Road to SAROMA~懺悔 | 神社仏閣旅歩き そして時には食べ歩き

神社仏閣旅歩き そして時には食べ歩き

還暦を過ぎて体にトラブルが出始めて、ランニングを楽しめなくなりました。近ごろはウォーキングに軸足を移して道内の神社仏閣を巡り、御朱印を拝受したり霊場巡礼を楽しんでいます。いつかは四国八十八ヶ所巡礼や熊野詣をすることが夢です。by おがまん@小笠原章仁

 ホッ、ホッ、ホッ、・・・。(がんばれ元気じゃありません)


 後ろから、聞き覚えのある息づかいが聞こえてくる。これはもしや・・・。

 振り返ってみると、やはり旭川走ろう会の理事長である、S田さんだった。


 レース前にプログラムをほとんど見なかった私は、ネットとチームの仲間以外はどういう人が参加しているのか確認していなかった。そのためS田さんが参加していることは知らなかった。


 S田さんは78歳。今回は50kmに出場しており、50kmの参加者では最年長である(100kmは80代の方もエントリーしていた)。


 私がS田さんの名前を初めて知ったのは、走り始めたばかりの頃、1999年の夏のことである。初めて買ったランナーズ、1999年9月号。この号はサロマの結果の特集が載っていた。サロマ湖100kmウルトラマラソンの元気人たち、ということで、4人のフィニッシャーが紹介されていた。その1人がS田さんだったのだ。


 この年、S田さんは72歳での初挑戦を見事完走。この年の最高齢フィニッシャーだったようだ。これを読んで、すごい人がいるものだと思い、印象に残っていたのだ。尊敬するランナーの1人としてS田さんを崇めていた。


 翌年10月に行われた旭川マラソン。前年までは9月の旭川健康マラソンと10月の旭川マラソンを旭川走ろう会が主催しており、旭川健康マラソンは小中学生から一般まで幅広い層を対象に、そして旭川マラソンはハーフとフルに絞り、本格的市民ランナー向けの大会という色合いだった。それがこの年に統合され、小学生から一般まで幅広い層を対象に、距離も3kmからフルまで幅広く行われる大会となった。参加者も前年の大会と比べると急増した。


 あまりの急激な膨張に、運営体制が追いつかなかったようだ。


 小学生の3kmの部で、競技場に誘導すべき所の誘導員のミスで、子供たちは競技場に向かわずに延々と国道40号を走っていくという事態になったのである。しかもその誘導員は、子供たちがミスコースして走っていくのを呼び止めることもなく、ただ黙って見ていたために、被害はどんどん広がっていった。

 そのため大部分の子供たちはミスコースをし、先頭の方を走っていた子供は倍以上の距離を走る羽目になったのだ。当時小学校6年生のOgakunも、延々とスタルヒン球場のあたりまで走って行ったところでようやく係員に止められて、それからUターンして戻ってきたらしい。HOSSYはさほど被害が大きくならずにすんだようである。


 この年、10kmの部に出ていた私。ゴール近くまで戻ってきた時、競技場から途切れ途切れに聞こえてくるアナウンスに不安を抱いていた。


 「・・・小学生3km・・・レース不成立とします・・・」


 首をかしげながら競技場に向かったが、件の誘導員はこのときも突っ立っているだけで何の指示もしておらず、私はここから入っていいのかどうかわからず不安だった。そのとき事務局の人がちょうど駆けつけてきたところで、件の誘導員を「だから、ちゃんと誘導しろよ!」と怒鳴りつけていたのも見た。


 ゴールすると、異様な集団がある。その中心にいたのが、この大会の事務局長を務めていたS田さんだった。


 その集団の中にいるOgakunに事情を聞き、事態を把握した私。中には泣きじゃくっている女の子がいる。S田さんに文句を言っているお母さんは、函館から来たのに、レース不成立にして参加料を返すというのじゃ納得できないといきまいている。10kmを走り終えたばかりで興奮状態にある私。キレた。


 それからのことは、正直言ってあまり書きたくない。そのくらいひどい言葉を、S田さんや走ろう会の皆さんにぶつけてしまった。まるで私は被害者の会の代表のような態度で、S田さんを糾弾し続けた。S田さんは一言の言い訳をするでもなく、ひたすら私たちに頭を下げ続けていた。


 異常な興奮状態のまま帰宅した私。しかし冷静になるにつれて、自分はとんでもないことをしてしまったという後悔の念に襲われた。いくら大会運営上のミスがあったからといって、いくら走り終えたばかりで興奮状態にあったからといって、S田さんに対して私がとった言動は、許されるものではない。


 私はその夜、丁寧な詫び状を書いた。そして翌日投函し、S田さんの自宅にも電話をした。あいにくS田さんは不在だったが、奥様には丁寧にお詫びを言った。奥様によると、前夜のS田さんはさすがに意気消沈していた模様。私は自分のしでかした事の重大さを改めて感じた。


 翌日、S田さんご本人から電話をいただいた。詫び状も読んでいただけたようで、快く許していただけた。そのとき以来、お付き合いさせていただいている。


 この事件をきっかけに、私は大会を支えてくれる多くの人たちのことを考えることができるようになった。別にランナーは偉いわけじゃない。多くの人に支えてもらい、走らせてもらっているんだということに、ようやく気がついた。それ以来、このような事件を2度と起こさないと誓い、そのためにもマナーをしっかりと守って走らせてもらう、というランニングスタイルも出来上がった。


 そのS田さんとこの苦しいところで会うことができた。


 「僕は関門覚悟で歩いたりしながら行きますから、遠慮しないで先に行ってください」


 そう言いながら安定した走りを見せるS田さん。ぜひS田さんに私が完走するところを見ていただきたい。そう思った。


 ここまできたらスピードはいらない。ゆっくりでかまわないから、着実に前に進むことが肝心だ。キロ7分半までペースが落ちているが、それでもこのペースを維持していければ間違いなくゴールできる。S田さんと会えたことで、再びゴールに向かう強い気持ちが甦ってきた。(つづく)