2005年4月25日、生まれて初めて「死」を意識する出来事に遭遇しました。107名の方が亡くなったJR福知山線の脱線事故に遭い、その中でも最も被害が大きく70名以上の死者を出したと言われている(2005年6月現在の情報)2両目に乗り合わせていました。これまでにも「死」という概念を頭の中では理解していたつもりでしたが、死は歳の順に順序通りにやって来るか、仮に病気や事故で死を迎えるにしても、何らかの形で死を覚悟する瞬間のようなものを通過してから訪れるものであると考えていました。しかし今回の事故では、脱線しはじめてわずか数秒後にマンションに激突し車両が大破しました。安全と思われていた電車の中で、同じような場所で同じような条件の中にいたにも関わらず、その数秒の間で生と死が分かれてしまいました。その死は、私が考えていた「死」というものとは全く違う形でやって来て、何の前触れも無く突然多くの方の命を奪いました。
事故直後の凄惨な現場の状況はあまりにもひどく、現在でも脳裏に焼き付いて離れません。その悲惨な状況とは不釣り合いな静けさの中で、助けを求める呻き声や人が動く物音、現場周辺の独特の異臭などが強烈な印象で残っています。事故の当事者として、自分で見て感じた事を出来るだけ正確に書き留めておきたいと思います。
■4月25日(月)
事故当日、午前8時42分に出勤のためいつも通りの時間に自宅を出ました。電車が来る4、5分前にJR生瀬駅に着き、56分発の大阪行き普通電車を待ちました。生瀬駅の前方には喫煙場所があり、私は煙が流れて来ない駅の階段を上った少し前あたりでいつも電車を待っています。定刻通りに電車がやって来て、いつもと同じ場所に乗車しました。その車両の中には、いつも乗っておられるので顔を覚えているご夫婦のうち、旦那様だけが乗車されていました。宝塚駅に着き、同じホームの向かいに止まっている東西線に乗り換えるため、一旦下車しました。本当は同じホームで大阪行きの快速に乗り換える方が便利なのですが、宝塚駅が始発となる東西線の方が尼崎駅まで座って行けるので、大阪方面に向かう人でもこの電車に乗り換える方が多くいます。下車後、いつも通りその旦那様も2両目に乗られたのを覚えています。私も2両目に乗り、進行方向に向かって右側の後ろから2つ目のドア横の席に座りました。9割方は座る事が出来るのですが、座れなかった時にはいつも1両目の一番前に移動して立っていました。もし座る事が出来ずに1両目の先頭に立っていれば、私は恐らく死亡していたと思います。私が座った後に、生瀬から乗車した男性が私の左隣の席に座りました。この時間帯は通勤ラッシュから少し外れており、発車する段階でも立っている人が各車両に十数名ぐらいの比較的ゆったりとした状態で、その日もいつも通りの混み具合でした。生瀬から乗車してきた普通電車が先に発車し、その後同じホームに特急北近畿号が定刻通り入って来ました。この北近畿号は日常的に1~5分遅れて宝塚に到着する事が多く、その出発を待ってから発車する9時3分発の東西線も常に遅れていました。しかし、その日は東西線の快速電車も定刻通りに宝塚駅を発車しました。私はその日、電車の中で眠っていましたが、中山寺駅と川西池田駅で目が覚め、川西池田駅で車内の吊革が全部埋まるぐらいの混み具合になったのを覚えています。川西池田駅を出発した後は、本格的に眠ってしまったようで何も覚えていません。伊丹駅で起きたオーバーランにも気づきませんでした。
私が目を覚ましたのは、車体が「ガタガタ」という振動と共に揺れはじめた時です。「もしかしたら脱線したのでは…」とその時に感じたのを覚えています。その数秒後、立っている方が前方に滑るように流されて行くのが見えましたが、その段階で電車はかなりのスピードだった様な気がします。はっきりとは覚えていませんが、その時間は恐らく2、3秒のわずかな時間だったと思います。脱線ならばそのうちに止まるのではないかと思い、それ程恐怖も感じませんでしたが、次の瞬間のもの凄い衝撃で、私を含む座っている乗客が飛ばされて行きました。その時はマンションにぶつかった事など想像もしていませんでしたが、車体が何かに蹴つまずいたような印象を受けました。1秒ほどの記憶でしょうが、空中を飛ばされている記憶があり、自分の下にも同じように飛ばされている人がいたのを覚えています(図-1)。まるでプラスチックの卵パックを手で握りつぶす様に、飛ばされている空間が一気にメチャクチャに壊れていきました。メリメリと車体がつぶれ、自分たちがいる空間がどんどん無くなって行く様子がわかりましたが、自分が何処にぶつかり、どのような形で静止したのかはわかりません。ずいぶん後になって事故当時欠落していた記憶の一部が蘇り、夜中に突然目が覚めました。写真のワンショットのような記憶ですが、私は上下左右に掻き回される事も無く、瓦礫の固まりのようになった車内をほぼ一直線に飛ばされて行ったように見えました。これが正確な記憶と言えるものなのかはわかりませんが、これまでに自分がくり返し頭の中で反芻してきた映像とは違う場面でした。しかし、その先で何処にぶつかり自分が止まったのかは思い出す事が出来ません。
