1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2012年01月27日(金)

神戸地検での説明会

テーマ:ブログ
先日、JR福知山線事故で業務上過失致死傷罪で罪に問われていた、山﨑氏に対して「無罪」が言い渡されました。その判決に対して、神戸地検が控訴をしないということになりましたので、被害者に対して説明会が開催されることになったようです。
僕は、山﨑氏個人への裁判に関しては全く関わるつもりはありませんでしたが、今回の検察の動きに関しては言いたい事がたくさんあるので出席するつもりです。

そもそも山﨑氏が起訴されることに関しても、検察が勝手に「危険を予測する義務を怠った罪」ということなら立件出来るだろうということでATSに焦点を当て、山﨑氏にターゲットを絞ったのですが、個人にしか過失を追求出来ない司法制度の中では、彼が無罪になるのは目に見えていました。
でも、この裁判をやる事によって、山﨑氏がATSを付けなかった=カーブの危険認識が無かったことが事故原因であるかのように世間に伝わってしまい、JR西日本という組織がこれまで果たして来なかった安全への投資や、組織内の大いなる問題点(知れば知るほど、これじゃ事故は起きる…と思えるほど脆弱)に対しての視点が完全にズレてしまったように思いますので、社会に対する影響力という意味でも、検察にはこの裁判をやった責任があると思っています。

控訴をしないと言うのも僕は理解しているつもりですが、裁判に関わった遺族は、被告側の無罪の主張にはもちろんのこと、裁判官にも検察官にも裏切られた…という気持ちになってしまっているのではないかと心配しています。これが仮に控訴して最高裁まで行き、さらに「無罪」ということになると、おそらくもう引くに引けないような状態になり、怒りを更に煽って傷口に塩を塗るようなことになるのでは…と。

なので、こうした組織事故で無理矢理悪そうな人をひとりふたり引っ張り出して来て、個人の過失として裁判を行うシステムに限界があるのだと思います。そういったことも検察は充分分かった上でやっているのだと思いますが、検察の事情であれこれ振り回され、結局、事故原因のポイントもATSの未設置みたいなイメージだけが世間に残ってしまい、証拠不十分で無罪。
裁判の話のときにはよく言われることですが、検察が起訴したという建前のプライドを守るための裁判というのには、なんか全然意味がないどころか、害の方が大きいように感じています。起訴しなければ、加害企業であるJR西日本全体の罪として問題が残ったのではないかと思いますので(もちろん当然あるのですが)、組織罰云々と言う大命題を打ち立てるにはまだまだ議論が必要だと思いますが、神戸地検はこういった司法制度の問題点を具体的に提起し、JR西日本という組織の責任認識を強化させる動きをやらなければいけないのではないかと思っています。

現行の司法制度での限界点などを問題視しなければ、今後のどの組織事故の被害者も、彼らが起訴出来る内容に引っ張られた裁判内容や限定的な情報、世間に伝わるイメージとの認識のズレにジレンマを感じなければいけないことになるでしょう。
2012年01月18日(水)

1月17日の「上を向いて歩こうプロジェクト」

テーマ:ブログ
昨日の「上を向いて歩こうプロジェクト」には、「上を向いて歩こう」の作曲者・中村八大さんの息子であり、八大コーポレーションの代表取締役である中村力丸さんと音楽プロデューサー&作家の佐藤剛さんが、東京からわざわざ駆けつけて下さいました。

昨日は、阪神淡路大震災から17年目の日でしたが、「いつも通りの上プロ」を見せて頂きたいという力丸さんの言葉通り、集まった皆さんがそれぞれの思いを胸に、神戸・ハーバーランドで歌いました。これまで全く違う人生を歩んで来て、全然面識がなかった人たちが集まって同じ時間を共有しながら続いて来た上プロですが、今回は力丸さんたちと一緒に歌うことが出来て、人の縁は不思議だな…としみじみと感じました。

これまで数えきれないほどこの歌が歌われる場に立ち会って来られたのだと思いますが、その後の食事会もずっと最後まで一緒にいて下さり、この集まりに対して「とてもいい勉強をさせて頂いた」「素晴らしい人の繋がり」とおっしゃってくださいました。とても謙虚で控えめな方ですが、言葉の端々に熱い思いを感じさせてくれる方でした。

いや~、いい夜でした。帰りの車を運転しながら、余韻にひったっていました。
2012年01月13日(金)

JR西日本・山﨑前社長の無罪判決について

テーマ:ブログ
先日、11日に、JR福知山線脱線事故の件で山﨑前社長の無罪判決が言い渡されました。普通なら、被害者である僕は、「そんなの納得いかない!」と怒るところなのでしょうけど、この裁判に関してはいろいろと複雑な事情や日本の司法制度の問題があって、無罪になると思っていました。

そもそも、事故の直後からATSという言葉が、メディアの報道などによって一人歩きをしている感があり、まるで事故の原因が「ATSが設置されていなかったから」というような雰囲気になってしまいましたが、この福知山線の事故が起こった背景には、ATSの設置が遅れたことだけではなく、運転士の指導に関すること、更には指導をする立場の人の管理、もっと言えば意思決定や情報伝達に関することも、かなりメチャクチャな状態で、ATSどころか、会社の根幹に関わるところが脆弱な運営をしていました。それに加え、国鉄分割民営化以降の西日本を、独裁的な経営手法で投資決定をしてきた井手氏の責任も問われて歴代三社長も強制起訴されていますので、今後、また裁判が行われることになっています。

ATSがあれば、確かに「あの事故」は防げたでしょうけど、その後にJR西日本が惹き起こしている伯備線と西明石での保線員死亡事故など、管理体制や情報伝達の稚拙さによって惹き起こされた死亡事故は防ぐことができません。なので、ATSがなかったことが事故の原因のように言われていますが、それは全く違うと僕は思っています。

刑事裁判は、企業ではなくて「誰に」「どんな」「過失」があったのかということを争う場ですので、今回の場合は、事故現場のカーブを急なカーブに付け替えた当時に鉄道本部長であった「山﨑氏」が「カーブ付け替え時にATSを設置する」という「危険予測の義務を怠った」ということで争われました。検察がATSに着目したのは、ATSが事故原因だからではなく、この「危険予見性」ということでしか「個人」の責任を追及することが出来ないので、無理矢理このピンポイントで起訴をして裁判に持ち込んだというのが、この裁判の背景にあります。

多くの被害者は(僕も事故に遭うまではそう思っていましたが)、「裁判で真相を究明して欲しい」と思っていますが、実はそれは全く見当違いなことで、裁判の本当の目的は、誰がどんな悪いことをしたから、どんな刑罰を与えるのかと決める場所で、原因を究明する場所ではないのです。ただ、裁判の中で、検察が調べたいろいろなことが出てくるので、素人の被害者には知り得ないことを知ることが できて、真相が明らかになるような錯覚になってしまうのですが、裁判では、基本的には起訴された内容のATSの事以外のことは問題視されません。

では、山﨑氏に過失がなかったかと言えば決してそうではありません。かなり大きな責任があることは間違いありませんし、検察の調書を裁判のときに「早く帰りたかったから、適当に答えた」というような態度の社員などは言語道断です。

以前の裁判であれば、被害者は検察が調べた調書は、今回のように被告が無罪になると表に出て来ることはありませんでしたが、山﨑氏が起訴されたぐらいの時期に、被害者支援制度の法律が変わり、被害者は内容を口外してはいけないという条件付きですが、調書を事前に読むことができるようになりました。僕も何度か読みに行きましたので、誰がいつどのような証言をしているのかは、ある程度知ってはいます。しかし、それらの多くは、被告人側の弁護士により不同意とされて、裁判には使われませんでした。被告人が「自分は無罪だ」と言うのは当たり前のことですが、JR西日本という会社の態度には、社員も含めてかなり問題が残っています。

そうした調書の内容や、国の検証チームでかなり詳細な資料を調べあげ、関係する当時の調査官、委員、そしてJRの幹部、管理者などから聞き取り調査などもしましたが、「この事故の過失」=「ATSの未設置」=「山﨑氏」という個人の過失を決定的に厳密に結びつけるものはありませんでした。しかし、「この事故の過失」=「ATSの未設置/運転士のミス/管理体制の欠陥/投資決定の判断ミスなどなど」=「JR西日本」というのは、全てのデータがそれを示しています。

現在の日本の司法制度では法人罰を科す法律がありませんので、どれだけ大きな事故でも「誰が悪かったのか」という個人を無理矢理探し出して、裁判にかけるという方法しかありません。外国では、法人罰という制度を取り入れている国もあり、企業に対して懲罰的賠償ということで、ものすごい額の賠償責任を負わせたり、社会貢献に対する義務を課したりする場合があるようです。
最も極端なのがアメリカで、アメリカでは事故の原因はNTSBという調査機関が調査して再発防止に努めますが、加害企業の法的責任すら問わないという姿勢で調査をし、事件性がある場合のみ(わざと事故を起こしたとか、テロなど)FBIが捜査に出て来るというシステムを取り入れています。企業の責任を問わないので、関係者が本当のことを話しやすくなり再発防止策を構築しやすいというメリットはありますが、被害者の心情としてはかなり複雑な点があり、一概にそれが良いということも言えないでしょう。

法人に罰をかけれないので、それじゃ、一番悪そうなヤツを裁判にかけて有罪にすれば良いのか…というのが、実は今回の裁判の本質でないかと感じていますので、最初から、この裁判には全くノータッチでしたし、取材に対しても何のコメントも出しませんでした。

JR西日本に過失があって、いわゆる「有罪」であることは間違いないのですが、それをするのであれば、今のような組織事故に対して個人しか裁けないというような不毛な裁判制度を変えなければいけないでしょう。そうしなければ、会社のトップは、「これ、社長に報告しましたよ」「あれも言ったよ」っというだけで、「あいつは知っていた」ということにされてしまい、事件事故があれば全て社長が刑事裁判にかけられることになります。もちろん会社のトップには責任があるのですが、責任と犯罪とは意味が違いますので、こういったことで有罪が増えていくと、会社経営は出来なくなってしまいます。

