私たちはひとつの存在の一部だ
誰を傷つけるとしても
長い日で見れば、それは自分自身を傷つけていることになる
今日はそれに気づかないとしても
いつの日か、もっと目醒めたときにあなたは言う
「何ということだ!
これは私がつけた傷ではないか ――
しかも自分自身に対して」
あなたは人は別々の存在だと思って
ほかの人を傷つけていた
誰ひとり別個ではない
この存在全体はひとつ
宇宙的な統合体だ
この理解から非暴力が生まれる
「ゴールド•ナゲッツ」
「非暴力」というのはサンスクリット語でアヒムサーといいますが、ガンジーが推奨した運動としても有名です。
ヨーガではヤマ(禁戒)の一番めに揚げられる戒律でもあります。非暴力だけではなく、不殺生も含むので、そこから菜食主義ということもでています。
仏教でも不殺生戒というのがあるので精進料理も菜食です。
非暴力というのは、肉体的な暴力だけではなく、精神的な暴力についてもいえるので、肉体的に人を殴ったり、危害を加えたりすることだけではなく、言葉などにおいても人に不快な思いをさせたり、感情的に傷つけるような行為をしないということも含みます。
そしてこれは他人に対してだけではなく自分に対してもいえるので、自分を非難したり、批判したり、ジャッジしたりして、自分で自分を傷つけることもアヒムサー(非暴力)ではゆるされないことになります。
これらの理解はどちらかといえば、ヨーガや仏教などの戒律などの知識からの理解にしか過ぎません。
しかし、の非暴力が「私たちはひとつの存在の一部だ」ということの理解からのものだというのは、全く次元の異なる理解です。
アメリカインディアンの知恵に次のような言葉があります。
「この大地は人間に属するのではない
人間が大地に属している
すべてのものはつながっている
ちょうど血が我らすべてをひとつにつなげているように
人間がいのちの蜘蛛の巣を編んだのではない
人間は、その蜘蛛の巣の中に立っているに過ぎない
彼が蜘蛛の巣に対してすることは
自分自身に対してすることになる」
つまり「いのちはすべてつながっているので、そのいのちに対してすることは、自分に対してすることに他ならない」ということを言っています。
この知恵があれば、現在人間が地球や動物、そして人間に対して行なっている暴力、つまり環境破壊や戦争やむやみな動植物への殺傷はないでしょう。
これらはただひとつの理解
誰ひとり別個ではない
この存在全体はひとつ
宇宙的な統合体だ
ということからのものなのです。
ヨーガや仏教の戒律からの理解は、知識やマインドからの理解です。
しかしこのOSHOの言葉やアメリカインディアンの知恵は瞑想から生まれてくる理解です。
この理解の違いを知るためには「意識の多重構造」助けになります。
この意識の多重構造の図を見るとわかるように、外側の層ではそれぞれの肉体があり、個が分離している世界です。
そこでは二元対立があり、競争や争いがありマインドの世界、知識の世界です。
しかしその中心にはすべてがひとつになっている世界があります。
すべての存在全体とひとつであるということがわかる世界があります。
それが瞑想のなかで得られる世界です。
その瞑想から得られた非暴力の理解では、
私たちはひとつの存在の一部だ
誰を傷つけるとしても
長い日で見れば、それは自分自身を傷つけていることになる
のです。
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