電車が停止してすぐに意識がありましたので、気を失ってはいなかったようです。眼鏡はそのまま顔に張り付いていました。電車が止まった時に私が飛ばされていた場所は、2両目の車体がマンションの角に激突して折れ曲がったところから、少し大阪方面寄りのマンション駐輪場通路側でした。車両は大破しており、どちらが上か下なのか、ドアがどこにあるのかも分からない状態でしたが、私がいた空間は車体が大きくえぐられており、天井から側面まで丸ごと裂けて剥ぎ取られた様な状態でした。その部分は車内とも車外とも言えるような場所で、上部から降り注ぐ光によって凄惨な現場をはっきりと確認する事が出来ました。車両の下からたくさんの人が積み重なり、その間に外れた座席が挟まって山の様な状態になっていました。その山の上の方に、私の右足太腿から下が挟まっており、足1本で上から宙吊りにぶら下がっている様な状態でしたが、体勢を立て直すために私のすぐ目の前にあったマンションと線路を仕切る鉄板に掴まって、腕の力で体を上向きに引き上げました。この茶色の鉄板は、強度を増すための凸凹の溝が横に走っており、そこに指を掛ける事が出来ました。2両目が激突した柱から、マンション駐輪場の通路に沿って建てられていたこの鉄板は、事故直後2枚目までが垂直に立っており、進行方向に向かって3枚目が通路側に少し倒れていました。私がぶら下がっていたのは、この2枚の鉄板と車体との間に出来た、わずか1メートルほどの空間ですが、ぶら下がった状態のままで「倒れた3枚目の隙間から脱出出来る」と思ったのを覚えています。マンションへの衝突や、2両目に激突した3両目の衝撃があと少しでも強ければこの生存空間が押し潰されていたと思います。
足が挟まった状態で周りを確認すると、私の周りの殆どの方が血まみれになっていました。私の左足の下にも血だらけの人が横たわっていました。そのため左足を下につく事が出来ず、鉄板に掴まりながら足が置ける場所を探しました。こうした凄まじい光景にも関わらず、事故直後、私がいた場所では人や車体など何も動くものがなく、時折「うー…」という呻き声が聞こえてくるだけで、現場に不釣り合いな静けさを保っていました。私は、見える範囲で自分の体にそれ程損傷を受けていない事を確認しましたが、挟まっている右足にはかなりの痛みがあり、もしかしたら骨が折れているかもしれないと思いました。何とか足を引き抜こうとしましたが、足の上にも人や座席が積み重なって締めつけられており、全く動かす事が出来ませんでした。その時、人が動く気配があり、何かの部品が地面に落ちて「カラン」という音を立てました。奇妙な静けさの中で、その音がとても印象に残っています。
車両の上の方から「誰か警察に電話をしろ」という声がしましたので、上着のポケットに入れていた携帯電話で「110」に通報をしましたが、周辺住民や他の乗客も警察に電話を入れているはずなので、こんな事をしている場合ではないと思い、繋がる前にすぐに電話を切りました。携帯には9時20分にかけた履歴が残っています。とにかく足を引き抜いて周りの方の救助に当たらなければと思い、まず自分の首に絡まっていたヘッドフォンを引きちぎってその場に捨てました。その後ネクタイを外しましたが、足が抜けた時に怪我をしていた場合、止血帯として使えるかもしれないと思ったので捨てずに上着の内ポケットにしまいました。再び足を引き抜こうと試してみましたが、全く動きませんでした。私のすぐ横に両足が人の山に挟まれ、仰向け状態でぶら下がっている男性がいましたが、血だらけで全く動く気配がありませんでした。それとは反対側に、車両とマンションの隙間に立っている女性がいて、私の足元に横たわっている人を引き起こそうとしているのに気づきました。「子供がいるんです。子供を探して下さい」と私に訴えて来ましたが、足が抜けない以上どうする事も出来ず、「足が抜けたら一緒に探します」と声を掛けました。その方は、子供が下敷きになっているのではないかと思っていたようで、しきりに私の足元に横たわっている人や仰向けにぶら下がっている男性を動かそうとしていました。