なので、この無罪は、現行の日本の司法制度で裁かれたという前提では「無罪」というのは致し方ないもので、もし「有罪」であるとすれば、現在強制起訴されている歴代三社長も含めて、4人が有罪になるべきでしょう。それよりもむしろ、この事故の過失について、JR西日本という会社が「有罪」と同等の認識をきちんと持ち、被害者と社会に対する責任を全うすることが出来るのかということが問われているのだと思います。
2012年01月11日(水)

JR福知山線脱線事故で妻が経験したこと

テーマ:ブログ
その日、夫は少し疲れ気味に家を出ました。しばらく終電帰りの日が続き、その週も忙しくなるのがわかっていたからです。元気のない声で「行って来ます」と夫が家を出てから1時間ほど経った9時30分頃、自宅の電話が鳴りました。電話は夫からでした。私は何か伝言でもあるのかなと、気楽に「どうしたの?」と尋ねました。しかし夫は荒い息遣いでこう答えました。「事故や…周りで人がいっぱい死んでる…」普段からあまり取り乱すことのない夫のうろたえた声に私は動揺し、瞬時にただ事ではないと思いました。状況はまるでわかりませんでしたが、私は勢い込んで夫に怪我はないのかと尋ねました。
「俺は大丈夫。足が痛いけど…もしかしたら折れてるかもしれへんわ」
「大丈夫!?」「大丈夫。救助を手伝うからもう切るわ!」
そう言うと、夫は一方的に電話を切りました。一体彼の身に何が起こったのかを理解することができず、私は少しの間呆然としましたが、とりあえず救助を手伝うということは大きな怪我を負ったわけではないんだ…と胸をなでおろしました。はっと気がつき、テレビをつけて画面に見入っていると、しばらくして速報を知らせるテロップが流れました。その時の記憶が定かではないのですが、おそらく「脱線」という表示ではなく、「列車の踏み切り事故」というニュアンスの速報だったように思います。それから徐々にテレビ放送で事故の映像が流れ始め、私は初めて夫が大惨事に巻き込まれたことを知りました。夫からの電話で、彼は生きているんだということは分かっていましたが、ことの重大さに私はパニック状態になりました。「どうしよう、どうしよう、どうしよう…」頭の中をグルグルとその言葉だけが空回りしていました。何をすればいいのかもわからず混乱しているところに、実家の母から電話がありました。受話器を取って母の声を聞いた途端、わなわなと身体が震え、涙が流れて上手く話すことができず、夫は大丈夫だと伝えるのが精一杯でした。心配でたまらず、何度も夫の携帯に電話をしようと思いましたが、救助の邪魔になるかもしれないと思ったので必死に堪えました。その後、また電話が鳴ったので急いで受話器を取りました。夫は「誰か知ってる人乗ってへんかったかな…近所の人とか結構乗ってはったはずやけど、大丈夫やったかな…」としきりに気にしていました。私が会社へ連絡しておこうかと訪ねると、頼むとのことだったのですぐに会社に連絡しましたが、あまり事故の深刻さが伝わっていないようでした。今考えると、既に会社に出勤していた人たちには大事故の発生を知るすべもなく、夫の状況を理解できなかったとしても無理もありませんでした。それほど、この事故は日常には絶対ありえない出来事だったのです。私でさえ、遅刻はしても夫は出勤できるだろうと思っていたほどなのですから。

しばらくすると、友人から夫が朝日放送のインタビューに答えていたとの連絡があり、私は慌ててチャンネルを合わせました。そこには、こめかみ辺りに傷があり、唇を切っている夫の姿が映っていました。インタビューに答えている彼の様子から、相当のショックを受けていることがわかりましたが、身体に大きな損傷はなさそうだったので、「ああ、本当に大丈夫だったんだな…」とひと安心しました。
 それからもひっきりなしに友人、知人が安否を心配して電話をかけてきてくれましたので、私はその対応に追われましたが、電話がかかるたびに夫ではないかとすがるような思いで電話に飛びつきました。普段はあまりこまめに連絡をくれることのない夫ですが、この日は家で待つ私の気持ちを察してくれたのか、何度も電話をくれました。それは私にとって本当にありがたいことでした。
その後、夫から病院に搬送されるらしいと連絡がありましたが、何処の病院に運ばれるのかは本人もわからない様子で、病院がわかったら電話して欲しいと頼みましたが、結局診察を終えるまで連絡は取れませんでした。

昼の12時頃になって、診察を終えた夫から電話がありました。尼崎中央病院からでした。迎えに行くと伝えましたが、この辺りの道路は通行止めになっていて、多分入って来られないだろうからタクシーをつかまえて帰ると言うので、つかまらなかったらまた電話して欲しいと伝えて電話を切りました。しばらくして、「病院の前のタクシーはみんな待機してるみたいで、なかなかつかまらへんわ…」と電話があり、もう一度迎えに行こうかと言いましたが、なんとか探してみると言って電話は切れました。それから少し経って「タクシーに乗れた」と連絡がありました。その後、病院前にいたタクシーは、報道関係者が乗りつけて来たものだったらしいということがわかりました。仕方のないことですけど、血だらけのスーツで足を引きずりながら、タクシーを探して尼崎の駅まで歩いた夫のことを思うと、なんだかやりきれない思いです。

午後1時頃になってようやく夫は帰ってきました。タクシーを見た瞬間、「ああ、帰ってきた…」と本当にホッとしました。タクシーの運転手さんに「旦那さん、血だらけですよ!」と言われた通り、夫のスーツやネクタイ、靴にも血の痕があり、私は改めて彼が大変な目に遭ったんだと感じました。よく見ると夫は何も持っていません。「かばんは無くなった…」と、疲れきった表情で外階段を登る夫の足取りは重く、右足をひきずっていて心身ともに疲弊している様子が見て取れました。家に入ると、「ふぅ~」と大きくため息をついたのを覚えています。とにかく汚れた衣服をビニール袋に入れ、夫に着替えを渡しました。
 ふと床に目をやると、何かうす緑色の欠片が光っていました。拾い上げてみると、それは電車の窓ガラスの欠片でした。夫の衣服についていたのが床に落ちたのだと思います。場違いなこの欠片の存在に、私は事故の現実をつきつけられた思いでゾッとしました。夫は夫で、「なんか頭がざらざらするから、見てくれる?」と言うので髪を掻き分けてみると夫の頭はガラスの粉だらけで、顔を正面から強打したのか、目の回りには赤黒く眼鏡の痕がついていました。私は夫が自分の予想以上に大変な目に遭ったのだと気づき始めました。夫から、病院でレントゲンも撮ってもらっていないことを聞き、私は不安になって「今から病院に行こう!」と提案しましたが、「今日はしんどいから明日にするわ…」と疲れ果てた夫は外出するのをためらっていました。そんな時、和歌山で病院に勤めている友人が、「絶対今日中に病院に行って、ちゃんと検査してもらって下さい!」と3度も電話をくれて夫に忠告してくれました。夫も家に帰ってきた安心感からか、それまでは感じなかった体中の痛みに加えて、右足の痛みも段々激しくなっていたこともあって、ようやく病院へ行く気になりました。そして、私たちは昼食も取らずにタクシーを呼んで宝塚市立病院へ診察を受けに行ったのです。
病院に着いたのは多分3時頃だったと思います。受付でJRの事故に遭った者だと伝えると、既に病院側も受け入れ態勢を取っていたようで、すぐに看護士が怪我の具合などを調べて診察を受ける段取りを組んでくれました。看護士が車椅子を用意してくれたので夫は生れて初めて車椅子に乗り、私がそれを押して診察に向かいました。始めに整形外科で診察を受けることになりましたが、夫が顔を強打しているだろうことと頭部を打っているかもしれないとの不安から、私は受付で顔と頭部も検査をして欲しいと伝えました。けれども受付の方は「そんなにしなくても…」と言いたげで面倒な様子でしたが、私は断固として検査をお願いしました。診察室に入ると、医師はどのような状況で怪我をしたのかを聞きもせず、「痛い所はどこですか?」と、いきなり冷たい調子で聞いてきました。夫が状況を説明しようとしても話をさえぎり、聞く耳を持たない様子でした。私はそんな医師の対応に不信感を覚え、飛ばされて何処を打っているかわからない夫の身体を心配して全身のレントゲンを撮って調べて下さいとお願いしましたが、「そんなに撮ったら放射能をいっぱい浴びることになりますよ。痛い所だけでいいでしょう」と言われ、結局医師の判断で足首と頚椎のレントゲンだけを撮ることになりました。すがるような思いで診察を受けに来たのに、不安感ばかりが大きくなるのを感じました。
見捨てられたような思いで診察室を後にして、再び車椅子を押して放射線科へ移動し、レントゲンを撮ってもらいました。撮影中、夫を待っている間に看護士が来て、「大変やったねぇ…」と声を掛けて下さいました。先ほどの医師の対応に傷つき、診察時間を過ぎた閑散とした暗い廊下で、たった一人不安な思いで夫を待っていた私は、その言葉に少し救われました。その後、整形外科では鞭打ち、右足首の外傷と捻挫、骨には異常なしと診断を受けましたが、約2ヵ月後のJR運転再開翌日、私たちは信じられない事実に耳を疑うことになりました。ずっと痛みを訴え続けていた右足がやはり骨折していたことが判明したのです。病院に不信感を抱いた私たちは、紹介してもらった別の病院へ移り、そこで初めて骨折が判明したのです。医師の誤診により2ヶ月もの間放置され、しかも骨折を知らない夫が足を動かしていたためか、骨は変形した形でくっつき始めていました。どんなに痛みを訴えても、医師は患部に触ろうともせず、「動けば痛いのはあたりまえです」との説明を繰り返していました。骨折した場所は、医師がレントゲンを指定した場所のほんの5cmほど上でした。夫が事故当時、右足太腿から下を挟まれた形で、足一本で宙づりになっていたことを聞いてさえいれば、せめて右足だけでも全部レントゲンを撮っていたでしょうし、骨折はすぐに判明したはずです。しかし、医師の誤診によって夫の骨は変形してしまいました。
全ての診察が終わると、「JR職員がご挨拶をしたいと待っている」とのことで、別室へ案内されました。そこには2人のJR職員がいて、重苦しい雰囲気と緊張した空気の中、私たちは謝罪を受けました。まだ気持ちの整理もついていなかった私は何と言えばよいのか戸惑いましたが、「たくさんの方が亡くなられている大惨事なので、みなさんにきちんと対応してください」というようなことを言ったと思います。夫は休業補償のことなども確認していました。JR職員は「医療費はもちろん、補償はきちんとします。お見舞いに来られた方の交通費なども全額お支払いします」と約束しました。部屋を出ると、今度は兵庫県警の方が待っておられました。そこでは簡単な質問をされただけで事情聴取はすぐに終わりましたが、後日改めて詳しい話を聞かせて欲しいとのことだったので、名前と連絡先をお伝えしてその日は病院を後にしました。
 
