花手水 | 神社仏閣旅歩き そして時には食べ歩き

神社仏閣旅歩き そして時には食べ歩き

還暦を過ぎて体にトラブルが出始めて、ランニングを楽しめなくなりました。近ごろはウォーキングに軸足を移して道内の神社仏閣を巡り、御朱印を拝受したり霊場巡礼を楽しんでいます。いつかは四国八十八ヶ所巡礼や熊野詣をすることが夢です。by おがまん@小笠原章仁

 特に札幌圏の神社を中心に、花手水が盛んにおこなわれており、一種のブームのようになっている。

 神社にはつきものの手水舎。そこに水を張って色とりどりの花を浮かべ、参拝客の目を楽しませる。そんな感じの始まりだった。

 私が道内の神社で花手水を行ったというのを初めて聞いたのは、帯広神社だ。むろん、私が初めて聞いたというだけで、帯広神社が初めて行ったというわけでもないのだろう。ただその時から花手水という言葉を意識するようになった。

 その花手水が見る見るうちに広がり、札幌周辺の神社では花手水詣といったイベントまで開催されるようになった。その豪華さも競うようにエスカレートしている。

 ちょうど新型コロナウイルスの感染拡大により、手水舎の使用を中止する神社も数多く現れた。そんな中での手水舎の有効利用という側面もあったのかもしれない。

 いまでは手水舎自体にもディスプレイが施され、手水鉢を使った生け花アートのような豪華な花手水も見られるようになった。

 どんどん華美になっていく花手水を批判するようなつもりはさらさらない。現実にこの花手水を目的に神社を訪ねる人も増え、花手水を行う前と比べると参拝者が何倍にもなっているよう神社も見かけるほどだから。

 ただ、こうした花手水が行われるようになる前、春に参拝をすると、手水鉢に数枚の桜の花びらが浮かんでいたり、秋には椛の葉が浮かんでいたのを見て、いたく感動したことを懐かしく思い出してしまうのだ。

 生け花のような花手水は、もはや手水ではなく、どこにでも作れる花だ。花手水というからには、花だけではなく手水との組み合わせで美しさを作り出してほしい。桜の花びらや椛の葉は、それだけでは派手な美しさはないけれど、手水に浮かぶことで美しい景色を生み出すことができる。そういう姿をこそ見たいと思う気持ちが、私の中では日増しに高まっている。