現場にはプラスチックを裂いたような、薬品っぽい強烈な異臭が漂っていました。この頃になると、「助けて」という叫び声や「痛い痛い」「動かないで」という声が聞こえてきました。女性の声だったように思います。ちょうどそのぐらいの時に、私の足の上に乗っていた方が動いてくれました。車両の上部にはまだ空間が残っており、進行方向と反対側に移動されたので性別も顔もわかりませんでした。その方が移動した後に、私の足と車体の間に挟まっていた座席を自分で引き抜き、鉄板の向こう側に駆けつけてくれた人がいるのがわかりましたので、その座席を鉄板越しに渡しました。そうしてようやく自分の足を引き抜く事が出来ました。その時に右足の靴が脱げましたが、現場はガラスや金属片が散乱していたので、手で靴を引っ張り出しその場で靴を履きました。靴を履くときに右足首を負傷しているのがわかりましたが、その時はそれほど強い痛みは感じませんでした。
足が抜けてねじ曲がった車体の一部の上に立った時、車体上部の空間から子供を差し出す手が見えました。手しか見えませんでしたので、どういった方がその子供を手渡してくれたのかは分かりませんでしたが、その子供は血をかぶる事も無く、無傷だったように思います。性別もはっきりとは覚えていませんが、手の力だけでその子供を受け取る事が出来ましたので、幼稚園児ぐらいだと思います(後の情報で4歳児だと判明)。偶然その子供は、私の隣にいた女性の子供でしたので彼女に手渡しました。私の足の下に横たわっていた男性はまだ意識があり、まずその方を外に連れ出そうとしましたが、引っ張り上げるために踏ん張る場所が無く、とても一人では引き出せそうにありませんでした。私は通路に集まって来た方に「誰か中に入って来て下さい」と声を掛けました。そうすると3枚目の鉄板の隙間から男性が2名入って来てくれましたので、3人でその男性を外に運び出す事が出来ました。その後、私はもう一度車内に戻りましたが、私の足が挟まっていた人の山とは別の所に折り重なっていた山の下の方から、女性の「助けて下さい」という声が聞こえて来ました。かがんで見てみると、仰向けの女性の顔だけが見えており、その上にはたくさんの人や座席が複雑に積み重なっていました。上に折り重なっている人たちも全員が血まみれになっており、中には片目が潰れている方や、顔が裂けている方などもいましたが、殆どの方が意識を失っているか、既に死亡されていたようでした。「大丈夫か」とその女性に声を掛けました。「大丈夫ですか」ではなく「大丈夫か」と声を掛けたのを覚えています。女性は「上に乗っている人をどけて下さい」「助けて」と私に訴えてきましたが、自分の頭より上方にいる意識の無い人間を、腕の力だけでは到底動かす事が出来ませんでした。彼女の下にも顔が見えない状態で数名の方が下敷きになっていましたが、上半身がどのようになっているのかさえ分からない状態で押し潰されていました。その時、救助に駆けつけてくれた方が、救助の妨げになっていた通路と車体の間を隔てている2枚の鉄板を外すため、モンキーレンチでボルトを外しているのが見えました。ボルトを外し終えると数人で鉄板を通路側に引き倒し、上に乗って鉄板を地面に押し倒しました。この状態になって初めて、通路側から2両目の車両の中を見る事が出来るようになりました。負傷者ではない方が救助にあたりはじめたので、私はその女性に「頑張って下さい」と声を掛けて通路に避難しましたが、仰向けになったその女性の顔が今でも忘れられません。助けを求められても何もしてあげる事が出来ず、目の前で人が死んでゆくのを成す術もなく見ているしかなかった自分の無力さを痛切に感じています。今でも、その女性が無事に救出されたのかがとても気に掛かります。
マンション駐輪場の通路には、既に数名の方が自力で脱出していました。この通路側はマンション下の通路を通って来なければいけない場所なので、外部からあまり多くの方が入って来ていませんでした。通路に出たときに、まず自分の体の負傷具合を確認しました。スーツやシャツは血だらけになっており、ズボンも割けている箇所がありましたが、自分自身の血ではありませんでした。しかし、足首にはえぐれたような外傷があり、そこからは出血がありました。その後、通路にある非常階段付近で自分の携帯電話から自宅に電話を入れましたが、その時、自分の手に何かが付着しているのに気づきました。半熟卵の白身の様なもので、何かは分かりませんでしたが、潰れた目玉、もしくは口内などの柔らかい部分の一部の様でもありました。電話を切った後、再度車両の方に近づいて行きました。線路側からも既に多くの方が救助にあたられており、足を痛めていた私が手伝えるような事が無かったので、その付近に自力で脱出していた負傷者に声を掛けました。同じ車両で隣の席に座っていた男性が血をかぶってグッタリと柱にもたれて座っていたので声を掛けましたが、放心状態だったようで何も反応はありませんでした。その時、同じく自力で脱出した男性から携帯電話を貸して欲しいと頼まれ、手を負傷しているようでしたので番号をプッシュして渡してあげました。