 目まぐるしく1日が過ぎ、家に戻ったのは夜7時を過ぎた頃でした。家に帰って来て初めて、夫も私も朝から何も口にしていないことに気づきました。そんな時、家に灯りが点いたのを見て、お隣の奥さんからことづかって、娘さんがお惣菜を持ってきてくれました。食事の用意をする気力がなかったのと、気遣ってくれる気持ちがとても嬉しくて、本当にありがたかったです。頂いたお惣菜と、前日が結婚記念日だったため夫が作っていたテリーヌを出して、とりあえず夕食を食べました。この時、ミンチ肉で作ったテリーヌを食べることが辛かったけれど、そう言えば私も食べられなくなるだろうと思い、無理に食べたと後から夫に聞いて、配慮が足りなかったことを反省しました。数日後にも、温泉卵を出した時に、「ちょっと食べられない…」と夫に言われ、それからは食事のメニューにも少し気を使うようになりました。夫は私の想像の及ばない、凄惨な現場を見てきているのだということを改めて感じました。
夜11時を過ぎた頃、新聞記者が突然訪ねてきました。脱線事故の被害に遭われ、亡くなられたご近所の方の写真を貸してもらえないかと言ってきたのです。夫が昨年度自治会長だったことを調べ、写真があるだろうと訪ねてきたようでした。けれども写真はなかったし、第一もしあったとしても、ご家族の承諾なしにマスコミにお貸しすることはできないので断りました。
その夜は、事故のショックと病院の冷たい対応に深く傷ついたことで落ち込んでしまい、一睡もできませんでした。そしてそれからの数週間、眠れない夜が続きました。

事故当日は足を引きずりながらも歩いていた夫ですが、翌日になって激痛が全身を襲い、自力ではベッドから起き上がれない状態になっていました。私が夫の両手をゆっくりと引っ張り上げ、ようやく上体を起こすことができましたが、かなりの痛みが伴うようで苦痛に顔を歪めていました。右足首はパンパンに腫れていて痛みも激しいようで、床に足をつけることすらできず、この日からしばらくの間、夫につきっきりの日が続きました。一人では歩けないので、トイレに立つにも補助が必要でした。入浴ができないためタオルで身体を拭き、洗面所で頭を洗い、足の傷を消毒して包帯を巻き直すのが毎朝夕の日課になりました。階段の上り下りが困難なので、昼間も1階で横になることができるようリビングにも布団を敷き、夫はほとんどを寝て過ごしていました。夫も私も報道番組から目を離すことができず、朝からずっと事故に関するニュースを見続けていましたが、ほとんどテレビを見ない我が家にとって、それは異様な光景でした。夫は言葉を交わしたことはないものの、毎日同じ車両で見知っている人たちの安否を必死に探していました。夫の思いも虚しく、新聞にその方の写真を見つけた時には力なく肩を落とし、ひどく落ち込んでいました。
 
事故から3日ほど経った頃、私たちは報道で一番多くの方が亡くなっているのは夫が乗車していた2両目であることを知りました。この時から、彼の中にも私の中にも重苦しい何かがのしかかり、奇跡的に生かされたことを素直に喜んでいてはいけないという思いが強くなりました。夫には、自分は誰かの犠牲の上に生かされたのではないかという思いが芽生えたようでした。それは安易に触れることの出来ない問題で、私はそのような思いにさいなまれている夫にかける言葉もなく、物思いに沈む彼を見守ることしか出来ませんでした。夫はあまり言葉には出しませんでしたが、彼の心の葛藤を思うと、胸が締めつけられるようでした。そして私は街中に出ることも怖くなり、世間の人たちが私を責めているような気がして顔を上げて歩くことすらできなくなりました。また、人が大勢いるところでは「何か起こればみんな死んでしまう…」という思いに囚われ、緊張のあまり呼吸が苦しくなり、その場にしゃがみこんでしまうこともありました。
夫は、事故当日の状況を詳しくは語りませんでした。メディアの取材に応じている彼の話を聞いて、私は初めて彼が体験した事故の生々しい姿を知りました。私は夫の気持ちに寄り添いたいと願いましたが、事故を体験していない自分にはどうしても知り得ないものが存在することを受け入れるしかありませんでした。それならば、せめてこれからは夫と共に、この事故に関わることを共有していきたいと強く思うようになりました。悲しみや苦しみ、さまざまな葛藤、どんなことも自分のこととして捉えたかったのかもしれません。病院への通院から負傷者や遺族の集まりへの参加、取材にいたるまで夫と行動を共にし、共に考える日々が始まったのです。私は「負傷者の家族」としてだけではなく、この事故に関わった一人の人間として、正面から向き合って生きたいと願ったのです。

夫は事故後続いていた緊張状態が解けたのか、少しずつ自分を取り巻く現実に思いが向き始めたようでした。それでもJRの運転が再開されるまでは比較的落ち着いていたのですが、多くの乗客を乗せて再び列車があの現場を通過する映像を見たその日から、心の動揺が見え隠れするようになりました。それまで心のうちにしまい込んでいたものを押さえ切れなかったのではないでしょうか。その日、事故後初めて夫は私の前で涙を見せました。
このような惨事に巻き込まれたら事故直後に大きなショックがあり、時間が経つにつれて落ち着き、徐々に日常生活を取り戻していくのだろうと、私はあたりまえのように思っていました。しかし実際はその逆でした。この事故では、本当に多くの方が身体や心に深い傷を負いました。愛する家族を失った遺族や、事故を体験してしまった負傷者だけではなく、その家族や救助に携わって下さった方など、多くの方が深く傷つき、悩みのうちに日々を過ごしています。負傷者の家族にも精神的なダメージを受けた方が少なくありません。まわりから「あなたがしっかりしないと」と励まされることでかえって自分を追い込み、心に大きな負担を負った方もいます。家族も被害者であるとは誰も考えてくれないので弱音を吐くわけにいかず、苦しみを抱え込んでしまうことになります。事故で傷ついた家族が何を思い、何を求めているのか、そばにいる自分に一体何ができるのか、もっとできることがあるのではないかと答えのない迷路に迷いこんでしまいます。怪我が治ってくれば、事故から解放されるというわけでもありません。あまりにもたくさんの方の命が奪われた大事故です。この事故の傷跡を消し去ることはできません。それは私たちの人生にくっきりと刻み込まれているのです。

今回の事故では550名近くもの方が負傷したにもかかわらず、乗車していた方の情報が全くありませんでした。夫は他の負傷した方たちがどのような思いで過ごしているのだろうかと気になっていたようです。地元の自治会にお願いしてつないでもらったり、取材を受けたメディアの方に仲介してもらったりして、地道に連絡を取り続けました。電話は1日に10件を越すこともありましたが、少しずつ人の輪が広がっていくのを実感しました。しばらくして夫は、他の負傷者の方にも協力を呼びかけて、事故の記録を残す作業を始めました。それは事故調査委員会が発表した経過報告に納得がいかず、事故原因の究明に役立つ負傷者の証言を集めたいという強い思いがあったことと、自分の家族がどの車両で亡くなったのかさえわからず、どんな些細な情報でも知りたいと願う遺族がいることを知ったからです。夫は生かされた自分にできる精一杯のことをしようと必死でした。『遺族は、いつかは必ず愛する家族の最期を知りたいと思うようになります。辛い作業かもしれませんが、生き残った方が事故の本当の姿を記録してください。生き残ったものが伝えなければならないこと、それは命の重み、事故の悲惨さです』夫は日航機墜落事故の遺族の方からかけて頂いたこの言葉を支えに、改めて確信を持って記録を集めることを決意したようです。辛い体験を文字にするということは、決して容易なことではありません。けれども、「この事故を忘れてはいけない」「二度と繰り返してはいけない」という強い思いが多くの方の心を動かしました。
年が明けて、事故は急速に過去のものになり、まるで何事も無かったかのように動いている世間から自分たちが取り残されていくという焦りだけが強くなりました。そしてちょうどその頃、遺族の方から、亡くなった家族の最期の乗車位置を探したいと夫に相談がありました。夫は、これこそが同じ列車に乗っていた自分たちにしかできないことだとの思いから、乗車位置がわからない13名ほどの遺族と共にこの問題に取組み始めました。遺族の方が、同じ事故で生き残った自分に声をかけて下さったことも嬉しかったようです。その日から、夫と共にこの事故が持つ本当に残酷な一面を見つめることとなりました。
より多くの負傷者に協力して欲しいと思う反面、「事故の悲惨な記憶を思い出して欲しいとお願いすることは、負傷者全員から反感をかうのではないか」「もしかして、遺族にとっても知らずに済んだ方が良いこともあって、自分はとても残酷なことのお手伝いをしているのではないか」と、夫は随分悩んでいたようです。しかし、一緒に乗車位置を探していた遺族の方から「私は娘が最期に座っていた同じ座席に座ってあげたいんです。最期に握っていたであろうつり革につかまってあげたいんです」という話を聞き、新たな確信を持って負傷者と遺族が事故当時の情報を共有するための「情報交換会」を開催する準備を始めました。遺族の方と共に毎日夜遅くまで打ち合わせや資料作りなどに時間を費やし、週に一度は全員で集まり話し合いました。また、JRもこの取り組みには全面的に協力してくれました。現場の担当職員は会場の手配から印刷物や備品の調達など、本当に一生懸命に準備を進めてくれました。

