけで、獲物がいるとみなされた。

ついでにいうと日本人は緑茶を飲みますが、緑茶の持つ成分は美顔美白効果があることが最近確認されているそうです。特に日本人女性は肌がきれいといわれ、世界最高の美しさを持っているなどと言われた時代でもあった。ちなみに最近は緑茶を飲む習慣があまりなくなったせいか、この傾向はなくなってきているようです。

すでに清国政府は崩壊しており、当時の支那は、いまでいったらソマリアのような無政府状態になっていた。各地で内乱が続発し、治安は崩壊、とにかく武器を持っている集団になりさえすれば、ありとあらゆる暴行がまかり通る無秩序状態に陥っていた。

そこで日本は、清王朝の皇帝を、清国生誕の地である満州地方だけで民族として自立し、せめて満洲の治安だけでも回復させようとします。これも十分筋の通った話です。

そして人・モノ、カネの献身的な援助を行い、満洲国を建国する。
満洲国には鉄道を引き、街を整備し、道路を造り、橋を架け、建物を造り、農村部の復興の促進を図った。

すると広大な支那の中で、唯一、東北地方だけが瞬く間に豊かで治安の良い地方(国)になった。

支那の他の地域は、まだまだ内乱状態です。女は犯され、男は殺される。田畑は荒れ放題、仕事もない。当然、治安と生活の安全と職を求めて、多くの人々が満洲にやってくる。ついでに支那の暴徒も、その富を求めてやってくる。

おかげで満州鉄道など、年間30万件ものイタズラや損害を受けています。
なにせ線路の枕木まではがして、燃料にされてしまう。

それでも日本は、軍事的な対立を避け、あくまで警察力としての治安維持活動にのみ専念します。
このとき軍は、満鉄の職員組合の人たちから、「腰の軍刀は竹光か!」と罵声を浴びています。
軍があるのに、どうして我々がこんな惨い目にあわなくちゃならないのか、というわけです。
それでも日本は、戦争を避けようとした。

そんななかで起こったのが、昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件です。

同日の真夜中に、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋近くで夜間演習をしていた日本軍に、突然発砲を受けます。

このとき演習中だった日本軍は、なんと実弾を携行していません。つまり、銃は持っていたけれど、弾が入っていなかった。持ってすらいなかった。実弾を持たずに発砲されたため、応戦すらできなかった。つまり、非常に危険な状況に置かれた。しかも時代が時代です。街灯なんてありません。夜のクリスマス・イルミネーションなんかも当然、ない。真っ暗闇の中から、いきなり銃撃されたわけです。

すぐ近くには、蒋介石の国民党軍がいました。
正式名称は、国民革命軍第二十九軍で、兵力は10万人の大軍です。

「丸腰」で演習していた日本軍が「銃撃を受けた」と称して、自ら好きこのんで武装している大軍と事を構える? あり得ないことです。ところが村山富市などは、内閣総理大臣当時にこの盧溝橋を訪れ、「盧溝橋の日本軍侵略行為の往事を反省してきた」などと寝惚けた発言をしている。アホとしかいいようがない。

日本軍が発砲を受けた同時刻、国民党軍も、銃撃を受けました。

日本軍は受けた銃撃を、国民党軍によるものと思い込んだけれど、反対に、国民党軍も日本軍によって銃撃を受けたと思い込んだ。

この事件が発端となって、日本軍と国民党軍は交戦状態に突入します。
しかし、双方共、腑に落ちない点があり、現地解決・事件不拡大方針で交渉、事件発生5日後には、日支両軍は停戦協定を結んでいます。

日本軍も国民党軍も、どちらも事を荒立てたくなかったのです。

では、いったい誰が、夜陰にまぎれて両軍に発砲し、戦闘状態を招いたのか。

いまも支那共産党軍の兵士向けのパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきり書かれています。

当の周恩来首相も、昭和24(1949)年10月1日の「中華人民共和国」成立の日に、

「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」

と明確に発言していま。支那共産党自らが自白しているのですから、これ以上の証拠はありません。

さらにいえば、盧溝橋事件が起きた翌日(7月8日)、支那共産党は「対日全面抗戦」を呼び掛けています。「盧溝橋事件」が起きる事を知っていたからできた手際良さです。

「盧溝橋事件」は、共産党による「謀略」です。
つまり日本軍による侵略行為ではない。
国民党に対して劣勢だった支那共産党が起死回生を図るために、日本と国民党を戦わせ、疲弊させて、漁夫の利、すなわり、支那全土の支配権を得ようとして演出された事件だったのです。

狙いは的中し、日本はその後、8年間もの長期にわたって、広大な支那大陸を舞台に「日中戦争」を戦わされる羽目になった。更にその後、支那共産党は、国共内戦で国民党に勝利し、支那全土の支配権を握ることになった。そうしてできたのが、中華人民共和国です。

ちなみに、シナ共産党は、日本の大東亜戦争終戦後に、なるほど国共内戦で、国民党に勝利しますが、このとき国民とは、米英による援蒋ルートによる物資の補給を断たれていた。戦争が終わったのだから、もう用済み、というわけです。

一方、支那共産党は、武装解除した日本軍から武器や弾薬、食料をせしめた旧ソ連から、豊富な物資の補給を得た。武器・弾薬の補給のあるものと、ないもの。その差は歴然です。わずか1年で支那共産党は国民党を駆逐し、なるほど国内内戦に勝利した。

しかし支那共産党がいう、いわゆる「抗日戦線の勝利」は、嘘です。彼らは日本軍と直接戦火を交えたことは一度もない。支那事変の8年間、彼ら支那共産党は、広大な支那国内を、国民党に追われ、逃げ回っていただけです。

さらにいえば、中華人民共和国を設立したあとの支那が、武力を用いた対外戦争をしかけたのは、チベットであったり、トルキスタンであったりするけれど、相手国がそれなりに武力を持った国との戦争は、ベトナムとの間で行った中越戦争だけです。そしてこの戦争では、支那は、わずか1か月で、ベトナムに敗退している。

そんな支那共産党が、ことある毎に、日本の「過去の戦争責任」だの「正しい歴史認識」と称しては、「日中戦争」によって「中国を侵略」した日本を糾弾し、「反省とお詫び」を要求しています。

しかしそれをいうのであれば、そもそも、「日中戦争」の発端となった「盧溝橋事件」によって、日本は支那国民党との戦闘を8年間もの長きにわたって繰り広げなければならない状況に追い込まれたわけです。

「正しい歴史認識」というのなら、なによりも先ず支那共産党自身が、「盧溝橋事件」で支那共産党軍がやった姑息な謀略行為を公式に謝罪すべきです。

そのおかげで、彼らのいう「日中戦争」という「不幸な過去」と両国民の多大な犠牲と疲弊を招いたのです。支那こそが、戦争責任を自己批判すべきであるとねずきちは思います。

そしてそのようなねつ造した歴史観に基づいて、支那に安易に妥協し、日本の誇りや先人たちの一切の努力を踏みにじり、ただやみくもに支那に媚び、支那に日本のカネを渡してそこからキックバックをもらって、政治資金を得ているような、穢れたヤカラを、心ある日本人は絶対に許すべきでない。

反日や売国がカネになるような、そんな日本は、もはや一刻の猶予もなく立て直しにかかるべきだと思います。