その男性から携帯電話を返してもらった時に、通路に膝を抱えてうずくまっている女性に気づきました。頭から血を流し、左目が紫色に腫れ上がって全くふさがっている状態でした。右目は無事のようでしたが、体を震わせて「目が見えへん、目が見えへん」と言っていたので、その方の隣に座って手を繋いであげました。その女性がパニック状態になりそうだったので、「大丈夫、すぐ助けてもらえるから」と声をかけ続けましたが、私の声が耳に届いていないようで、「目が見えへん」と絶叫し始め、「これって現実?」「私の人生メチャメチャや」と叫びはじめました。私の手のひらに爪が突き刺さるのではないかという力で握ってきて、明らかにパニックになりつつある状態でした。今考えてみると、右目は無傷のように見えていましたが、ショックで両目とも見えておらず、周りの状況が分からなかったのであのようなパニックになったのではないかと思っています。救助の邪魔になる場所だったので立たせて一緒に通路の奥に移動しようとしましたが、「行かんとって!」と言って私にしがみついて来ました。腰が抜けてしゃがみ込んでいる状態のまま固まっていたので動かす事も出来ず、そのままそこにいる事にしましたが、女性は「ギャー」という奇声と共に自分のストッキングを掻きむしり出しました。それを見て、近くにいた男性も声を掛けに来てくれましたが、全く耳に届いていない様子で、今にも自分の目を掻きむしり出すのではないかと、私の方が恐怖を感じました。私たちの手に負える状態では無くなってきましたので、近くにいたレスキュー隊員に声を掛け、先に連れて行ってもらうようにお願いしました。その女性を連れて行って頂いた後に、初めてマンション下の通路を通ってマンションの反対側に出ました。そこには既に多数の負傷者が集まっており、次々と重傷者が運び出されていました。その段階でかなり多くの方が救助に来ていましたが、外した座席を担架代わりにして自力で歩けない人を通路に運び出していました。私は邪魔にならないように駐車場に続くその通路のフェンス越しに座り、隣にいた女性に声を掛けてしばらくその方と一緒にいました。ひと安心したのか、急に猛烈な喉の渇きに襲われました。どこかに自動販売機はないかと辺りを見回すと、通路を出た左手に自動販売機がありました。水を買いに行こうかと考えていると、周辺住民の方がペットボトルの水を配りに来てくれました。丁寧にキャップを外して、一人1本ずつ配って下さいました。
次々と負傷者が運び出される中、どこからともなく大量のブルーシートが運び込まれ、マンションに沿って通路にシートが敷かれていきました。一体これらのものはどこから運ばれて来るのか不思議に思いましたが、非常に手際よく、自然に役割分担が決まって事を進めているようでした。私が座っていたところから、工場から持ってきたと思われる大きなペンチでフェンスに切り込みを入れ、数人で剥がしにかかっているのが見えました。そのうちに制服を着た女性が、水で濡らしたタオルや氷を入れた袋、三角巾などが入った救急セットの様なものを配ってくれました。私は右足首にあった傷を氷で冷やしてからタオルで押さえて、その上から三角巾で縛って固定しました。私の前に敷かれたブルーシートの上にも次々と負傷者が運ばれて来ました。私はマンション入り口付近でグッタリしている方のところに行き、「大丈夫ですか」と声を掛けましたが、ショックを受けているのか「はい」という返事しか返って来ませんでした。救助に来られた方が「足を怪我しているなら、座っていた方がいいですよ」と言って下さったので元の場所に戻ろうとすると、私が座っていた場所の二人左隣のフェンスにもたれ、うなだれている男性が目に入りました。私服を着ていたので大学生ではないかと思いますが、四肢を投げ出して一点を見つめたままじっと動きませんでした。その男性に近付いて声を掛けると、「背中が痛い」と訴えてきました。顔に血をかぶっていましたが自分のものでは無いようで、出血は特にありませんでした。「水を飲ませて下さい」と言うので、ペットボトルを持って口に運んであげましたが、自力で飲み込む事が出来ない様子で、そのまま口から溢れ出てしまいました。しかし、そうしているだけでも少しは喉の渇きを癒せる様でしたので、数回に分けて水を飲ませました。また「背中が痛い、横になりたい」と訴えて来ましたが、もし背骨を損傷していた場合、安易に動かさない方がいいと思ったので躊躇していると、自分で横になろうとし始めたので、手を貸して横にしてあげました。通路は駐車場に向かってなだらかな勾配がついており、頭が下になる状態でした。その様子を見ていた方が、袋に布を詰め込んだ枕を持って来て下さり、その男性の頭の下に敷きました。