「情報交換会」は全部で4回開催され、4月6日に尼崎の会場で初日を迎えました。果たして負傷者や救助者の方が会場まで情報提供に来て下さるのかどうか、確信はありませんでした。ただでさえ辛い体験を、遺族の前でお話するには相当の決心がいることだと思います。しかし、実際には多くの方が会場に足を運んで下さり、少しでも役に立てばと自分が覚えていることを必死に話して下さいました。なかには、松葉杖をついている方や車椅子に乗っている方もおられました。それでも、少しでも遺族の方の役に立つならと情報提供に協力して下さったのです。仕事を休んでまで遺族に会いに来て下さった方もいました。それまで、負傷者という立場でたった一人この問題に取り組んできた夫は、「同じ思いを持っている方が他にもいるんだ」ということを知り、胸が一杯になっていたようです。
わずか数秒の間に起こった恐ろしい出来事。家族という立場である私にとっても、それはとてつもなく大きな何かに向き合う日々の始まりとなりました。2005年4月25日の月曜日、いつものように朝を向かえ、いつものように声をかけて送り出した夫があのような悲惨な事故に遭ったことは、どれだけ時が過ぎても、まだ本当の意味で受け入れることができていないような気がします。夫は奇跡的に死を免れることができました。しかし、彼のまわりに山積みになっていた乗客のほとんどの方はもうすでに声もなく、多くの方が一瞬にして命を奪われました。その壮絶な光景は、今もかた時も彼の頭から消えることはないといいます。こんな悲しい事故はもう二度と起こって欲しくありません。決して繰り返してはいけないのです。あたりまえにあった安全は崩れ去りました。        
もしも救える命があるとするなら、それはJR西日本のこれからの姿勢に委ねられているのではないでしょうか。「安全」への代償として犠牲になるのはいつも、乗客の命、人生なのです。この事故から少しでも多くを学び、この事故がもたらした大きな悲しみ、耐え難い苦しみを知り、忘れることなく未来に引き継ぎ、誠実に「安全」を勝ち取っていくことこそ、いまJR西日本に求められているのだと思います。
事故は一瞬にしてあまりにも多くのものを奪い去ってしまいます。あたりまえの日常、歩んできた道のり、思い描いていた未来、そしてかけがえのない大切な命までも。私たち一人一人が事故の様々な現実と向き合い、未来への糸を紡ぎだしていければと心から願います。新たな悲しみを生み出さないために。
2012年01月11日(水)

私がJR福知山線脱線事故で経験したこと

テーマ:ブログ
 2005年4月25日、生まれて初めて「死」を意識する出来事に遭遇しました。107名の方が亡くなったJR福知山線の脱線事故に遭い、その中でも最も被害が大きく70名以上の死者を出したと言われている(2005年6月現在の情報)2両目に乗り合わせていました。これまでにも「死」という概念を頭の中では理解していたつもりでしたが、死は歳の順に順序通りにやって来るか、仮に病気や事故で死を迎えるにしても、何らかの形で死を覚悟する瞬間のようなものを通過してから訪れるものであると考えていました。しかし今回の事故では、脱線しはじめてわずか数秒後にマンションに激突し車両が大破しました。安全と思われていた電車の中で、同じような場所で同じような条件の中にいたにも関わらず、その数秒の間で生と死が分かれてしまいました。その死は、私が考えていた「死」というものとは全く違う形でやって来て、何の前触れも無く突然多くの方の命を奪いました。
 事故直後の凄惨な現場の状況はあまりにもひどく、現在でも脳裏に焼き付いて離れません。その悲惨な状況とは不釣り合いな静けさの中で、助けを求める呻き声や人が動く物音、現場周辺の独特の異臭などが強烈な印象で残っています。事故の当事者として、自分で見て感じた事を出来るだけ正確に書き留めておきたいと思います。

