尻不拭 | 神社仏閣旅歩き そして時には食べ歩き

神社仏閣旅歩き そして時には食べ歩き

還暦を過ぎて体にトラブルが出始めて、ランニングを楽しめなくなりました。近ごろはウォーキングに軸足を移して道内の神社仏閣を巡り、御朱印を拝受したり霊場巡礼を楽しんでいます。いつかは四国八十八ヶ所巡礼や熊野詣をすることが夢です。by おがまん@小笠原章仁

 子供の頃(かれこれ50年以上前のこと)、ぼくの両親は共働きをしていたので、家に帰るとばあちゃんだけがいた。だからぼくは、明治生まれのばあちゃんにしつけられたと言っても過言ではない。

 面白いもので、昨日や一昨日のことはすぐに忘れてしまうのに、50年以上前にばあちゃんから言われたことは鮮明に覚えていたりする。「しりふかず」もその一つだ。

 子供の頃、部屋の出入りをするときなどに戸を閉めなかったら、「そういうのをしりふかずと言うんだ」と必ず叱られた。開けた戸を閉めないのは、トイレの後にお尻を拭かないことと同じだ、ということである。そのようにしつけられたおかげで、開けた戸はちゃんと閉めることが多くなった。

 しかし最近、こうした「しりふかず」を多く見かけるような気がする。特に感じるのは、通勤で利用している列車に乗っている時だ。

 以前の通勤列車で使用されていた車両は、(ワンマン列車なので)運転士さんがドアの開閉を行っていた。だか今年の3月から富良野線にも導入されたH100形は、運転士さんは開閉を行わない。駅に到着して運転士さんがドアを開く操作をする。それから乗降客が開のボタンを押さなければドアは開かないのだ。こうすることで、乗降客がいない駅ではドアは開けずに済む。そうすることで車内温度は保たれる。特に寒い冬など大変助かる仕組みだ。むろん、発車するときは、開いているドアは運転士さんによって閉められるのだが。

 車両の外側には開のボタンしかついていない。しかし内側には開のボタンと閉のボタンがついている。最後に乗った者は車内温度保持のため閉めなければならない。しかし平気で閉めずに乗ってくる人も少なくはない。

 日頃、その車両を利用していない人は、自分で閉めなければならないということを知らないのかもしれない。しかし毎日利用している人でも、閉めない人は全く閉めない。ドアを自分で閉めるという意識はないようだ。

 考えてみれば、ぼくが子供の頃と比べて、今は自分で戸を閉める必要のない場面が非常に多い。お店にしても公共施設にしても、自動ドアが設置されているところがほとんどだ。個人の家にしても、開き戸は少なくなっていて、引き戸が多い。そして引き戸の多くは、手を離せば勝手にしまってくれる。開けた戸は必ず閉めなければならないという場面が多くなっているのだ。尻を拭かなくとも、勝手に洗ってくれるような世の中になってきているようだ。だから自分で戸を閉めなければならないようなところでも、戸を閉めるということに思い至らないのだろう。

 むろん、最近では「しりふかず」なんて言葉は聞くことがなくなった。おそらくこうして話しても、言ってることがよくわからないという人も少なくないだろう。これもまた、時代の移り変わりなのかな。