左腕と左足が折れているようで、動かすともの凄く痛がっていました。固まった血の粉が目に入って痛いと言っていたので、濡れたタオルで目の周りを拭いてあげました。しきりに背中の痛みを訴えていたので、近くにいた救急隊員に診てもらいましたが、当面は大丈夫という事でそのままその場に一緒にいる事にしました。そうこうする内に日が高くなり、直射日光が照りつけてかなり暑くなってきました。その男性を動かす事が出来ないので周りにいた方にお願いすると、工事用の三角コーンの間に渡す棒を柱にして、ブルーシートを掛けた簡易のテントを作ってくれました。その場はまさしく大惨事の現場という感じではありましたが、救助をしている人たちや、看護をして下さっている方々の動きからはパニックのようなものは感じられず、皆がやるべき事をきちんと把握して状況に対処をしているというのがとても印象的でした。後から、この方たちは近くの日本スピンドルの社員や工場の方たち、市場の職員、周辺住民だった事を知りました。あの方たちの連携には本当に感動し、私たちを助けて下さった事に今でも深く感謝しています。
その後は、枕を作って来て下さった女性が男の子に付いていて下さる事になったので、私は気になってもう一度マンション反対側の駐輪所の方に行ってみました。私がいた2両目からは、次々と負傷者が運び出されていました。既にレスキューの専門家によって救助が始まっていましたので、私に手伝える事は何もありませんでしたが、その時、頭の皮がめくれあがった負傷者が担架に乗せられて運ばれているのが見えました。全身血の塊の様になって全く動く気配すら見受けられませんでした。私は再び元の場所に戻り、先程の女性の隣に座ってもう一度自宅に電話を入れました。その後にテレビ局の取材を受け、車内の様子などを聞かれましたが、頭の皮が剥がれている場面の印象が強烈で、「僕の居た場所の状況は、ひど過ぎてとても言えない」と答えたのを覚えています。しばらく待っていると「軽傷者の方、集まって下さい」とのアナウンスがありましたので、マンションのエントランス方面に移動しました。マンション前の道路を渡り、踏切の横の木陰になったスペースで待機しましたが、その時初めて踏切側から大破した事故車両を目にしました。その時に北海道にいる友人から「宝塚の方から来た電車がえらい事故ですけど、大丈夫ですよね」というメールが10時26分にありました。ちょうど待ち時間だったので折り返し29分に電話をして、乗っていたけど無事だった事を伝えました。その電話をしている間にマイクロバスが行ってしまったのでしばらく待っていると、別のワンボックスカーがやって来ましたが、目の前で満員になりまた乗れませんでした。次の車を待っていると、新聞社の方に声を掛けられ取材にお答えしました。そうしたやり取りをしていると、次々とマスコミの方が寄って来たのでなかなか車に乗れなくなってしまいましたが、近くにいたワンボックスカーの助手席に乗せてもらい、パトカーの誘導で中央市場の敷地内を横切って尼崎中央病院まで搬送して頂きました。業務用のバンのため後部座席が無かったので、そこに二人の負傷者と二人の付添人が乗り込みました。骨折をしていたようで、車が振動するたびに「痛い、痛い」と言っておられ、付添い人が「頑張れ、もう少しや」と励ましていました。
病院に着くと大混雑をしており、簡易に作った受付で名前と住所を記入しました。キャスターのついた机を担架代わりにして運び込まれてくる重傷患者もあり、病院は騒然とした雰囲気に包まれていました。入口付近にまで増やされた椅子から順番に中へ移って行くと、待合場所にある大きなモニターに事故現場を中継する画像が映し出されていました。そこで初めて自分が乗っていた2両目の破損状況の空撮を見ましたが、あのような状態の中からよくこの程度の怪我で生き残れたものだと感じました。その中継の時には1両目の行方がわからず、「く」の字に折れ曲がった2両目が先頭車両だと思われていました。順番を待っている間にいつも生瀬駅でお会いする女性とそのお友達を見かけしましたが、元気そうな姿でしたので安心しました。また、私の前で順番を待っていた高校生3人は、話の内容からしてこれから遠足でUSJに向かうところだったらしく、一緒に乗車していた友達の安否を心配していました。私の診察の順番が回ってきて診察室に入ると、「まず歩いてみて下さい」と言われました。もし骨折していれば歩く事すら出来ないので、骨折はしていないという診断でくるぶしの外傷を消毒し、ガーゼを貼って診察が終わりました(2ヵ月後、右足腓骨骨折が判明しましたが…)。