■4月25日(月)
 事故当日、午前8時42分に出勤のためいつも通りの時間に自宅を出ました。電車が来る4、5分前にJR生瀬駅に着き、56分発の大阪行き普通電車を待ちました。生瀬駅の前方には喫煙場所があり、私は煙が流れて来ない駅の階段を上った少し前あたりでいつも電車を待っています。定刻通りに電車がやって来て、いつもと同じ場所に乗車しました。その車両の中には、いつも乗っておられるので顔を覚えているご夫婦のうち、旦那様だけが乗車されていました。宝塚駅に着き、同じホームの向かいに止まっている東西線に乗り換えるため、一旦下車しました。本当は同じホームで大阪行きの快速に乗り換える方が便利なのですが、宝塚駅が始発となる東西線の方が尼崎駅まで座って行けるので、大阪方面に向かう人でもこの電車に乗り換える方が多くいます。下車後、いつも通りその旦那様も2両目に乗られたのを覚えています。私も2両目に乗り、進行方向に向かって右側の後ろから2つ目のドア横の席に座りました。9割方は座る事が出来るのですが、座れなかった時にはいつも1両目の一番前に移動して立っていました。もし座る事が出来ずに1両目の先頭に立っていれば、私は恐らく死亡していたと思います。私が座った後に、生瀬から乗車した男性が私の左隣の席に座りました。この時間帯は通勤ラッシュから少し外れており、発車する段階でも立っている人が各車両に十数名ぐらいの比較的ゆったりとした状態で、その日もいつも通りの混み具合でした。生瀬から乗車してきた普通電車が先に発車し、その後同じホームに特急北近畿号が定刻通り入って来ました。この北近畿号は日常的に1~5分遅れて宝塚に到着する事が多く、その出発を待ってから発車する9時3分発の東西線も常に遅れていました。しかし、その日は東西線の快速電車も定刻通りに宝塚駅を発車しました。私はその日、電車の中で眠っていましたが、中山寺駅と川西池田駅で目が覚め、川西池田駅で車内の吊革が全部埋まるぐらいの混み具合になったのを覚えています。川西池田駅を出発した後は、本格的に眠ってしまったようで何も覚えていません。伊丹駅で起きたオーバーランにも気づきませんでした。
 私が目を覚ましたのは、車体が「ガタガタ」という振動と共に揺れはじめた時です。「もしかしたら脱線したのでは…」とその時に感じたのを覚えています。その数秒後、立っている方が前方に滑るように流されて行くのが見えましたが、その段階で電車はかなりのスピードだった様な気がします。はっきりとは覚えていませんが、その時間は恐らく2、3秒のわずかな時間だったと思います。脱線ならばそのうちに止まるのではないかと思い、それ程恐怖も感じませんでしたが、次の瞬間のもの凄い衝撃で、私を含む座っている乗客が飛ばされて行きました。その時はマンションにぶつかった事など想像もしていませんでしたが、車体が何かに蹴つまずいたような印象を受けました。1秒ほどの記憶でしょうが、空中を飛ばされている記憶があり、自分の下にも同じように飛ばされている人がいたのを覚えています(図-1)。まるでプラスチックの卵パックを手で握りつぶす様に、飛ばされている空間が一気にメチャクチャに壊れていきました。メリメリと車体がつぶれ、自分たちがいる空間がどんどん無くなって行く様子がわかりましたが、自分が何処にぶつかり、どのような形で静止したのかはわかりません。ずいぶん後になって事故当時欠落していた記憶の一部が蘇り、夜中に突然目が覚めました。写真のワンショットのような記憶ですが、私は上下左右に掻き回される事も無く、瓦礫の固まりのようになった車内をほぼ一直線に飛ばされて行ったように見えました。これが正確な記憶と言えるものなのかはわかりませんが、これまでに自分がくり返し頭の中で反芻してきた映像とは違う場面でした。しかし、その先で何処にぶつかり自分が止まったのかは思い出す事が出来ません。
 電車が停止してすぐに意識がありましたので、気を失ってはいなかったようです。眼鏡はそのまま顔に張り付いていました。電車が止まった時に私が飛ばされていた場所は、2両目の車体がマンションの角に激突して折れ曲がったところから、少し大阪方面寄りのマンション駐輪場通路側でした。車両は大破しており、どちらが上か下なのか、ドアがどこにあるのかも分からない状態でしたが、私がいた空間は車体が大きくえぐられており、天井から側面まで丸ごと裂けて剥ぎ取られた様な状態でした。その部分は車内とも車外とも言えるような場所で、上部から降り注ぐ光によって凄惨な現場をはっきりと確認する事が出来ました。車両の下からたくさんの人が積み重なり、その間に外れた座席が挟まって山の様な状態になっていました。その山の上の方に、私の右足太腿から下が挟まっており、足1本で上から宙吊りにぶら下がっている様な状態でしたが、体勢を立て直すために私のすぐ目の前にあったマンションと線路を仕切る鉄板に掴まって、腕の力で体を上向きに引き上げました。この茶色の鉄板は、強度を増すための凸凹の溝が横に走っており、そこに指を掛ける事が出来ました。2両目が激突した柱から、マンション駐輪場の通路に沿って建てられていたこの鉄板は、事故直後2枚目までが垂直に立っており、進行方向に向かって3枚目が通路側に少し倒れていました。私がぶら下がっていたのは、この2枚の鉄板と車体との間に出来た、わずか1メートルほどの空間ですが、ぶら下がった状態のままで「倒れた3枚目の隙間から脱出出来る」と思ったのを覚えています。マンションへの衝突や、2両目に激突した3両目の衝撃があと少しでも強ければこの生存空間が押し潰されていたと思います。
足が挟まった状態で周りを確認すると、私の周りの殆どの方が血まみれになっていました。私の左足の下にも血だらけの人が横たわっていました。そのため左足を下につく事が出来ず、鉄板に掴まりながら足が置ける場所を探しました。こうした凄まじい光景にも関わらず、事故直後、私がいた場所では人や車体など何も動くものがなく、時折「うー…」という呻き声が聞こえてくるだけで、現場に不釣り合いな静けさを保っていました。私は、見える範囲で自分の体にそれ程損傷を受けていない事を確認しましたが、挟まっている右足にはかなりの痛みがあり、もしかしたら骨が折れているかもしれないと思いました。何とか足を引き抜こうとしましたが、足の上にも人や座席が積み重なって締めつけられており、全く動かす事が出来ませんでした。その時、人が動く気配があり、何かの部品が地面に落ちて「カラン」という音を立てました。奇妙な静けさの中で、その音がとても印象に残っています。
 車両の上の方から「誰か警察に電話をしろ」という声がしましたので、上着のポケットに入れていた携帯電話で「110」に通報をしましたが、周辺住民や他の乗客も警察に電話を入れているはずなので、こんな事をしている場合ではないと思い、繋がる前にすぐに電話を切りました。携帯には9時20分にかけた履歴が残っています。とにかく足を引き抜いて周りの方の救助に当たらなければと思い、まず自分の首に絡まっていたヘッドフォンを引きちぎってその場に捨てました。その後ネクタイを外しましたが、足が抜けた時に怪我をしていた場合、止血帯として使えるかもしれないと思ったので捨てずに上着の内ポケットにしまいました。再び足を引き抜こうと試してみましたが、全く動きませんでした。私のすぐ横に両足が人の山に挟まれ、仰向け状態でぶら下がっている男性がいましたが、血だらけで全く動く気配がありませんでした。それとは反対側に、車両とマンションの隙間に立っている女性がいて、私の足元に横たわっている人を引き起こそうとしているのに気づきました。「子供がいるんです。子供を探して下さい」と私に訴えて来ましたが、足が抜けない以上どうする事も出来ず、「足が抜けたら一緒に探します」と声を掛けました。その方は、子供が下敷きになっているのではないかと思っていたようで、しきりに私の足元に横たわっている人や仰向けにぶら下がっている男性を動かそうとしていました。
現場にはプラスチックを裂いたような、薬品っぽい強烈な異臭が漂っていました。この頃になると、「助けて」という叫び声や「痛い痛い」「動かないで」という声が聞こえてきました。女性の声だったように思います。ちょうどそのぐらいの時に、私の足の上に乗っていた方が動いてくれました。車両の上部にはまだ空間が残っており、進行方向と反対側に移動されたので性別も顔もわかりませんでした。その方が移動した後に、私の足と車体の間に挟まっていた座席を自分で引き抜き、鉄板の向こう側に駆けつけてくれた人がいるのがわかりましたので、その座席を鉄板越しに渡しました。そうしてようやく自分の足を引き抜く事が出来ました。その時に右足の靴が脱げましたが、現場はガラスや金属片が散乱していたので、手で靴を引っ張り出しその場で靴を履きました。靴を履くときに右足首を負傷しているのがわかりましたが、その時はそれほど強い痛みは感じませんでした。
 足が抜けてねじ曲がった車体の一部の上に立った時、車体上部の空間から子供を差し出す手が見えました。手しか見えませんでしたので、どういった方がその子供を手渡してくれたのかは分かりませんでしたが、その子供は血をかぶる事も無く、無傷だったように思います。性別もはっきりとは覚えていませんが、手の力だけでその子供を受け取る事が出来ましたので、幼稚園児ぐらいだと思います(後の情報で4歳児だと判明)。偶然その子供は、私の隣にいた女性の子供でしたので彼女に手渡しました。私の足の下に横たわっていた男性はまだ意識があり、まずその方を外に連れ出そうとしましたが、引っ張り上げるために踏ん張る場所が無く、とても一人では引き出せそうにありませんでした。私は通路に集まって来た方に「誰か中に入って来て下さい」と声を掛けました。そうすると3枚目の鉄板の隙間から男性が2名入って来てくれましたので、3人でその男性を外に運び出す事が出来ました。その後、私はもう一度車内に戻りましたが、私の足が挟まっていた人の山とは別の所に折り重なっていた山の下の方から、女性の「助けて下さい」という声が聞こえて来ました。かがんで見てみると、仰向けの女性の顔だけが見えており、その上にはたくさんの人や座席が複雑に積み重なっていました。上に折り重なっている人たちも全員が血まみれになっており、中には片目が潰れている方や、顔が裂けている方などもいましたが、殆どの方が意識を失っているか、既に死亡されていたようでした。「大丈夫か」とその女性に声を掛けました。「大丈夫ですか」ではなく「大丈夫か」と声を掛けたのを覚えています。女性は「上に乗っている人をどけて下さい」「助けて」と私に訴えてきましたが、自分の頭より上方にいる意識の無い人間を、腕の力だけでは到底動かす事が出来ませんでした。彼女の下にも顔が見えない状態で数名の方が下敷きになっていましたが、上半身がどのようになっているのかさえ分からない状態で押し潰されていました。その時、救助に駆けつけてくれた方が、救助の妨げになっていた通路と車体の間を隔てている2枚の鉄板を外すため、モンキーレンチでボルトを外しているのが見えました。ボルトを外し終えると数人で鉄板を通路側に引き倒し、上に乗って鉄板を地面に押し倒しました。この状態になって初めて、通路側から2両目の車両の中を見る事が出来るようになりました。負傷者ではない方が救助にあたりはじめたので、私はその女性に「頑張って下さい」と声を掛けて通路に避難しましたが、仰向けになったその女性の顔が今でも忘れられません。助けを求められても何もしてあげる事が出来ず、目の前で人が死んでゆくのを成す術もなく見ているしかなかった自分の無力さを痛切に感じています。今でも、その女性が無事に救出されたのかがとても気に掛かります。
 マンション駐輪場の通路には、既に数名の方が自力で脱出していました。この通路側はマンション下の通路を通って来なければいけない場所なので、外部からあまり多くの方が入って来ていませんでした。通路に出たときに、まず自分の体の負傷具合を確認しました。スーツやシャツは血だらけになっており、ズボンも割けている箇所がありましたが、自分自身の血ではありませんでした。しかし、足首にはえぐれたような外傷があり、そこからは出血がありました。その後、通路にある非常階段付近で自分の携帯電話から自宅に電話を入れましたが、その時、自分の手に何かが付着しているのに気づきました。半熟卵の白身の様なもので、何かは分かりませんでしたが、潰れた目玉、もしくは口内などの柔らかい部分の一部の様でもありました。電話を切った後、再度車両の方に近づいて行きました。線路側からも既に多くの方が救助にあたられており、足を痛めていた私が手伝えるような事が無かったので、その付近に自力で脱出していた負傷者に声を掛けました。同じ車両で隣の席に座っていた男性が血をかぶってグッタリと柱にもたれて座っていたので声を掛けましたが、放心状態だったようで何も反応はありませんでした。その時、同じく自力で脱出した男性から携帯電話を貸して欲しいと頼まれ、手を負傷しているようでしたので番号をプッシュして渡してあげました。
