遊。

 白川静が「一番好き」と語っていたのは、この文字だった。故郷の福井市に建立された記念碑にも「遊」が刻まれている。

 《遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外(ほか)ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた》

 そんな一文で始まる「遊字論」(平凡社ライブラリー『文字逍遥』に所収)を、白川が雑誌『遊』に連載したのは昭和53年から54年にかけて。執筆を依頼した当時の編集長、松岡正剛さん(66)によると、誌名と好きな言葉が一致しているのは偶然だったようだ。「一番好きな言葉が『遊』だったというのは、ずいぶん後から知りました。うれしかったですねえ」

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 遊。それは、隠れたる神の出遊を意味する、と白川は説く。

 《かつて世界は、閉ざされた空間であった》

 どこへでもでかけることができて、この地上のどんな辺境のことでも映像や情報を共有してしまっている現代人には、想像しにくい。だけど《古い時代には、見知らぬ地には悪霊がみちみちていた》のだ。生活空間を広げるのは、簡単にできることではなかった。異民族や野生動物や悪天候や地勢…。出かけることさえ命がけで「呪力」の助けを必要とした。

 「●」は氏族の旗と犠牲を掲げること、「▲」は行くことを意味する、という。さまざまな危険から身を守るため、神霊の依代(よりしろ)を掲げ、未知の世界へ歩を進める。「遊」は、そういう「呪能(じゅのう)」を秘めた言葉だった。

 古代人が文字に込めた呪能は、消え去ってしまったわけではない。これは松岡さんが『白川静 漢字の世界観』(平凡社新書)で挙げている例だが、日本人は同じ「まさと」と読む「勝人」「真里」「魔裟斗」の差を一瞬にして理解できる。表意文字を使いこなし、身につけるというのは、そういうこと。私たちはたしかに3千年の時を隔てた人々と、どこかでつながっている。

 東洋的な精神の起源に迫るために漢字を研究したのであって、その逆ではない。白川はそんな言葉を残している。

 《古代文字の構造が、人文の原初のありかたを解くただ一つの鍵である》

 漢字の成立過程を探ることによって、白川は古代社会の哲学を、思想を、心を語った。その一部はたしかに、現代にまで受け継がれている。私たちはまぎれもなく漢字文化の末裔(まつえい)だ。そう理解すると、この世界のありようまでもが、少し違ってみえてくる。

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 冒頭に記した「遊字論」の一文は、こんな風に続いていく。

 《遊とは動くことである。常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる。(中略)神は常には隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった》

 漢字に隠された意味を、大胆な推論と地道な研究をもって解き明かし、「呪能」という神性の所在をたずね当てた白川。この一節は、まるで彼自身のことを語っているようにも思える。松岡さんに、そんな感想を告げてみた。

 「そうですね。『遊』という字は、白川さんの送った日々、人生全体を象徴しているように思えます」

 長女の津崎史さん(68)によると、白川は96歳で亡くなる直前まで仕事を続けていた。「蘇東坡(そとうば)(北宋の詩人)までやる。120歳までかかる。生涯現役、年中無休だ。そう言って笑ってました」

 出遊。それは「あそびにでかける」という意味だが、白川の口から出ると、放埒(ほうらつ)や怠惰といったイメージはまったくない。背筋を伸ばし、物おじせず、思いをめぐらせて未知の世界を切り開く。そんな態度が思い浮かぶ。「知に遊ぶ」。白川こそ、そのお手本だろう。(篠原知存)

 =おわり

●=遊のしんにゅうを取る

▲=にてんしんにゅう

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