そのまま自宅に帰っても良いと言われましたが、血だらけのスーツで何処に行けばタクシーが拾えるかも分からず、とりあえず病院の隣にある公園から自宅に電話をして、これから帰宅する旨を伝えました。公園の前に止まっていたタクシーに「乗せてもらえますか」と聞くと、予約があるようで断られました。他にタクシーの姿も無かったので、JR尼崎駅方面に歩いて行きましたが、その頃になって急に右足の痛みを感じるようになり、歩行が困難になりました。足を引き摺りながら駅前に向かって歩いていくと、JR西日本の職員が負傷者らしき人をタクシーに乗せているところが見えました。私もタクシーを呼んでもらいたい旨を伝えましたが、失くした鞄の件を確認すると名簿を事務所まで取りに戻りました。その間、立って待っているのが辛かったので、ビルの壁にもたれて地面に座っていましたが、血を浴びたスーツを着て平日の昼間に座り込んでいる人という事で、通りすがりの人から変な目で見られたのを覚えています。
自宅に着くと、家の前で妻が出迎えてくれました。妻は思ったよりも取り乱してはおらず、落ち着いているように見えました。後で話を聞いてみると、自分で電話もして来たし、ニュースの映像で私がインタビューを受けている場面を見たそうなので、その様子から想像して、私が乗っていたのはずっと後ろの車両だと思っていたそうです。マンションに激突して大破しているのが2両目で、そこに乗っていた事を伝えると驚いていました。服を着替えると、シャツの中からガラスの破片が出てきました。車両の窓ガラスの欠片だと思います。血だらけのスーツとシャツ、ネクタイはゴミ袋に入れておきました。革靴にも血が付いていました。右足は大腿部より下が腫れており、特に足首は腫れあがっていました。かなり強い力で締め付けられていたのだと思います。くるぶしの所にえぐられた様な深い傷が4箇所、右膝の内側に打撲と擦り傷が2箇所ありました。左足首の上と両腕にも打撲の痕が残っていました。鏡で自分の顔を確認してみると、何箇所か血が付いていましたが自分のものではありませんでした。顔の左上の生え際と右のコメカミにも擦り傷がありました。両目の眉毛あたりに眼鏡のフレームの形に打撲の痕があり、鼻の付け根にも痛みがありました。メガネの鼻パッドが変形していましたので、顔の正面から何かにぶつかったのだと思います。
テレビでは、どのチャンネルでも事故の現場を報道していました。その日はずっとテレビを見ていましたが、私の安否を確認するための電話が鳴りっぱなしで、その応対をしていました。ニュースで私のインタビューが流れた事で、事故に遭った事を知った方が多かったようです。しばらく落ち着いてから何気なく頭を掻くと、爪の中が黒くなりました。妻に見てもらうと、粉のような細かいガラスの破片を被っていました。くしで髪を梳くとガラスの破片が落ちて来ましたので、庭で髪を払うと細かな粉がたくさん落ちて来ました。鼻の中も真っ黒になっていました。現場に舞っていた埃のせいだと思います。しばらくテレビを見ていると、整形外科で仕事をしている友達から電話が掛かって来ました。事故の状況から見ても絶対に全身を強打しているので、今日中にもう一度精密検査を受けた方がよいと強く勧められましたので、15時頃、タクシーを呼んで宝塚市立病院に行きました。受付で事故の事をお話しするとすぐに分かってくれましたが、診察はあまりきちんとした対応ではありませんでした。こちらから何度もお願いをして、首、足首、顔面のレントゲンと頭部のCTを撮ってもらいました。それらを見た限りでは、骨折やひび割れなどの深刻な問題はなさそうでした。診察後、病院に来ていたJR西日本職員から謝罪があり、治療費や通院のための交通費、破損した物の弁償などの実費を補償する旨を約束してくれました。引き続き警察による簡単な事情聴取があり、19時頃に帰宅しました。
■4月26日(火)
前日は夜中に目を覚ます事もなく、朝までぐっすりと眠れました。しかし、目が覚めると全身に激痛が走り、ベッドから起き上がるのも困難な状態でした。妻に手を持って引っ張り起こしてもらわなければ起き上がれず、事故現場であれだけ動き回れていたのが不思議です。右足の腫れは更にひどくなり、大腿部から下が全体的に黄色っぽく変色していました。膝から下の筋肉がむくんでおり、指で押すとそのまま凹んだ形が残る状態でした。この日も1日中テレビを見ていましたが、車両の中に未だに閉じ込められている方がいたので、心苦しい思いで見ていました。その反面、あまりにも突然にこの様な事に巻き込まれたので、事故に遭ったという実感があまり無かったように思います。テレビの映像を見れば見るほど悲惨な現場だったというのは分かりましたが、もしかしたら自分は死んでいたかもしれないという事が中々実感として沸いて来ませんでした。
■4月27日(水)