 その男性から携帯電話を返してもらった時に、通路に膝を抱えてうずくまっている女性に気づきました。頭から血を流し、左目が紫色に腫れ上がって全くふさがっている状態でした。右目は無事のようでしたが、体を震わせて「目が見えへん、目が見えへん」と言っていたので、その方の隣に座って手を繋いであげました。その女性がパニック状態になりそうだったので、「大丈夫、すぐ助けてもらえるから」と声をかけ続けましたが、私の声が耳に届いていないようで、「目が見えへん」と絶叫し始め、「これって現実?」「私の人生メチャメチャや」と叫びはじめました。私の手のひらに爪が突き刺さるのではないかという力で握ってきて、明らかにパニックになりつつある状態でした。今考えてみると、右目は無傷のように見えていましたが、ショックで両目とも見えておらず、周りの状況が分からなかったのであのようなパニックになったのではないかと思っています。救助の邪魔になる場所だったので立たせて一緒に通路の奥に移動しようとしましたが、「行かんとって!」と言って私にしがみついて来ました。腰が抜けてしゃがみ込んでいる状態のまま固まっていたので動かす事も出来ず、そのままそこにいる事にしましたが、女性は「ギャー」という奇声と共に自分のストッキングを掻きむしり出しました。それを見て、近くにいた男性も声を掛けに来てくれましたが、全く耳に届いていない様子で、今にも自分の目を掻きむしり出すのではないかと、私の方が恐怖を感じました。私たちの手に負える状態では無くなってきましたので、近くにいたレスキュー隊員に声を掛け、先に連れて行ってもらうようにお願いしました。その女性を連れて行って頂いた後に、初めてマンション下の通路を通ってマンションの反対側に出ました。そこには既に多数の負傷者が集まっており、次々と重傷者が運び出されていました。その段階でかなり多くの方が救助に来ていましたが、外した座席を担架代わりにして自力で歩けない人を通路に運び出していました。私は邪魔にならないように駐車場に続くその通路のフェンス越しに座り、隣にいた女性に声を掛けてしばらくその方と一緒にいました。ひと安心したのか、急に猛烈な喉の渇きに襲われました。どこかに自動販売機はないかと辺りを見回すと、通路を出た左手に自動販売機がありました。水を買いに行こうかと考えていると、周辺住民の方がペットボトルの水を配りに来てくれました。丁寧にキャップを外して、一人1本ずつ配って下さいました。
 次々と負傷者が運び出される中、どこからともなく大量のブルーシートが運び込まれ、マンションに沿って通路にシートが敷かれていきました。一体これらのものはどこから運ばれて来るのか不思議に思いましたが、非常に手際よく、自然に役割分担が決まって事を進めているようでした。私が座っていたところから、工場から持ってきたと思われる大きなペンチでフェンスに切り込みを入れ、数人で剥がしにかかっているのが見えました。そのうちに制服を着た女性が、水で濡らしたタオルや氷を入れた袋、三角巾などが入った救急セットの様なものを配ってくれました。私は右足首にあった傷を氷で冷やしてからタオルで押さえて、その上から三角巾で縛って固定しました。私の前に敷かれたブルーシートの上にも次々と負傷者が運ばれて来ました。私はマンション入り口付近でグッタリしている方のところに行き、「大丈夫ですか」と声を掛けましたが、ショックを受けているのか「はい」という返事しか返って来ませんでした。救助に来られた方が「足を怪我しているなら、座っていた方がいいですよ」と言って下さったので元の場所に戻ろうとすると、私が座っていた場所の二人左隣のフェンスにもたれ、うなだれている男性が目に入りました。私服を着ていたので大学生ではないかと思いますが、四肢を投げ出して一点を見つめたままじっと動きませんでした。その男性に近付いて声を掛けると、「背中が痛い」と訴えてきました。顔に血をかぶっていましたが自分のものでは無いようで、出血は特にありませんでした。「水を飲ませて下さい」と言うので、ペットボトルを持って口に運んであげましたが、自力で飲み込む事が出来ない様子で、そのまま口から溢れ出てしまいました。しかし、そうしているだけでも少しは喉の渇きを癒せる様でしたので、数回に分けて水を飲ませました。また「背中が痛い、横になりたい」と訴えて来ましたが、もし背骨を損傷していた場合、安易に動かさない方がいいと思ったので躊躇していると、自分で横になろうとし始めたので、手を貸して横にしてあげました。通路は駐車場に向かってなだらかな勾配がついており、頭が下になる状態でした。その様子を見ていた方が、袋に布を詰め込んだ枕を持って来て下さり、その男性の頭の下に敷きました。左腕と左足が折れているようで、動かすともの凄く痛がっていました。固まった血の粉が目に入って痛いと言っていたので、濡れたタオルで目の周りを拭いてあげました。しきりに背中の痛みを訴えていたので、近くにいた救急隊員に診てもらいましたが、当面は大丈夫という事でそのままその場に一緒にいる事にしました。そうこうする内に日が高くなり、直射日光が照りつけてかなり暑くなってきました。その男性を動かす事が出来ないので周りにいた方にお願いすると、工事用の三角コーンの間に渡す棒を柱にして、ブルーシートを掛けた簡易のテントを作ってくれました。その場はまさしく大惨事の現場という感じではありましたが、救助をしている人たちや、看護をして下さっている方々の動きからはパニックのようなものは感じられず、皆がやるべき事をきちんと把握して状況に対処をしているというのがとても印象的でした。後から、この方たちは近くの日本スピンドルの社員や工場の方たち、市場の職員、周辺住民だった事を知りました。あの方たちの連携には本当に感動し、私たちを助けて下さった事に今でも深く感謝しています。
 その後は、枕を作って来て下さった女性が男の子に付いていて下さる事になったので、私は気になってもう一度マンション反対側の駐輪所の方に行ってみました。私がいた2両目からは、次々と負傷者が運び出されていました。既にレスキューの専門家によって救助が始まっていましたので、私に手伝える事は何もありませんでしたが、その時、頭の皮がめくれあがった負傷者が担架に乗せられて運ばれているのが見えました。全身血の塊の様になって全く動く気配すら見受けられませんでした。私は再び元の場所に戻り、先程の女性の隣に座ってもう一度自宅に電話を入れました。その後にテレビ局の取材を受け、車内の様子などを聞かれましたが、頭の皮が剥がれている場面の印象が強烈で、「僕の居た場所の状況は、ひど過ぎてとても言えない」と答えたのを覚えています。しばらく待っていると「軽傷者の方、集まって下さい」とのアナウンスがありましたので、マンションのエントランス方面に移動しました。マンション前の道路を渡り、踏切の横の木陰になったスペースで待機しましたが、その時初めて踏切側から大破した事故車両を目にしました。その時に北海道にいる友人から「宝塚の方から来た電車がえらい事故ですけど、大丈夫ですよね」というメールが10時26分にありました。ちょうど待ち時間だったので折り返し29分に電話をして、乗っていたけど無事だった事を伝えました。その電話をしている間にマイクロバスが行ってしまったのでしばらく待っていると、別のワンボックスカーがやって来ましたが、目の前で満員になりまた乗れませんでした。次の車を待っていると、新聞社の方に声を掛けられ取材にお答えしました。そうしたやり取りをしていると、次々とマスコミの方が寄って来たのでなかなか車に乗れなくなってしまいましたが、近くにいたワンボックスカーの助手席に乗せてもらい、パトカーの誘導で中央市場の敷地内を横切って尼崎中央病院まで搬送して頂きました。業務用のバンのため後部座席が無かったので、そこに二人の負傷者と二人の付添人が乗り込みました。骨折をしていたようで、車が振動するたびに「痛い、痛い」と言っておられ、付添い人が「頑張れ、もう少しや」と励ましていました。
 病院に着くと大混雑をしており、簡易に作った受付で名前と住所を記入しました。キャスターのついた机を担架代わりにして運び込まれてくる重傷患者もあり、病院は騒然とした雰囲気に包まれていました。入口付近にまで増やされた椅子から順番に中へ移って行くと、待合場所にある大きなモニターに事故現場を中継する画像が映し出されていました。そこで初めて自分が乗っていた2両目の破損状況の空撮を見ましたが、あのような状態の中からよくこの程度の怪我で生き残れたものだと感じました。その中継の時には1両目の行方がわからず、「く」の字に折れ曲がった2両目が先頭車両だと思われていました。順番を待っている間にいつも生瀬駅でお会いする女性とそのお友達を見かけしましたが、元気そうな姿でしたので安心しました。また、私の前で順番を待っていた高校生3人は、話の内容からしてこれから遠足でUSJに向かうところだったらしく、一緒に乗車していた友達の安否を心配していました。私の診察の順番が回ってきて診察室に入ると、「まず歩いてみて下さい」と言われました。もし骨折していれば歩く事すら出来ないので、骨折はしていないという診断でくるぶしの外傷を消毒し、ガーゼを貼って診察が終わりました(2ヵ月後、右足腓骨骨折が判明しましたが…)。
 そのまま自宅に帰っても良いと言われましたが、血だらけのスーツで何処に行けばタクシーが拾えるかも分からず、とりあえず病院の隣にある公園から自宅に電話をして、これから帰宅する旨を伝えました。公園の前に止まっていたタクシーに「乗せてもらえますか」と聞くと、予約があるようで断られました。他にタクシーの姿も無かったので、JR尼崎駅方面に歩いて行きましたが、その頃になって急に右足の痛みを感じるようになり、歩行が困難になりました。足を引き摺りながら駅前に向かって歩いていくと、JR西日本の職員が負傷者らしき人をタクシーに乗せているところが見えました。私もタクシーを呼んでもらいたい旨を伝えましたが、失くした鞄の件を確認すると名簿を事務所まで取りに戻りました。その間、立って待っているのが辛かったので、ビルの壁にもたれて地面に座っていましたが、血を浴びたスーツを着て平日の昼間に座り込んでいる人という事で、通りすがりの人から変な目で見られたのを覚えています。
 自宅に着くと、家の前で妻が出迎えてくれました。妻は思ったよりも取り乱してはおらず、落ち着いているように見えました。後で話を聞いてみると、自分で電話もして来たし、ニュースの映像で私がインタビューを受けている場面を見たそうなので、その様子から想像して、私が乗っていたのはずっと後ろの車両だと思っていたそうです。マンションに激突して大破しているのが2両目で、そこに乗っていた事を伝えると驚いていました。服を着替えると、シャツの中からガラスの破片が出てきました。車両の窓ガラスの欠片だと思います。血だらけのスーツとシャツ、ネクタイはゴミ袋に入れておきました。革靴にも血が付いていました。右足は大腿部より下が腫れており、特に足首は腫れあがっていました。かなり強い力で締め付けられていたのだと思います。くるぶしの所にえぐられた様な深い傷が4箇所、右膝の内側に打撲と擦り傷が2箇所ありました。左足首の上と両腕にも打撲の痕が残っていました。鏡で自分の顔を確認してみると、何箇所か血が付いていましたが自分のものではありませんでした。顔の左上の生え際と右のコメカミにも擦り傷がありました。両目の眉毛あたりに眼鏡のフレームの形に打撲の痕があり、鼻の付け根にも痛みがありました。メガネの鼻パッドが変形していましたので、顔の正面から何かにぶつかったのだと思います。
テレビでは、どのチャンネルでも事故の現場を報道していました。その日はずっとテレビを見ていましたが、私の安否を確認するための電話が鳴りっぱなしで、その応対をしていました。ニュースで私のインタビューが流れた事で、事故に遭った事を知った方が多かったようです。しばらく落ち着いてから何気なく頭を掻くと、爪の中が黒くなりました。妻に見てもらうと、粉のような細かいガラスの破片を被っていました。くしで髪を梳くとガラスの破片が落ちて来ましたので、庭で髪を払うと細かな粉がたくさん落ちて来ました。鼻の中も真っ黒になっていました。現場に舞っていた埃のせいだと思います。しばらくテレビを見ていると、整形外科で仕事をしている友達から電話が掛かって来ました。事故の状況から見ても絶対に全身を強打しているので、今日中にもう一度精密検査を受けた方がよいと強く勧められましたので、15時頃、タクシーを呼んで宝塚市立病院に行きました。受付で事故の事をお話しするとすぐに分かってくれましたが、診察はあまりきちんとした対応ではありませんでした。こちらから何度もお願いをして、首、足首、顔面のレントゲンと頭部のCTを撮ってもらいました。それらを見た限りでは、骨折やひび割れなどの深刻な問題はなさそうでした。診察後、病院に来ていたJR西日本職員から謝罪があり、治療費や通院のための交通費、破損した物の弁償などの実費を補償する旨を約束してくれました。引き続き警察による簡単な事情聴取があり、19時頃に帰宅しました。