この日もまだ全身が痛く、起き上がるのが困難でした。打撲した箇所が濃い黄色に変色し始め、一番状態がひどかった足首は更に腫れあがって紫色に変色し始めていました。また、足首外側の筋が、歩くたびにコキコキと変な音を立てている様な妙な感覚でした。「このまま放っておいて良いものか…」と思いましたが、もう少し様子を見る事にして、医者に言われた通り安静にしている事にしました。鼻の付け根は触ると痛く、目の周りにもくっきりと眼鏡の痕が残っていました。
日を追うごとに、新聞記事の中で死者と負傷者の数が増えていきましたが、27日の朝刊記事の中で70名以上が2両目で亡くなっている事を初めて知りました。その記事を読んだときに、これまで「自分は助かって良かった…」と思っていた感覚に変化が起こるのが分かりました。その当初は、乗客数が580人ぐらいと報道されていましたので、7両編成で割ると1両あたりに約83人になり、前方車両の方が多く乗っていたとしても、90人中70人が亡くなった場所に自分がいたという現実を、その記事で突き付けられた様な気がしました。90人中で20人しか生き残れなかった内の一人である事を知った時に、自分が助かった事を素直に喜べないという感情と「生き残った」という感覚が、初めて自分の中に生れてきた様に思います。後に報道で「サバイバーズ・ギルト」という言葉が頻繁に使われるようになりますが、この時点ではまだそうした内容の報道はされていませんでした。しかし、この段階で自分の中には「生き残った事に対して申し訳ない」という気持ちが既にあり、こうした感情がメディアの報道に影響される事なく、自分の中にも自然に生れたのだという事を感じています。
その後、メディアの方が直接自宅に来るようになりましたが、ほとんどの方がとてもいい方で、こちら側の心情を察した上で丁寧な取材をして下さいました。話す側としては中途半端に聞かれるよりも、最初から全部聞いてもらいたいという思いがありましたので、いつも2時間ぐらいの取材になりました。取材後は心身ともに疲れて、寝ている事が多かったように思います。しかし、事故の原因解明や事故の状況をお伝えする事に少しでも役に立てているという事が私にとっての救いでもあり、話を聞いてもらえた事で気が楽になっているのが実感出来ました。自分の妻には凄惨な現場の詳細を話す事が出来ませんでしたが、メディアの方に事細かに聞いて頂けた事によって、自分の中に鬱積していたものを少しずつ吐き出せたのではないかと思っています。この事故では、表面的な傷と同時に心の傷についても大きく取り上げられましたが、誰かに自分の体験した事を聞いてもらうという事はとても大切な事だと思いました。ある意味で、私にとっての聞き役になってくれた記者の方々にはとても感謝しています。
テレビでは、電車がマンションに激突した様子や、高速で激突した時の車内のシミュレーションを繰り返し放送していました。あの映像を見るたびに、2両目の中で自分がこの程度の怪我で済んだのは、きっと誰かがクッションになってくれたからではないかという思いに駆られるようになりました。車内で自分がどの様にぶつかったのかは記憶していませんが、実際そうでなければ、あの様な状態の車内で生きていられるはずがないと思いました。
5月1日の朝刊で、対向車線を走っていた北近畿号が事故現場の手前、わずか100メートルの所で止まっていた事を知りました。同じ1カットの写真の中で、事故車両と現場手前で止まっている北近畿号が写っていました。その電車が停止したのは事故車両の車掌からの通報ではなく、たまたま黄色になっていた信号と砂煙に気付いた北近畿号の運転手の機転により停車した事も知りました。高速で走っている電車にとって、100メートルという距離はわずか数秒の事であるに違いありません。この事実を知った時に、自分の命がいくつもの偶然によって助けられた事を実感しました。マンションの鉄板と事故車両とのわずか1メートルの隙間にいた私は、この北近畿号が事故車両に突っ込んでいれば確実に死亡していたに違いありません。こうした事実が報道によって次々と明らかになるにつれ、自分の命はいくつもの偶然と誰かの犠牲の上に成り立っているのではないかという思いが強くなってきました。
ゴールデンウィーク中は、出歩く事も出来ず自宅で療養していました。1階のリビングに持って下りた布団で横になるか、安楽椅子に座ってテレビを見ていました。あのような事故が起こった本当の原因を知りたかった事と、いつも同じ車両に乗っていた乗客の安否が気になったので、出来るだけ情報を仕入れるようにしていました。新聞やテレビで遺族の映像が流れると、見知った顔がいないかが気になりました。また、事故現場で助けてあげる事が出来なかった女性の事が頭から離れず、「生きていて…」と願いながら重苦しい日々を過ごしました。遺族の映像を見るたびに、もしかしたら自分の家族がそうした立場になっていたかもしれないという事を考えずにはいられませんでした。事故そのものの悲劇も然る事ながら、その後のJR西日本の相次ぐ不祥事や体質などが明らかになり、「いったいこの事故はどんな結末を迎えるのだろう…」と日々不安がつのりました。同じ事故車両に乗っていた者同士が中々連絡を取り合えない中で、自分だけが周りから取り残されているような感覚を覚えました。