■4月26日(火)
前日は夜中に目を覚ます事もなく、朝までぐっすりと眠れました。しかし、目が覚めると全身に激痛が走り、ベッドから起き上がるのも困難な状態でした。妻に手を持って引っ張り起こしてもらわなければ起き上がれず、事故現場であれだけ動き回れていたのが不思議です。右足の腫れは更にひどくなり、大腿部から下が全体的に黄色っぽく変色していました。膝から下の筋肉がむくんでおり、指で押すとそのまま凹んだ形が残る状態でした。この日も1日中テレビを見ていましたが、車両の中に未だに閉じ込められている方がいたので、心苦しい思いで見ていました。その反面、あまりにも突然にこの様な事に巻き込まれたので、事故に遭ったという実感があまり無かったように思います。テレビの映像を見れば見るほど悲惨な現場だったというのは分かりましたが、もしかしたら自分は死んでいたかもしれないという事が中々実感として沸いて来ませんでした。

■4月27日(水)
この日もまだ全身が痛く、起き上がるのが困難でした。打撲した箇所が濃い黄色に変色し始め、一番状態がひどかった足首は更に腫れあがって紫色に変色し始めていました。また、足首外側の筋が、歩くたびにコキコキと変な音を立てている様な妙な感覚でした。「このまま放っておいて良いものか…」と思いましたが、もう少し様子を見る事にして、医者に言われた通り安静にしている事にしました。鼻の付け根は触ると痛く、目の周りにもくっきりと眼鏡の痕が残っていました。
日を追うごとに、新聞記事の中で死者と負傷者の数が増えていきましたが、27日の朝刊記事の中で70名以上が2両目で亡くなっている事を初めて知りました。その記事を読んだときに、これまで「自分は助かって良かった…」と思っていた感覚に変化が起こるのが分かりました。その当初は、乗客数が580人ぐらいと報道されていましたので、7両編成で割ると1両あたりに約83人になり、前方車両の方が多く乗っていたとしても、90人中70人が亡くなった場所に自分がいたという現実を、その記事で突き付けられた様な気がしました。90人中で20人しか生き残れなかった内の一人である事を知った時に、自分が助かった事を素直に喜べないという感情と「生き残った」という感覚が、初めて自分の中に生れてきた様に思います。後に報道で「サバイバーズ・ギルト」という言葉が頻繁に使われるようになりますが、この時点ではまだそうした内容の報道はされていませんでした。しかし、この段階で自分の中には「生き残った事に対して申し訳ない」という気持ちが既にあり、こうした感情がメディアの報道に影響される事なく、自分の中にも自然に生れたのだという事を感じています。

その後、メディアの方が直接自宅に来るようになりましたが、ほとんどの方がとてもいい方で、こちら側の心情を察した上で丁寧な取材をして下さいました。話す側としては中途半端に聞かれるよりも、最初から全部聞いてもらいたいという思いがありましたので、いつも2時間ぐらいの取材になりました。取材後は心身ともに疲れて、寝ている事が多かったように思います。しかし、事故の原因解明や事故の状況をお伝えする事に少しでも役に立てているという事が私にとっての救いでもあり、話を聞いてもらえた事で気が楽になっているのが実感出来ました。自分の妻には凄惨な現場の詳細を話す事が出来ませんでしたが、メディアの方に事細かに聞いて頂けた事によって、自分の中に鬱積していたものを少しずつ吐き出せたのではないかと思っています。この事故では、表面的な傷と同時に心の傷についても大きく取り上げられましたが、誰かに自分の体験した事を聞いてもらうという事はとても大切な事だと思いました。ある意味で、私にとっての聞き役になってくれた記者の方々にはとても感謝しています。
テレビでは、電車がマンションに激突した様子や、高速で激突した時の車内のシミュレーションを繰り返し放送していました。あの映像を見るたびに、2両目の中で自分がこの程度の怪我で済んだのは、きっと誰かがクッションになってくれたからではないかという思いに駆られるようになりました。車内で自分がどの様にぶつかったのかは記憶していませんが、実際そうでなければ、あの様な状態の車内で生きていられるはずがないと思いました。
5月1日の朝刊で、対向車線を走っていた北近畿号が事故現場の手前、わずか100メートルの所で止まっていた事を知りました。同じ1カットの写真の中で、事故車両と現場手前で止まっている北近畿号が写っていました。その電車が停止したのは事故車両の車掌からの通報ではなく、たまたま黄色になっていた信号と砂煙に気付いた北近畿号の運転手の機転により停車した事も知りました。高速で走っている電車にとって、100メートルという距離はわずか数秒の事であるに違いありません。この事実を知った時に、自分の命がいくつもの偶然によって助けられた事を実感しました。マンションの鉄板と事故車両とのわずか1メートルの隙間にいた私は、この北近畿号が事故車両に突っ込んでいれば確実に死亡していたに違いありません。こうした事実が報道によって次々と明らかになるにつれ、自分の命はいくつもの偶然と誰かの犠牲の上に成り立っているのではないかという思いが強くなってきました。
ゴールデンウィーク中は、出歩く事も出来ず自宅で療養していました。1階のリビングに持って下りた布団で横になるか、安楽椅子に座ってテレビを見ていました。あのような事故が起こった本当の原因を知りたかった事と、いつも同じ車両に乗っていた乗客の安否が気になったので、出来るだけ情報を仕入れるようにしていました。新聞やテレビで遺族の映像が流れると、見知った顔がいないかが気になりました。また、事故現場で助けてあげる事が出来なかった女性の事が頭から離れず、「生きていて…」と願いながら重苦しい日々を過ごしました。遺族の映像を見るたびに、もしかしたら自分の家族がそうした立場になっていたかもしれないという事を考えずにはいられませんでした。事故そのものの悲劇も然る事ながら、その後のJR西日本の相次ぐ不祥事や体質などが明らかになり、「いったいこの事故はどんな結末を迎えるのだろう…」と日々不安がつのりました。同じ事故車両に乗っていた者同士が中々連絡を取り合えない中で、自分だけが周りから取り残されているような感覚を覚えました。
6月19日のJR福知山線の運転再開は、私に予想以上の大きな動揺を与えました。これまでに自分も福知山線を便利に利用していましたので、運転再開の時期についてはある程度理解をしていたつもりでしたが、満員の乗客を乗せて事故現場を通過する電車の姿をテレビで見ると涙が止まりませんでした。この日は昼から出社していましたが、事故後一番憂鬱な一日で、これまでに無い感覚を覚えた日となりました。運転再開により、日に日にこの事故が風化されていくのだろうという事を実感する一日でした。あの路線を利用している全ての人が、あの事故の犠牲者になっていた可能性があるにも関わらず、あんなにもたくさんの人がもうJRを利用し、以前と同じように事故現場を通過している事がとても奇妙に見えてしまいます。これまで私があまり気に留めていなかった事件や事故の陰で、その後、何年にも亘ってこうした心的な苦しみを抱え続けている被害者や遺族がいる事にようやく気づきました。
7月6日、事故後初めて電車に乗ってみる事にしました。約2ヶ月ぶりに乗り込んだ車内で、最初に目にとまったのはブルーの座席でした。救助の時に担架代わりに使われ、折り重なった人の山に絡まって積み重なっていたので、私の記憶に深く刻みつけられています。その後改めて電車の中を見てみると、鉄のポールやステンレスのボディ、プラスチックの壁、クーラーの羽など、一旦事故になると全てのものが鋭利な凶器となり、乗車している人の命を奪うのだと感じました。事故後、自分の車の内装をこうした目で見た事がありますが、ハンドルやダッシュボードには鋭利な裂け方をしないプラスチックが使用されており、事故を起こした時にこれらが突き刺さるだろうという物はあまり見受けられませんでした。これは、自動車は事故を起こすものだという前提に作られているからではないかと思っています。それに引換え、電車にはシートベルトやエアバッグも無く、高速で走っているにも関わらずラッシュ時にはスシ詰めの状態で運行しています。この状態で脱線、衝突すれば、どれだけ車両を頑丈な材質にしたとしても多数の死傷者が出るのは当然の事と言えます。電車が、こうして乗客一人一人の安全に対する設備を提供できない状態で運行せざるを得ない以上、絶対に事故を起こしてはいけないのです。乗客は安全を信じて乗車し、それに身を委ねるしかないのですから。

あの事故から1年半が経過しました。
私が乗車していた2両目。これまでに、何度も事故現場の写真を目にしてきました。無残に折れ曲がった車両の中で、なぜ私は助かったのか。私と亡くなられた方との違いは何だったのか。都会の真ん中で起こった事故にも関わらず、亡くなった家族の乗車位置はおろか、乗車していた車両すらわからないという、この事故の不条理さ。「愛する家族に少しでも近づきたい」という遺族と共に探し続けた「最期の乗車位置」とは、私にとって一体何を意味していたのか。私の妻は、何故遺族にならずに済んだのか。誰かの犠牲の上に、今の私の命、私たちの生活があるのではないのか。私はこの1年半、ずっと考えずにはいられませんでした。
この事故が遺した傷跡は計り知れません。多くの人々の未来を一瞬で奪い、この事故に関わった人々の生活を一変させました。ケガや刻まれた記憶との闘いは、あの事故を直接体験した者にしかわからない痛みかもしれませんが、この事故は、果たして当事者である私たちだけの問題なのでしょうか。あと1時間早いラッシュアワーの只中にあの事故が起きていれば、全く違う乗客が犠牲になっており、更に大きな被害が出ていた事は間違いありません。公共交通機関の「安全」とは、もしかするとそれを利用する私たちが、「安心して乗車できる鉄道の実現」のために、日々「安全」を求め続けてゆかなければいけないのかもしれません。私は、事故の歴史は安全の歴史でもあると信じています。この事故に関わった私たちが、この事故から何を感じ、何を学んだのか。そして何を変える事が出来るのか。当事者である私たち一人一人が、考えて行動して行かなければいけないのではないかと感じています。私たちが事故の記録を残す事によって、こうした被害を受けた者が必要としている「支援の在り方」と「安全の歴史」に、少しでも貢献する事が出来るのであれば嬉しく思います。
2011年12月15日(木)

Macの内蔵HDD入れ替え!