6月19日のJR福知山線の運転再開は、私に予想以上の大きな動揺を与えました。これまでに自分も福知山線を便利に利用していましたので、運転再開の時期についてはある程度理解をしていたつもりでしたが、満員の乗客を乗せて事故現場を通過する電車の姿をテレビで見ると涙が止まりませんでした。この日は昼から出社していましたが、事故後一番憂鬱な一日で、これまでに無い感覚を覚えた日となりました。運転再開により、日に日にこの事故が風化されていくのだろうという事を実感する一日でした。あの路線を利用している全ての人が、あの事故の犠牲者になっていた可能性があるにも関わらず、あんなにもたくさんの人がもうJRを利用し、以前と同じように事故現場を通過している事がとても奇妙に見えてしまいます。これまで私があまり気に留めていなかった事件や事故の陰で、その後、何年にも亘ってこうした心的な苦しみを抱え続けている被害者や遺族がいる事にようやく気づきました。
7月6日、事故後初めて電車に乗ってみる事にしました。約2ヶ月ぶりに乗り込んだ車内で、最初に目にとまったのはブルーの座席でした。救助の時に担架代わりに使われ、折り重なった人の山に絡まって積み重なっていたので、私の記憶に深く刻みつけられています。その後改めて電車の中を見てみると、鉄のポールやステンレスのボディ、プラスチックの壁、クーラーの羽など、一旦事故になると全てのものが鋭利な凶器となり、乗車している人の命を奪うのだと感じました。事故後、自分の車の内装をこうした目で見た事がありますが、ハンドルやダッシュボードには鋭利な裂け方をしないプラスチックが使用されており、事故を起こした時にこれらが突き刺さるだろうという物はあまり見受けられませんでした。これは、自動車は事故を起こすものだという前提に作られているからではないかと思っています。それに引換え、電車にはシートベルトやエアバッグも無く、高速で走っているにも関わらずラッシュ時にはスシ詰めの状態で運行しています。この状態で脱線、衝突すれば、どれだけ車両を頑丈な材質にしたとしても多数の死傷者が出るのは当然の事と言えます。電車が、こうして乗客一人一人の安全に対する設備を提供できない状態で運行せざるを得ない以上、絶対に事故を起こしてはいけないのです。乗客は安全を信じて乗車し、それに身を委ねるしかないのですから。
あの事故から1年半が経過しました。
私が乗車していた2両目。これまでに、何度も事故現場の写真を目にしてきました。無残に折れ曲がった車両の中で、なぜ私は助かったのか。私と亡くなられた方との違いは何だったのか。都会の真ん中で起こった事故にも関わらず、亡くなった家族の乗車位置はおろか、乗車していた車両すらわからないという、この事故の不条理さ。「愛する家族に少しでも近づきたい」という遺族と共に探し続けた「最期の乗車位置」とは、私にとって一体何を意味していたのか。私の妻は、何故遺族にならずに済んだのか。誰かの犠牲の上に、今の私の命、私たちの生活があるのではないのか。私はこの1年半、ずっと考えずにはいられませんでした。
この事故が遺した傷跡は計り知れません。多くの人々の未来を一瞬で奪い、この事故に関わった人々の生活を一変させました。ケガや刻まれた記憶との闘いは、あの事故を直接体験した者にしかわからない痛みかもしれませんが、この事故は、果たして当事者である私たちだけの問題なのでしょうか。あと1時間早いラッシュアワーの只中にあの事故が起きていれば、全く違う乗客が犠牲になっており、更に大きな被害が出ていた事は間違いありません。公共交通機関の「安全」とは、もしかするとそれを利用する私たちが、「安心して乗車できる鉄道の実現」のために、日々「安全」を求め続けてゆかなければいけないのかもしれません。私は、事故の歴史は安全の歴史でもあると信じています。この事故に関わった私たちが、この事故から何を感じ、何を学んだのか。そして何を変える事が出来るのか。当事者である私たち一人一人が、考えて行動して行かなければいけないのではないかと感じています。私たちが事故の記録を残す事によって、こうした被害を受けた者が必要としている「支援の在り方」と「安全の歴史」に、少しでも貢献する事が出来るのであれば嬉しく思います。