テーマ:ブログ
仕事用に使っているEarly 2008モデルのiMac(システムはSnow Leopard)ですが、内蔵HDDが250GBしかありませんので、iTunesとiPhotoのデータだけでもすでに一杯の状態になっていました。なので、この両方をLANDISK上にデータを置いて、iMacとMacBook Pro、そしてたまにXPでも共用でデータにアクセスしていたのですが、外付けのLANDISKにはMacのTime Machineでのバックアップが有効ではないので、地道にDVDに書き出していました。でも「このままではいかんよな…」と思っていたので、iTunesのデータだけ本体に戻して使っていました。アップルのサポートに電話して相談しても、「iTunesとiPhotoは基本的には本体にデータを保存してください」としか言ってくれません(本体で保存でけへんから相談してるのに)。
iPhotoの方は本体に入れる容量が無かったので、こちらだけそのままLANDISKに入れて使い、半年に一度DVDに書き出して使っていた矢先に(12月だったので、ほぼ半年分のバックアップが取れていない!)、LANDISKが死んでしまってエラいことになりました泣

これらのデータは、コンピュータの専門家の友人がレスキューしてくれたので何とかなったのですが、また同じ失敗をしないようにいろいろ考えましたが、一番簡単でこれまでにも何度か救われた、MacのTime Machineですべてのデータを自動でバックアップ出来て、しかも音楽と写真がサクサク動く方法…となると、内蔵HDDの容量を増やすしか無い!という結論になりました(もちろん、外付けHDDを複数でバックアップしますが)。

そこで、あれこれ情報を集めて自分で内蔵HDDを付け替えることにしました。結論から言うと、作業的には結構簡単でしたが、もちろん静電気などでパシっと来たり、失敗するとすべて自己責任なのでリスクはありますが、すでにこのMacは3年以上こき使っていますので、ダメで元々という気でやってみました。

まず準備したのはWestern Digital社の2TBのディスク。¥11,000也。それとトルクスドライバーという、ちょっと特殊な先端のねじ回し(コーナンで精密ドライバーセットが¥800ほどで売ってます)。それと、¥100均の吸盤2個セット。

…で、いよいよMacの分解。しつこいようですが、ここから先は自己責任です。
iMacは台座の部分が外れないので、本体を安定させるために下にクッションを置いてあります。

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

Early 2008のiMacは、表面のガラス(アクリル?)は磁石でくっついているだけなので、吸盤で引っ張り上げると簡単に外れます。

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

ネジを外して、表面のカバーをあけたところ。上に内蔵カメラが付いているので、そのコードを切らないように注意が必要です。

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

こちら、新たに入れ替えるWestern DigitalのHDD。

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

中には、それなりにホコリが貯まっていますが、思ったほどでもありませんでした。後ほど掃除機で吸いましょう。

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

液晶を外したところ。ここが一番難しいかもしれませんが、注意してやればプラグを外して、またはめるだけです(どれとどれが刺さっていたのかをチェックしておかないと、後で分からなくなりますけど)。液晶を外すと目的のHDDが見えます。Macは、中の配置もきれい!

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

こちらは、HDD表面にテープでくっつけてある温度センサーとのこと。セロハンテープでくっつけてありました!

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

コネクタ類を外して引っ張ると、カパっと外れます。

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

後はアタッチメントを新しいHDDに付け替えて、同じ行程で組み立てて行くだけです。いろんなサイトに書かれていたことですが、最後にガラスをはめるときにどうしても若干ホコリが入ってしまいます。でも、カメラのブロアー(パフパフ)を使って吹き飛ばすとうまくいきました。多少ホコリが入っていても、液晶が光ると全然見えませんので、まぁ、あまり気にしない。

という訳で、きちんとディスクも認識してくれましたし、今は元のデータを転送しているところです。4時間ほどかかるみたい…(今はMacBook Proで書いています)。元々内蔵されていたHDDから2TBの新しいHDDに接続するのに、先日、壊れたLANDISKのデータを吸い上げようと思って購入した、裸のHDDをUSB接続するためのケーブルが役立っています!

とりあえず今回はうまく行きましたが、新しいモデルのMacは分解しない方が良いとのことです。でも、2TBになったからと言って、あまりたくさんデータを溜め込むのもイヤなので、複数の外付けHDDに小まめにバックアップを取るようにします。
2011年11月10日(木)

モーツァルトのピアノ協奏曲

テーマ:音楽
今日、何となくモーツァルトのピアノ協奏曲が聞きたくなってツタヤでCDを借りて来ました。モーツァルトのピアノ協奏曲の何曲かはレコードも持っているのですが、とりあえず有名どころの20番ニ短調と24番ハ短調。

彼の曲で私が好きなのは、ほとんどが短調の曲です。交響曲の25番&40番。ピアノソナタの8番。そして今日借りて来たピアノ協奏曲の20番。彼がこの曲を作曲したのは若干29歳のときですが、人間の心のひだに触れるような何とも言えない響きと完成度を持った作品です。

とりあえず1楽章だけですが、内田光子さんの演奏。



クラシックの曲はちょっと…と敬遠する人も多いのですが、とっても素晴らしい曲がたくさんあります。こんなに素晴らしいものを聴かずに死んでしまうのは勿体ないですよ!
なかなか忙しい現代人には落ち着いて聴く事が出来ないかもしれませんが、1楽章から通して最後まで(基本的には、1楽章~3、4楽章ぐらい)20~40分聴いてみると、なぜこれらの曲がこうやって楽章に分かれて構成されているのかというのが分かるようになると思います。

料理も同じなんですが、一気にがば~っと食べてお腹いっぱいになるのも普段はいいけど、やっぱり食前酒、前菜…という流れやその雰囲気を楽しみたいときもありますからね~。3、40分通して音楽にひたれるのは贅沢なことです。
2011年11月05日(土)

「高槻動物愛護フェスタ2011」での張り子のペイント

テーマ:イベント
今年で4回目の参加となりますが、高槻市立桃園小学校で開催された「動物愛護フェスタ2011」に参加して来ました。

デザインオフィス・コージィとして、毎年、啓発用のイラスト展&プラスαの企画をさせて頂いているのですが、今年はイラスト展を無しにして、張り子のペイントと「世界で一匹だけの大切な家族展」を開催しました。

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

張り子の犬たち30体を先に作って準備し(妻が全部作ってくれました!)、当日、子供たちがそれに思い思いの色を塗って、世界で一匹だけのオリジナルワンちゃんを作る企画です。今回は、それを写真に撮ってその場でプリントし(MacBook Proとプリンタを持って行きました)、名前と性別、年齢と性格を書き、飼い主である自分の名前も書いてもらって展示しました。

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

とっても素敵な犬や猫たちと飼い主さんが誕生しました!かわいい~スマイル

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

仲良し4人組の女の子たちが、何やら真っ黒な犬を作っているな…と思ったら、すごく素敵なサプライズがキャッ☆

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ

正面の顔もかわいいですけど、裏のメッセージを見たとき涙が出そうでしたキラキラホンマに、素敵なメッセージをありがとうはにわ

$小椋 聡@デザインオフィス・コージィ
2011年10月29日(土)

ピアニカとギター

テーマ:音楽
11月15日に、とあるパーティーで妻のピアニカと私のガットギターで演奏をしなければいけないのですが、いつものレパートリーだけではなく、今回は新たな曲をアレンジしています。

前々からやってみたかったラヴェルの「亡き王女のためのパヴェーヌ」。本当に溶けてしまいそうなほど美しい曲です…が、途中からパッぱパッぱと和音が変わり、ギターでうまく弾けるかな・・・・



いつものことですが、サイトウ記念オーケストラの小沢征爾さん、素晴らしい演奏ですね。


それからもうひとつが、超有名なブラームスの「ハンガリー舞曲 第5番」。曲そのものはそれほど難しくはないのですが、急に遅くなったり速くなったりするので、どこをやっているのか見失わないようにしないと…。
でも、キマるとカッコいい!突然町中で、ピアニカとギターを持って弾き始め、ぱっとやってあっという間にどこかに去って行くというのも面白そう。




もう一曲、モダンジャズの名曲。アート・ブレイキーの「モーニン」。これも前々からやりたかった曲ですが、途中からのウォーキング・ベースを弾きながら和音も押さえないといけないので、ちょっと変な押さえ方をしないといけない箇所が出て来ます。
この曲は私がジャズを聴くようになった最初の曲でもありますので、是非是非レパートリーに加えたいよろこび



2011年10月25日(火)

沖縄に行きたい!

テーマ:ブログ
北海道旅行から帰って来て早々ですが、沖縄に行きたい!

そもそも、北海道はこれまで何度か行っていますので(私は学生の頃にも、青春18切符を使って2回行っているので)、今まで行ったことのない沖縄が最有力候補だったはずなのですが、妻のたっての希望といちおう甥っ子の顔を見に行くということで北海道になりました。

沖縄という場所には、観光のリゾート地という意味合いで行ってみたいというのも少しはありますが、私が行ってみたいと思っている大きな理由のひとつが、太平洋戦争で唯一の本土での激戦地であったということがあります。行ってみたい…というよりも、日本人として生きている以上、いつかは必ず行っておかなければならない場所…という方が近いのかもしれません。そう思いながら早くも42歳。

私たちの世代は戦争を知らない。日本の歴史として、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦、ガダルカナル、硫黄島、沖縄戦、そして原爆投下などの出来事は知っていますが、自分の生活の中でそれを実感することはほとんどありません。それほど私たちの世代は平和で、そして物質的に恵まれた世代なのだと思います。

しかし、私のたった二世代前の祖父母の世代はこうした歴史に翻弄され、決して幸せではない青春時代を過ごして来たのでしょう。私の祖父母はまだ健在ですが、子供の頃から「なぜ祖父がいつも戦争の話をするのだろ…」ということに思いを馳せるようになったのは、自分が福知山線の事故で多くの人が亡くなった2両目で生き残ったという経験をしてからです。事故直後はこの事故のことで手一杯でしたが、少し落ち着いた頃から、世の中にはいろんな事件・事故で理不尽に命を奪われた被害者の遺族が生きていて日常の生活をし、日航機の事故のように524人の乗客の内、たった4人しか生き残らなかったその生存者は、どんな気持ちで日々生きているのだろう…ということを考えるようになりました。そのときに初めて、私の祖父がなぜいつも戦争の話をしていたのかを知りたいと思うようになった。

そして、沖縄や広島、長崎をはじめとして、日本の中には、こうした経験をした人たちが今も私たちと同じ社会の中で生きて生活をしているということを、ある意味、初めて実感するようになりました。沖縄の地上戦で家族を奪われ、生き残った人たちが、ネットが完備されスマフォでピコピコやって、お金さえ出せば何でも買うことができるこの時代に、自分と一緒に共に生きているというのはどういうことなのだろう…。私は今まで、何にも知らず、何にも考えずに生きて来たのではないでしょうか。

人の苦悩とは何か、記憶とは何か、生きるとは何か…それを乗り越えた幸せとは何か、この歳になって少しだけ目を向けることが出来るようになったような気がしています(ちょっと遅いですけど)。

そうしたこともあって沖縄に行ってみたい。
でも、せっかく行くなら美味しいものも食べたいし美ら海水族館も行きたい!海で泳ぎたいとは思わないけど、琉球王朝という独自の文化が育まれ、いつも台風の影響を受けながらもそれと共存し、戦争に巻き込まれて今でも基地の問題を抱え、そういった日本人がその土地で生きているというエネルギーを感じてみたい。

Amebaおすすめキーワード

    1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
    アメーバに会員登録して、ブログをつくろう! powered by Ameba (アメーバ)|ブログを中心とした登録無料サイト